20
王妃の私的な呼び出しが行われるのは、さして珍しくない。王妃は社交的な催しを好み、サロンだの茶会だの様々な名目で貴人達を集めている。だが例外もある。それがリファトだ。腹を痛めて産んだはずの子を憎み、恨み、目の敵にしている王妃は、鬱憤を晴らす為だけにリファトを呼びつける事がしばしばあった。今回の登城命令の真意は不明であるが、確実に言えるのはただでは済まないという事だ。
「まだ病み上がりですのに…!せめてユカルだけでも、連れていってください…っ」
「大丈夫ですから、レーネ。落ち着いて」
王妃ニムラとはいかなる人物であるか、彼女が贔屓にする息子を見れば察するに余りあるというもの。細事を知らぬエイレーネでさえ、少なからず懸念を抱いてきたのだ。リファトは文字通り、身をもって理解している。
「書状には私ひとりで来いと書いてありました。ユカルを連れて行けば、彼が殺されてしまうでしょう」
「……っ!」
行かないでほしい、と胸が張り裂けんばかりに願えども、命令に背けばそれこそ命は無い。告げられぬ歯痒さが、リファトに縋り付く両の手の震えに現れていた。
リファトは愛しい彼女を腕の中へ抱き込んだ。己に待ち受けているであろう過酷な仕打ちについては、何の心配もしていなかった。唯一の心残りは、この城に置いていくエイレーネのことだけだった。
「レーネ。聞いてください。母上は私を殺したいほど憎んでいますが、私は今日まで生き延びてきました。きっと何か、殺せない理由があると私は思っています。だから私の事は構わないで、どうか貴女自身の身を守る事だけに専念してください」
「……できません、そんなこと…」
「それでも、そうしてください」
「…いや…嫌ですっ」
首筋に当たる柔らかな髪の感触に、リファトの心は温かくなる。彼は己の肩口に埋まる橙色の頭に頬を寄せ、目を伏せた。
「お願いです。貴女が無事でなければ、私は生きていけない」
優しさに包まれた囁きが、エイレーネの耳元に溶け込む。そんな声色で懇願されてはもう、嫌なんて言えないではないか。
リファトは微かに揺れる橙色の頭をひと撫でした後、ユカルに視線を投げた。
「ユカル。少しでも危険を感じたら、ここから逃げなさい。何も持たなくて良い。必ずエイレーネを守れ」
リファトの語り口は、どこか予告じみていた。古城に居ることが必ずしも安全とは限らない。狙われているのはリファトではないのかもしれない。その事を示唆されたユカルは気を引き締めて「御意」と答えた。
それからリファトは再びエイレーネに向き直り、一つの約束を口にするのだった。
「私は貴女に会うため、必ず戻ります」
のろのろと顔を上げたエイレーネは瞳に涙を溜めつつも、泣き出すことはしなかった。いっそ泣きじゃくってくれた方がまだ良かった程、切なく痛ましい表情だった。
「…また、海を見せてくださいね…っ」
冬になる前に何度か海へ行った。一緒に砂浜も歩いたし、二人して砂が付くのも構わずしゃがみ込んで貝殻を拾った。同じ海を見ているはずが、訪れる度に新たな感動を覚えた。それから帰り際には決まって、また来ましょうねと約束するのだ。たった数ヶ月前の思い出が、エイレーネの胸を焦がす。
「はい。貴女を抱えて、連れて行きます」
リファトは初めて海を見に行った日を想起させるかのように、エイレーネの額に口付けを落とすのであった。
エイレーネは花が綻ぶように笑う少女だ。しかし無条件にそうなる訳ではない。リファトという穏やかな光を受けてこそ、愛らしく開花するのである。優しい恵みを得られない花は、徐々に萎れていく。
しかしながら、エイレーネが心配のあまり寝込んでしまう、なんて事態に陥る事は無かった。彼女は第四王子妃として城を管理し、しっかりと留守を守っている。ただ、淡い微笑に哀愁が見え隠れするのだ。心ここに在らずといった面持ちで窓外を眺める彼女の、なんと悲愴なことか。朝も昼も夜も窓辺に跪いて祈りを捧げる姿は、健気でいじらしい。それでいて使用人の前に立つ時は、王族たる振る舞いを崩さないのだから、傍で見守るユカル達も遣り切れなくなる。
