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 ベルデ国は湯治客が多い事でも知られ、怪我人や病人が諸外国から訪れるのも珍しくない。エイレーネ達は出国の理由を尋ねられたら、それを使おうと考えた。ジェーンがアリアを背負い、三姉妹のふりをして通り抜ける作戦を立てたのだ。ところが、出国は拍子抜けするほど呆気なく終わった。怪しまれる事すら無かったのである。無事に通過した三人は、カルム王国とベルデ国を繋ぐ橋の途中で、安堵の吐息をついていた。


「ふぅぅ…どきどきしたぁ…」

「ごめんね、ジェーン。疲れてるのに背負わせて…」

「ううん。平気平気」


 二国を結ぶ橋は、向こう岸が見えないほど長い。エイレーネ達は中央付近まで進んだはずなのに、ベルデ国の砦はまだ豆粒のようにしか見えなかった。


「わっ…馬車が通ると、けっこう揺れますね」

「そうですね。壊すことを前提として造られた橋ですから」

「えっ?そうなんですか?」

「戦争時を想定した場合の話です。大河に架かるこの橋を落とし、敵の侵攻を防ぐのが目的なのですよ」

「へぇ!さすが姫様は物知りですね」

「しかしカルム王国は航海技術が随一ですから、河を越えるくらい造作もないでしょう…」


 ベルデ国は戦いの火種を減らす為、王女達を他国へ差し出してきた。此度の件で戦争という大事には至らないだろうが、こんな形で祖国に戻った王女を、家族や国民はどう思うのだろうか。エイレーネは憂慮の面持ちを散らすことができなかった。




 陽が傾き、閉門の時刻が迫るのを待ってから、三人は砦に近付いていった。もう行き交う人々はおらず、橋の上にはエイレーネ達しか居なかった。当然の手続きとして、入国許可証の提示が求められる。


「申し訳ございません。許可証は持っていません」

「ならばここを通すことはできない。引き返すがいい」

「不法侵入者を置く牢で構いませんゆえ、通していただきたいのです」

「我々は身元も証明できぬ不届き者から、国を守るのが仕事だ。例外など無い」


 交わされる物々しい会話はベルデ国の言語である為、アリアとジェーンにはさっぱり理解できなかった。それでも相手の剣呑な雰囲気は伝わってくる。二人は不安げに身を寄せ合い、エイレーネを見つめるしかなかった。

 するとエイレーネは徐に一歩を踏み出した。衛兵達が素早く槍を構えたので、見守っている侍女達は思わず悲鳴を飲み込んだ。

 松明の灯りが夕闇から少女の姿を浮き出させる。彼女が隠していた髪を解くと、腰まで覆う豊かなそれが露わになった。松明のおかげが、いつにも増して橙色が際立って映る。


「申し遅れました。わたしはかつて、エイレーネ・メイ・ベルデと呼ばれていた者です」


 格好こそ草臥れた町娘のようであった。しかし、凛とした声音、背筋を伸ばしたその佇まいからは確かな品格が感じられる。エイレーネという名、そして彼女を象徴する印象的な髪色に、衛兵達は騒然となった。


「エ、エイレーネ様っ!?ほ、本当に…!?」

「カルム王国に嫁がれたはずでは…!?」

「はい。しかしながら緊急の問題が起きまして、急ぎこちらへ渡ってきたのです。入国許可証の発行も待たずに舞い戻ったのは、不徳の致すところです」

「いえ、そんな…いやしかし…」


 生憎と衛兵達は王女であった頃のエイレーネを見た事がなく、話に聞いていたのみだった。だからエイレーネと名乗る少女が現れても、真実かどうか知る術を持ち合わせていなかった。ここで、戯言を申すなと追い返すのは簡単だが、もしも本当にエイレーネ王女であったなら、取り返しのつかない事になる。衛兵達は戸惑いながら顔を見合わせた。


