19
秋は駆け足で通り過ぎ、いつの間にか冬が到来していた。リファトは冬があまり好きではなかった。彼の身体は底冷えする夜に耐えられず発熱し、起き上がれなくなるからだ。ここ半年、外出する機会が格段に増え、少しは体力もついたのだが、それでもまだ冬の寒さには勝てなかった。
「お加減はいかがですか?」
「昨夜より楽になりました」
「それは何よりです。ギヨーム先生はあと半刻ほどで到着するそうですよ」
「また小言を言われないといいのですが」
「ふふっ、そうですね」
儘ならないこの身体が憎らしい。しかし、エイレーネの甲斐甲斐しい看病を受けるリファトは、不謹慎ながら嬉しく思っていた。弱っている時に優しく付き添ってもらえるのは殊更、心温まるものだ。それに、彼女の看護も随分と手慣れ、毛布を抱えておろおろしていた姿は少しも見受けられない。
「……そろそろ一年になるんですね…」
「殿下?何か仰いましたか?」
「いえ。何でもありませんよ」
少し離れた場所で薬湯を冷ましていたエイレーネが振り向くと、リファトは優しげに微笑んでいた。
彼女が厨房で煎じてきたのは、この城の庭で育てた薬草である。乾燥させた薬草は適切に保管され、調合から煎薬までエイレーネに一任されていた。そうは言ってもギヨームが出した指示をなぞっているだけなのだが、あの捻くれ者の爺が医者でもない少女に患者を託すなんて、彼を知る者なら耳を疑う事だろう。
たった一年で、嬉しい変化が数え切れないほどあった。
「失礼します。妃殿下、お食事の準備ができました。俺が代わりますので、行ってきてください」
「ありがとうございます、ユカル。ではお願いしますね」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
背筋を伸ばして一礼するユカルを寝台から眺めていたリファトは「その姿も板に付いてきたな」と何気なく褒める。鎖に繋がれていた青年も、侍従のお仕着せに恥じぬ所作ができるようになってきた。
「俺なんかまだまだです」
「よく頑張っていると私は思うよ」
「光栄ですが、俺はまだ読む事と書く事が上手くできません。妃殿下は半年も要さなかったと聞きました」
「確かにそうだが、努力は他人と比較するものではない。褒め言葉は素直に受け取るといい」
「心得ました。それにしても…」
ユカルは薬湯の注がれた器を一瞥してから微笑む。
「殿下はとても愛されていらっしゃいますね」
侍従になって間もない頃、重たそうな水桶をせっせと運ぶエイレーネを見つけたユカルは、目玉が飛び出るかと思った。今でこそエイレーネが民と一緒に畑を耕していても驚かないが、当初は信じられなかったのだ。だが、水やりを代わろうとすれば、四阿から見ていたリファトに止められ、首を傾げる羽目になったのが懐かしい。雑草との区別がつかないユカルは、彼女が何をしているのか暫く分からなかったが、全てはリファトの為だった。エイレーネの献身的な愛は、日常のそこかしこに散りばめられていて、側から見ているだけのユカルも幸せな気持ちになる。
「…そう思うか?」
「…?そうとしか思えませんが…」
てっきり喜ぶものと思って言ったのだが、何故かリファトの反応は芳しくなかった。
「…私が彼女に向ける感情は、綺麗なものではないんだ。彼女は私を優しい人だと言ってくれるが、それは違う。所詮、私はあの両親から生まれ、あの兄と同じ血が流れているのだから」
爪の先まで本当の優しさでできているのはエイレーネの方だ、と彼は続ける。
「兄上が彼女に手を上げようとした時、私は殺意さえ覚えた。仮に兄を手にかけたとして、罪悪感に苛まれるとは思えない。私が抱いているのは、そういう感情だ。彼女のような美しい家族愛ではない。私ばかりが醜い気持ちを募らせている」
リファトが吐露した胸の内は、思いがけないものであったが、ユカルは一点だけ異を唱えずにはいられなかった。