「ああ!ユカル!丁度いいところに。今から呼びに行こうと思ってたんだよ」
「マルコ殿。俺に用事ですか?」
ユカルは小難しい顔をして歩いていたところを、料理人のマルコに呼び止められた。
「いやなに、用事というか報告だよ。注文しておいた荷物が届いたんだが、妙な物が紛れ込んでいてな」
「妙な物?」
「これだよ。頼んだ覚えはないんだ」
そう言いながらマルコが持ち上げた木箱には蜂蜜酒が四本、隙間なく入っていた。コルクには小さな王冠が描いてある。だが奇妙なのは、そのうちの一本が空の容器だった事だ。
「…蜂蜜酒なんて、お二人とも召されないはずだが」
「そうなんだよなぁ。オレも店側の手違いかと思って何度も確認したんだが、届け先はここで間違いないって言われたよ」
すでにそこはかとなく怪しいのだが、一本だけある空瓶が尚のこと不審を煽る。何らかの意味合いが隠されている気がしてならない。
「新婚祝いにしたって、もう時期外れだしなぁ」
「…何だって?」
「ん?ユカルは知らないか。蜂蜜酒は多産にあやかれるってんで、新婚夫婦が作ったり、お祝いに贈ったりする風習があるんだ。まあ、オレもこっちに来てから知ったんだが」
贈り物なら差出人の名前があるはずだ。やはり手違いだろうか。
「香りからしてもこれ、かなり上等な蜂蜜酒だよ。どこかのお貴族様が届けてくれたのか…うぅむ」
二人してあれこれ考察していたが、やがてユカルは一つの回答を弾き出し、血相を変えた。
「……妃殿下が、危ない…」
そう呟くや否や、ユカルは勢いよく床を蹴っていた。
四本の蜂蜜酒が四人の王子を示唆し、空の容器は四番目の王子を表しているとしたら。
空の容器は用済みとなり、三本分の蜂蜜酒が穴埋めする……即ち"リファトは処分され、アンジェロが空席を補う"という暗示では無いのか。アンジェロがエイレーネを寝取れば、さながら新婚の男女となる。祝いの酒を贈る大義名分も立つだろう。
だとすればこれは警告だ。第三王子が弟の妃を奪いにやって来る、という。
「…すぐにでもここを離れましょう」
ユカルは不審な荷物について、己の考察も含めてエイレーネに報告した。いったい誰が何の為に、それを考えるのは今ではない。第三王子が襲来する可能性があるのなら、逃げなければ。権力を楯に取られてしまえばエイレーネ達は抵抗できない。義妹に手を出すなど神への冒涜も甚だしいが、強行できてしまう力が彼方には有る。
「分かりました」
ユカルの進言を、エイレーネは顔色も変える事なく受け止めた。義兄が貞操を奪いに来るかもしれぬと言うのに、驚くほどに冷静だった。
「皆への説明はわたしから致します。あなたはアリアとジェーンと共に、旅支度を整えてください」
普通、身の危険に気付いた人間は、多少なりとも狼狽するものだろう。ユカルのように鍛えられた男ならまだしも、非力な少女なら恐怖に震えてもおかしくない。しかしエイレーネは動揺を見せることなく毅然としていた。てきぱきと動き指示を飛ばす様を、ユカルは半ば呆然と目で追った。凄まじい胆力だと感服するのと同時に、リファトの隣にいる時だけは甘えを見せていたのだと知る。心の全てを預けていた彼が居ない今、エイレーネはただひたすら王族という役割に徹しているのだ。
いったい彼女のどこに、愛を疑う余地があるのか。こんな時なのにユカルは何だか悔しくなってしまった。貴方がいるのといないのとで、こんなにも彼女は変わってしまうのだと、リファトに見せつけてやりたかった。
エイレーネは宝物庫の鍵を手にし、ポプリオとマルコを呼んだ。金目の物は少ないが、使用人達が路頭に迷わぬよう配当してほしいと、その鍵を二人に託す。それから、使用人一人ずつに詫びと感謝を伝え、頭を下げた。戻って来られるか分からない上、ここで働いていたという理由で危害が及ぶかもしれない。だが、皆から上がったのは不満ではなく、エイレーネ達の無事の帰りを願う声のみだった。