「…一年前と変わりがないのであれば、この一帯はウェイド将軍が指揮を執っていたと記憶しています。お手数をおかけしますが、将軍を呼んではもらえないでしょうか」


 指揮官の名を言い当てられた事で、信憑性が増したのだろう。衛兵達の顔色が一変する。


「は、はい!ただ今!お前はエイレーネ様を中へお通しするんだ!」

「了解であります!エイレーネ様、どうぞこちらへ…」

「感謝いたします。ですが、先程も申し上げた通り牢屋で結構です。不法侵入を犯す事に変わりはありません」

「と、とんでもないです!エイレーネ様を牢に入れるなどと!」

「規則を破るのですから当然の処置です。わたしの処遇より、侍女の手当てをお願いします。二人とも体に障害を抱えながら、ここまで共に来てくれたのです」


 衛兵達の疑念は、もうすっかり晴れていた。自分の身よりもまず侍女を気遣うこの方こそ、ベルデ国民が愛した心優しき王女様だと、確信までしていた。

 その後、牢に入るべきだと主張するエイレーネと、それはできないと拒む衛兵とでささやかな押し問答が起きた。しかし最終的には、涙目になった許しを乞い始めた彼らに対し、強情を張れなかったエイレーネが折れる形で決着したのだった。


 一番良い部屋を用意されるのだけは頑なに辞退したエイレーネは、屯所の一室に案内された。そこで彼女は侍女の二人に少し休むよう勧めた。


「姫様を差し置いて私達だけ休むなんて…」

「二人がいてくれたから、無事にここまで来ることができました。本当に感謝しています。今度はわたしが頑張る番です」


 口では遠慮の言葉を述べたものの、二人の体は疲労を訴えている。更に本音を言えば、久方ぶりの寝台に先程から吸い寄せられ、抗い難さをひしひし感じていた。その上でエイレーネに優しく促されたら、誘惑に打ち勝つ手立ては無くなる。アリアとジェーンは寝台に倒れ込むと、あっという間に寝息を立て始めたのだった。

 それから三時間ほど待っただろうか。ばたばたと忙しない足音が複数聞こえてきて、エイレーネは椅子から腰を上げた。間もなく扉が叩かれたので、どうぞと返事をする。入室してきたのはウェイド将軍と呼ばれていた、やや壮年を過ぎた男であった。


「夜も深くなるという時間に呼びつけた事、謝罪いたします。お久しぶりですね、ウェイド将軍」

「ああ…!エイレーネ様っ!報告を受けた時は何事かと思いましたが…お久しゅうございます」


 将軍はエイレーネをひと目見るなり、恭しく跪いた。彼が連れてきた部下達も即座に同じ姿勢をとる。


「正規の手続きも取らずに戻った挙句、大勢の方々に迷惑までかけて…申し訳ありませんでした」

「滅相もございません。エイレーネ様に頼っていただけた事を光栄に思います」

「お父様……国王陛下に書簡をお送りしたいのですが、頼まれていただけますか?」

「勿論でございます。それまではどうぞ、我が屋敷にてご滞在を」

「ありがとうございます。将軍のご厚意に甘えさせてもらいますね」


 熟睡していたアリアとジェーンは、話し声程度で目覚める事はなく、起きた時には立派な屋敷に居た。しかも未だ土埃まみれの自分達とは違い、きちんとした格好のエイレーネを見つけて、混乱が極まる。ベルデ国の装束を纏い、髪を結い上げたエイレーネはいつもと雰囲気が異なり、二人の戸惑いは大きくなる一方だ。その様子に気が付いたエイレーネは、落ち着かせるようゆったりした口調で、経緯を伝えたのだった。


「将軍が二人の衣装も用意してくださいましたよ。まずは湯殿で疲れを癒やしてきてください」


 そう言われるがまま湯浴みに行ったはいいが、孤児院育ちの平民であるアリアとジェーンは、他人に体を洗われるという初めての体験をする羽目になった。ウェイド将軍は屋敷に多くの使用人を抱えており、有能な彼らはエイレーネから二人の身体障害について聞き、善意で手助けしてくれたのだ。しかしながら、世話を焼かれる事に全く慣れていない二人は、真っ赤になって慌てふためいた。残念なことに言葉が通じない為、彼女達が何を恥ずかしがっているのか相手に伝わらないまま、全身をくまなく洗われたのだった。

 湯殿から出てしばらくはぐったりしていたものの、用意されていた衣装を見るなり、アリアとジェーンは目を輝かせた。お仕着せではない素敵なドレスを着るのも、生まれて初めての体験であったのだ。一つだけ言わせてもらえるなら、着替えだって自分達でできたのだが。