「…妃殿下はリファト殿下を深くお慕いしておられます」
「エイレーネは長子であったから、年上の私を兄のように思ってくれているのだろう」
恋愛にかまける余裕も縁も無かったユカルでさえ、リファトとエイレーネがお互いに心から想い合っていると感じていた。恋を超越し、人を愛するとはどういう事か、ユカルは二人を見て学んだのだ。ところが、心を通わせていると信じて疑わなかった彼らの間には、ややこしい齟齬があるらしい。
「それは…妃殿下が、そう仰ったんですか?」
「いや、違うが…嫌われ、避けられていないだけでも、私には過ぎた幸せだから良いんだ」
「………」
これは一人で抱えきれる問題ではないと判断したユカルは、一日の仕事を終えてから、同僚の部屋を訪ねる事にしたのだった。
ジェーンがユカルの部屋に突撃してくる事はあっても、逆は無かったので珍しがられたものの、気安い友人達は嫌な顔もせずに招き入れた。
「二人とも疲れているのにすまない」
「いいよいいよ」
「何か悩み事?」
実は……と始まったリファトの話の内容に、アリアとジェーンは大層驚いていた。開いた口が塞がらなくて、顎が外れてしまいそうだ。
「王子様って、あたしより視力が悪くなっちゃったの!?」
常ならばジェーンの言い草を嗜めるアリアが無言でいた。それだけ、あの二人の気持ちは周囲に筒抜けだったし、疑いの余地が無いのである。
「リファト殿下はお互いの気持ちに、埋められない差があるとお考えのようなんだ」
「え、えぇ?嘘ぉ…お二人とも目線だけで『大好きです!』って語ってるのに?」
ジェーンは得心がいかぬとばかりに首を捻った。人の心は計れないとは言いつつも、あの二人に限ってそんな溝は無いと思うのだ。
だが彼女達はリファトの過去について詳しく知らないので仕方がない。第四王子はこの世に生まれ落ちてからずっと差別的な扱いを受けてきた。まともな愛情はひと欠片さえ寄越されなかった。それが彼の中では当たり前の事になっているのだ。故にリファトは愛される事を切実に望みながらも、初めて向けられる純粋な愛をまっすぐ受け止められないのだろう。むしろ、自分なんかを本気で愛す人などいない、なんて諦念している節すらある。
その点、愛し合う両親から慈しんでもらったエイレーネの方が、年下ながらに愛の本質を理解していると言える。
「…この事、姫様にお話するべきかしら」
アリアが不安げに切り出したのに対して「お二人の問題に俺達が口出しするのもな…」とユカルが返す。
「でも悲しいわ。姫様のお気持ちが、ちっとも届いていないって事でしょう?」
エイレーネの一途さは、兄弟愛の延長に過ぎないと思われている。それでは彼女が可哀想だと、アリアは主張した。
けれど、いくら議論を交わしても解決策は浮かばないまま、この日は解散となった。
次の日になって、ジェーンは箒を動かしながらアリアにぽつりと呟いた。
「血の繋がっていない人間が心を繋げるって、すっごい奇跡だと思う」
「本当よね」
雑巾を絞っていたアリアは、手を止めずに短い同意を示した。
「好きなら独占したくなるのも、嫉妬するのも普通なのにね」
「そうね。恋愛って綺麗事ばかりじゃないはずだわ」
「王子様と姫様も、もっと欲張ったらいいのに!」
使用人達の願いは結局のところ、ジェーンの最後の一言に凝縮される。相手を思い遣る事には際限が無いのに、自分の欲はとことん押し隠してしまうから、愛情の比重に関して拗れてしまうのだ。
何とかならないものかと唸る、そんな昼下がりであった。
同日、別の場所でも頭を悩ませる者達がいた。
栄光に満ちる王宮の一室。そこに座すはカルム王国の王妃ニムラと、彼女の三番目の息子であるアンジェロだ。部屋の外には見張りが立てられ、誰も寄せ付けぬよう厳命されている。そのせいか煌びやかな装飾とは裏腹に、ぴりぴりした空気が漏れ出ていた。