城を捨てて逃げる旨を聞かされたアリアとジェーンは青褪め、不安に顔を曇らせた。けれども二人は震える手で黙々と作業に取り掛かった。エイレーネは初めから過酷な日々の訪れを予告していたはずだ。覚悟の程が試される時が来たのだと、二人は思った。
「姫様、こちらにお召し替えを」
「御髪も隠します」
侍女二人の手を借り、エイレーネは町娘に変装する。目を惹く髪も一纏めにして隠された。残る問題はどこに身を隠すか、である。ギヨームをはじめとする知人を頼れば、快く匿ってくれるに違いない。しかし手引きしたと知られれば、拷問にかけられてしまうだろう。何よりエイレーネが強く反対した。そうなると一箇所に留まらず、追っ手を撒きながら逃げ回るしかないが、いつまで持つかどうかは運任せとなる。
「…馬車は目立ってしまいますから、途中で乗り捨てることになるでしょう。その後は自分の足で進むしかありません」
ユカルから絞り出されたのは苦肉の策だった。あてどなく彷徨い歩き、夜逃げのような真似や野宿をエイレーネに強いるなど、過酷にもほどがある。けれども彼女は躊躇しなかった。
古城に来てから、まだ一年も経っていない。けれどもうすでに、ここには沢山の思い出が詰まっている。リファトの帰りは、この城で待ちたかった。この場所を去る辛さは筆舌に尽くし難い。だけど夫以外の男に、ましてやアンジェロに体を暴かれ穢されるのは死んでも耐えられないのだ。
親しい者達との別れもそこそこに、エイレーネは三人の供を連れて古城を去る。目立たぬ質素な馬車に、これほど有り難みを感じた日は無かった。
ユカルが立てた計画に従い、馬車は走れる道が続くところまで夜通し駆けた。そうして辿り着いたのは、聞き慣れない地方の名も無き森。馬はユカルが路銀に換え、荷台は茂みに放置する。しかしここへきて、アリアが唐突に口火を切った。
「…私はここでお別れします。これ以上は…姫様の足手まといにしかなりません」
「アリア…ッ!」
すぐに批難めいた声を出したのはジェーンである。どんな時も離れまいと約束した親友が、呆気なく別離を願い出たのだ。だが、暗い顔で俯く親友の気持ちは分からなくもない。ここからは体力勝負であるのに、片足が不自由なアリアでは付いて行くのがやっとどころか、一行の負担にしかならないだろう。足を引っ張るくらいなら置いていってほしい。主人を、友を、本当に想うからこそ出た言葉だった。
「あたしが背負って進む!だからっ」
「ジェーン。静かに」
「姫様…っ」
珍しくエイレーネに嗜められたジェーンは、悲しげに唇を引き結ぶ。今度ばかりは我儘を通してはいけないとジェーンも分かっていた。アリアが行けないなら、自分が侍女としての役目を果たさねばならない事も承知している。親友をここで切り捨てるのが、逃亡の速度を上げるのに繋がると理解できてしまうから悲しいのだ。
「『侍女とは主人と運命を共にする者』。そう話してくれたのはアリア、あなたですよ」
「えっ…」
「姫様…」
「あなた達は二人とも、わたしの大切な侍女です。職を辞すその日まで、わたしと共に来てください」
エイレーネにふわりと微笑まれ、アリアは思わず涙ぐんだが、尚も首を横に振ろうとする。それを制したのはジェーンだった。親友の両肩を掴んだ彼女は、少し低い声を出した。
「約束したよね。あたしがアリアの足になるって。わがまま言ってアリアに引っ付いてきたんだから、一日中だって背負って走るよ」
ね?と首を傾けたジェーンに対して、アリアは震える声で「うん」と返すのがやっとであった。
街中を歩くのは精神的な苦痛を伴った。巡回の騎士を見かけるたびに物陰へ隠れ、人の視線を感じるたびに神経を尖らせなければならないからだ。第三王子の手先がどこに潜んでいるか定かではない以上、向けられる視線全てを疑ってかかるくらいの用心が必要であった。