「二人ともよく似合っていますよ」


 エイレーネに褒められたら、湯殿で覚えた羞恥心も薄れてしまった。


「姫様、姫様!ベルデの言葉で『ありがとうございます』はなんて言うんですか?」

「私も教えていただきたいです」

「もちろん構いません。ではまず、挨拶からですね」


 勉強熱心な二人のために、エイレーネはここでも臨時の授業をおこなった。そうしていると、まるであの古城に帰ったかのような気分になれたのだった。




 エイレーネの父、即ちベルデ国王は娘との謁見の場を速やかに設けた。豪華さという点においてカルム王国には及ばないものの、王宮独特の重厚感は似通っていた。玉座を前にかしづくエイレーネと共に、アリアとジェーンも無言で倣っている。国王に何を述べているのか分からないが、とても親娘の対面とは思えず、二人は何故か手に汗を握ってしまう。

 ところが人払いがされた途端に、ベルデ王は玉座から立ち上がって自ら娘の元へ行き、再会の抱擁を交わすのであった。


「もう案ずる事はない。よくぞ無事であった!」

「…陛下。誠に申し訳ございません。他国に嫁いだ身で、逃げ帰るような事をしてしまい、お詫びのしようもありません」

「事情は聞いた。お前のせいではないだろう。そう自分を追い詰めてはならぬ。どうか昔のように父と呼んでおくれ。可愛いレーネよ」


 ベルデ王のすぐ側にいた王妃は、ごく小さな笑みを浮かべて娘の背中に手を添える。エイレーネ直筆の書簡には、隣国で何が起き、誰の関与があったのか、端的に記されていた。カルム王家の一員となったエイレーネは、赤裸々に内情を明かす事は避けていたものの、女性としての尊厳が踏み躙られる瀬戸際であった事は読み取れた。何よりも窶れて体の線が細くなってしまった娘の姿は、苦難の程を雄弁に語り、国王夫妻は胸が痛んだ。


「あっ、待ちなさい!まだ父上と母上が…っ」

「お姉さまー!!」

「あねうえ!!」


 人払いが済んでいたはずである謁見の間の扉が突如として開く。雪崩れ込んできたのは、エイレーネの弟妹達だ。嫡男のアーロンが待ったをかけたが、間に合わなかったらしい。末子の手を引いているからだろう。アーロンは姉に向かって駆け出す妹と弟を、一番後ろから追い掛けている。

 エイレーネは抱き着いてきた幼い弟妹の頭を順番に撫でていった。彼女の瞳は慈愛に満ちている。


「すみません…姉上」

「良いんですよ。わたしも嬉しいですから。アーロン、元気でしたか?」

「はい。変わりありません」


 姉と弟という性差はあるが年子の為か、エイレーネとアーロンは家族の中でも特に仲が良かった。優しげな顔立ちは血筋を感じさせ、髪色についてはそっくりだ。


「姉上はなんだかお綺麗になりましたね」


 痩せはしたが、少し見ない間に姉は一段と美しくなった気がして、アーロンは素直に言葉に出した。


「そうですか?アーロンは女性を褒めるのが上手になりましたね」

「か、からかわないでください」

「ふふっ、ごめんなさい。背が伸びて男らしく見えますよ」

「本当ですか?自分ではよくわかりませんが…」


 期間にしておよそ一年、離れていただけなのにアーロンは少し大人びていた。彼が手を繋いでいる末の妹はまだ歩けなかったのに、その成長の速さには驚かされるばかりだ。エイレーネはある種の寂しさを覚える。


「お姉さま。ごいっしょに、おさんぽしましょう!」

「ぼくにご本を読んでください!」


 幼い妹や弟に難しい事は分からない。とにかく大好きな姉が帰ってきたのが嬉しくて、エイレーネに引っ付いているのだ。


「姉上は長旅でお疲れなんだ。我儘を言うんじゃない」


 アーロンは頬の痩けた姉を気遣い、下の子達を嗜める。久しぶりに甘えたい気持ちは理解できるが、負担になってはいけないという一心だった。


「大丈夫です。お散歩に行きましょう。そこでご本も読みますよ」

「姉上!でも…」

「…何かしている方が、気が紛れるのです」


 エイレーネはアーロンにのみ、聞こえるよう囁く。顔色が優れない原因は、疲労だけではない。ずっと、ずうっと、リファトの身を案じ続けている。彼を置いて逃げた己を、責め続けているのだ。弱々しく微笑む姉に、アーロンはそれ以上言葉を掛けられなかった。