逆にひと気の無い森を抜けるのは体力的に厳しいものがあった。ユカルは平気でも、足元が悪い場所はアリアとジェーンの苦となり、エイレーネの息が上がるのも早い。アリアの事はジェーンがどうにか補佐したが、エイレーネの事はそうもいかなかった。ユカルの両手を塞いでしまったら、不意を突かれて襲われた時に対処が遅れてしまう。エイレーネは黙々と足を動かすしかなかった。しかしながら小休憩を挟んだ折には、決まって付いてきてくれた三人の事を気遣うのだ。一日の終わりに感謝を伝えることも忘れなかった。今日もありがとうと微笑むエイレーネに三人は励まされ、力を貰った。絶対に主人を守り抜くのだと結束を強め、来る日も来る日も道なき道を進んだ。
昼は薄暗い洞窟で足を休め、夜間に街を抜ける事も多々あった。頼りない月明かりの下では地図が使えない。ユカルの勘を頼りに進むしかないと思いきや、なんとアリアは夜空の星を読むことができた。しかも彼女の星読みは正確だった。親友の知られざる特技にジェーンは驚き、エイレーネ共々賞賛を贈った。褒めちぎられたアリアは、無数の星が瞬く空を背にして照れたように笑うのだった。
「父が行商人だったので、家族が生きていた頃は色んな所へ出掛けました。朧げですが、夜空を見上げる父の姿を覚えています」
アリアが家族を亡くしたのも、行商の途中であった。荷馬車が崖崩れに巻き込まれたのだ。当時五歳だったアリアだけが車外に放り出され、辛くも助かった。
「お父さんが教えてくれたこと、ずっと覚えてたんだ!すごいなぁ!」
「ううん。私が覚えてたのは"星を見上げれば進む先が分かる"って事だけよ」
感心するジェーンには悪いが、どの星座がいつ、どこの方角に浮かぶかなんて、アリアはまるで覚えていなかった。
「じゃあどうやって…」
「姫様のおかげなの」
「わたし、ですか?」
「はい。姫様が読み書きを教えてくださったから、星座の本を調べることができました。ずっと知りたかった事を学べたんです」
目を瞬かせるエイレーネへ、アリアにしては珍しい誇らしげな顔を向けたのだった。
逃亡生活が長引くだけ路銀は減る一方だ。次第にエイレーネ達は毎日野宿するようになった。野宿といっても、木の根を枕に転がるのが精々である。まともな寝床で眠ったのは、果たして何週間前だったか。体も満足に拭けず、充分な睡眠時間も確保できず、冬の寒さが残る夜を薄い毛布にくるまって耐える。そんな日々でもエイレーネは愚痴の一言はおろか、溜息の一つすら吐かない。
「リファト殿下は今この時も、お一人で耐え忍んでおられるのです。わたしが弱音を吐く訳にはまいりません」
王妃のもとにいるリファトがどうしているか、洞窟の中では情報は何も入ってこない。しかし、離れていても同じ敵を相手に闘っているのだから、とエイレーネは気丈に前を向き続けた。
ユカルは流石というか、数日程度眠らずとも動く事が可能だった。くぐってきた修羅場の数が違うのだ。とはいえ、彼にも休息は必要だった。彼が目を閉じている間は、ジェーンが見張りを務めた。彼女はユカルほど人の気配に敏感ではなかったものの、ユカルより耳が良い。話し声や獣の足音といった異変を伝える音を、ジェーンは絶対に聞き逃さなかった。
そうやって紙一重ながらも追っ手から逃れてきたが、いよいよ限界が近付いていた。食べ物を買いに立ち寄った街でジェーンの耳は、騎士団が四人組を探している、との声を拾ったのである。その街は王宮からも、アンジェロの屋敷がある領地からも遠く離れているのに、もう彼の手が回っていた。王妃が助力しているとなると、国中に包囲網を敷くのも有り得ない話では無い。
国を相手にたった四人で立ち向かうのは分が悪すぎた。かくなる上は、とユカルは苦渋の決断を下すのだった。
「…国外へ逃れましょう。つきましては、妃殿下の母国であるベルデ国が最適かと思います」
古城を去る直前に、ユカルはマルコが使用人達からかき集めた通行証を受け取っていた。通行証は国境を越える為に必須であり、事前に申請して発行してもらわなければならない。通常、申請してから許可が下りるまでには日数がかかるので、逃亡中に手続きを済ますのは難しかった。仮に手続きできたとしても、役所にアンジェロが根回しをしていたら、待ち伏せされる可能性があった。故に、マルコの気遣いは非常に有難いものだった。