 エイレーネの弟妹というだけあって、ベルデ王室の子供達は皆おしなべて朗らかで気立が良い。アリアとジェーンにもすぐに懐いていた。二人が年少者の扱いに長けていた為かもしれないが、いずれにせよ、ひたすら穏やかに時間が流れていく。

 そんな中でエイレーネだけが、元気を取り戻せないでいた。人前では普段と変わりなく過ごしている。けれども両親とアーロンだけは、エイレーネが無理に笑っている事を見抜いていた。彼女も彼女で、隠し切れていない自覚はあるのだろう。母に謝る後ろ姿を、アーロンは目撃していた。子供達の教育にはいっとう厳しい母だが、この時ばかりは娘を責めずに労わっていた。それでもエイレーネの顔から、憂いが取り払われる日は来ない。


「…姉上。お隣よろしいですか?」

「ええ。どうぞ、アーロン」


 エイレーネは以前もそうしていたように、時折ひとりで庭園に出て行った。春はもうすぐそこまで来ている。しかし彼女は気ままに散策するでもなく、花を摘む事もなく、各所に建てられた四阿でぼんやりと腰掛けているだけだった。その虚ろとも思える横顔を見つけたアーロンは、何とも言えぬ気持ちになったのだ。


「あまり思い詰めないでください。姉上がしょんぼりしておられると、花達も一緒に項垂れている気がします」


 そんな事はないですよ、とエイレーネは力無く笑った。


「…そう言えば、ネモフィラ畑は残してあるのですね。一年草ですから、もうあそこには違う花が植っているとばかり」

「姉上が大切にされていましたし、何より一面の青色は圧巻でしたから、無くしてしまうのは惜しくて。今は母上がお世話しておられます」

「そうですか。お母様が…」

「姉上こそ、本物の海をご覧になったとか。念願が叶ったんですね」

「はい。とっても素晴らしかったです」


 エイレーネは遠くを見据えたまま目を細めた。微笑をたたえているけれど泣きそうな、儚げな横顔。初めて目にする姉の表情だった。

 それから彼女が再び口を開くまで、少しの間があった。


「…大好きな場所ですのに、ここにいるのがひどく苦しいのです」


 エイレーネの声は、風に攫われてしまいそうなくらいか細く、掠れていた。聞いているアーロンにも、その息苦しさが伝わってくる。


「わたしがここで家族に守られている今、殿下はご自分の家族から傷つけられている……なぜ、リファト殿下ばかりが虐げられねばならないのでしょう。なぜ、家族を踏み躙ることに心が痛まないのでしょう」


 エイレーネは胸元を握り締める。彼女の指先は力の入れ過ぎで真っ白になっていた。


「…殿下は、わたしが無事でなければ生きていけないと、仰っていました。でも…わたしだって…っ、わたしこそ、今にもどうかなってしまいそうで…っ!」


 涙を伴わぬ慟哭が、アーロンの胸を抉る。

 離れ離れになっても姉弟で手紙のやり取りはしていた。どこで検閲の目が入るか分からないので、お互い差し障りの無い事しか綴れなかったが、姉の手紙からは穏やかな幸せを感じた。最初の数ヶ月こそ、時候の挨拶とベルデ家の息災を願うだけだったものの、次第に彼女の喜びが伝わる内容へと変わっていったのだ。何かと噂の絶えない第四王子に嫁いだ姉が気掛かりだったが、届く手紙を読むうちにアーロンの心配は薄らいだ。

 アーロンから見たエイレーネは、自分の気持ちはすぐ後回しにして、どんな時でも姉らしく在ろうとする人だった。姉が弟妹達の為に悲しむ事はあっても、己の辛い心情を吐露する事はしなかった。姉はいったい何時、本当の自分を見せるのだろうかと、考えた日もあった。しかし帰って来た姉はどうか。弟を前に、抱え切れない想いを曝け出している。アーロンは同情を覚えつつも、姉の変化を少しだけ嬉しいと思ってしまった。


「…姉上は、リファト王子を本当に愛しておられるのですね」


 言葉による返答は無かった。けれど姉がしかと頷くのを、アーロンの両眼は見たのである。

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