「でも国境兵にあたし達の情報が伝わってたら、まずいんじゃない…?」
「いや、まだ間に合うはずだ。敵は俺達がすでに通行証を持っているとは考えていないだろう。役所を押さえておけば、足取りは掴めると胡座をかいていると思う。付近を見てきたが、警備が強化された様子はなかった」
しかしながらカルム王国の通行証と、他国への入国許可証はまた別物である。ユカル達にベルデ国へ入る証明書は無い。アリアがその事を指摘すれば、ユカルは渋面を作ってエイレーネを見遣った。
「不法侵入となりますが、妃殿下のお立場を明かせば恐らく…」
言葉尻を濁すユカルだったが、言いたい事は伝わった。ベルデ国の王女であったエイレーネが国境の門を叩いたならば、必ずや迎え入れられるだろう。清廉潔白な姫君に、権力で押し通る蛮行をさせるのはユカルとしても心苦しいが、迷っている暇は無い。ぐずぐずしていては国境兵にまでアンジェロの手が及んでしまう。もはや一刻の猶予も残されていないのだ。
「あとは四人組である事が相手に割れていますので、二手に分かれて出国しましょう。妃殿下は俺と一緒に来てください。悪いが二人は少し遅れて出てくれないか」
二人が頷くより先に、それまで黙って聞くだけだったエイレーネが言葉を発した。
「リファト殿下を置き去りにして行く事はできません」
彼女の物言いこそ静かであったが、眼光には並々ならぬ強い意志が宿っていた。ここまで文句も言わず従ってきたエイレーネが、最後の最後でユカルの指示に背こうとする。しかしユカルとて引き下がる訳にはいかなかった。
「いかに妃殿下の願いとあっても聞けません。もう国を去るしか打つ手が無いのです」
「殿下を残して行きたくありません」
説得を試みるも、エイレーネは決して譲らない。ユカルは焦りを滲ませながら語気を強める。
「俺はリファト殿下から、妃殿下を必ずお守りするよう命じられています。俺は託された信頼を裏切りたくありません」
エイレーネは束の間、口を噤んだ。目を伏せる彼女は、この逃亡生活により窶れてしまった。健康的だった肌は薄汚れ、もともと小柄だった体が更に細くなったように見える。こんな状態になっても自分ではなく他人ばかり顧みるのだから、ユカルも遣る瀬無い。
「…わたしには、殿下をお助けする力がありません」
その悔しさをエイレーネは引き絞った声音にのせた。
「ですが、ユカルにはそれがあります。あなたなら殿下を救い出せるでしょう。殿下がそうしたように、わたしもユカルを信じています」
「妃殿下…何を…」
「殿下をお助けするため、ユカルがこの国に残ってくれるのなら、わたしはベルデ国へ行きましょう。できないのであれば、わたしはここから動きません。酷な選択を迫ってしまいますが、わたしとて譲歩できないのです」
「………」
ひどいお方だと、ユカルは思わずにいられない。リファトもエイレーネも相手に尽くしすぎる。優しすぎる。そして己にはどこまでも厳しい。守りたいのに、守らせてくれない。
「…ねえ、ユカル。姫様のことは私達に任せてくれないかしら」
苦悶するユカルを助けたのは、アリアだった。
「あなたに比べたら頼りないけれど、何もできない訳じゃないわ。私達だって体を張る事くらいできるのよ?」
ジェーンも同調し、うんうんと頷いている。
「お願いします。ユカルだけが頼りなのです。どうか、リファト殿下を助けて差し上げてください」
信頼できる友人達に背中を押され、尊敬する主人から潤んだ瞳で請われ、それらを突っぱねられる程ユカルは冷徹になりきれなかった。
「……わかりました。ですがせめて、妃殿下が砦を越えるまでは見送らせてください。それを見届けた後、すぐさま引き返しますから」
「感謝します、ユカル。必ず殿下と二人で、ベルデ国に来てくださいね」
結局のところは誰も、心優しい妃の笑顔には敵わないのだ。ユカルはそれを痛感しながら、遠ざかっていく三つの背中を見送るのであった。