「母上。何をそのようにお怒りなのですか」
「分からぬか?アンジェロ」
鋭く睨まれたアンジェロはわざとらしく肩をすくめる。
「子は天からの授かりものです。これでも努力はしてますよ、兄上達とは違って」
カルム王室には四人も王子がいながら、世継ぎが一人も生まれていない。国王からすれば孫にあたる子が、女児ひとりというのは国家の一大事であった。
第一王子のフェルナンは娘が生まれてから、妻と床を共にする事はなくなったそうだし、第二王子のマティアスは論外。今日も独りで森に出掛けているだろう。となれば残された可能性は、アンジェロとリファトなのだ。
ギャストン王は長男をせっついているが、フェルナンは聞き入れるつもりが毛頭ない為、何の意味もなしていない。近頃は、仲睦まじい第四王子夫妻に淡い期待を寄せ始めたとの噂である。しかし、ニムラはそれが非常に面白くない。夫が目を掛けているという理由から長男も気に入らないが、四男はもっと気に入らなかった。ニムラを不幸のどん底へ突き落としておきながら、リファトの子が王位を継承するなど許してはならぬ。そういう訳で、何としても三男のアンジェロに世継ぎをもうけてもらわねば困るのだ。
「手当たり次第に女を漁る暇があるなら、男児の一人や二人こさえて、あたくしのところへ連れて来ぬか!」
「人聞きの悪いことを仰る」
「どのみち妃の子でなければ王位継承権は無い。遊び足りないのなら、お前の妃を相手に致せ」
「あれは夜伽を拒むのですよ。嫌がる女を無理やり…というのも一興ですが、ああも耳障りに喚かれると萎えます」
「ならば、さっさと始末おし。務めも果たせぬ妻など要らぬわ」
ニムラはアンジェロ以上に苛烈な性格をしていた。彼女は愛妾に首っ丈で王妃を蔑ろにする夫に、一矢報いてやりたかった。国王の思い通りにはさせない、言わば彼女なりの復讐だった。その為の犠牲は全て瑣末な事である。
「その事ですが、母上。次の妃に迎えたい者がおります」
「言ってみよ」
「愚弟の妃であるエイレーネ姫です」
「なに?あのベルデの姫だと?」
眉を顰めるニムラに構わず、アンジェロは悪い笑みを浮かべていた。エイレーネに傾慕している訳ではなく、むしろ色気のない子供だとしか思っていない彼は、単に弟が絶望する様を見たいだけだった。掌中の珠のように大切にしている存在が奪われた時、あの弟はどんな顔をするのか興味がある。
「結婚の無効を言い渡すよう、教皇を脅してやれば良いのです。父上が口を挟んでくるやもしれませんが、愚弟はまだ白い結婚だと聞きますし、付け込む余地はあるでしょう」
「それでお前は、あの姫に食指が動くのか。お前の好みではないだろう。世継ぎができねば、かけた手間が水泡に帰す」
「たまには趣向を変えたくなるものですよ」
「…まあ良い。そこまで言うのなら、あれはあたくしが処理する故、お前は早く姫を手籠にしておいで」
アンジェロは軽い調子で引き受けていたが、本音を言えば弟の目の前で大切な姫を犯してやりたかった。しかし、この母に逆らえば死よりも恐ろしい目に遭う。贔屓にしている息子だろうが関係無い。それがニムラという王妃であった。
国王が政務に携わっている間、溺愛されている愛妾は優雅に菓子を摘みながら夜を待つ。国王陛下を籠絡させていると白い目を向けられるミランダであるが、その実、彼女は国政に一切関与していなかった。元は平民である為に、政を仕切る知識が無い事を彼女は自覚している。だからといって、変動していく勢力に無関心ではない。覇権がどう移ろうのか把握していなければ、王宮で生き残ることはできないからだ。
「ミランダ様。紅茶のおかわりをお持ちいたしました」
「…そこへ置いて」
「かしこまりました」
追加の茶など頼んでいないし、ティーカップもまだ空になっていない。即ちこれは密告がある時の合図だった。侍女はティーポットの下に紙を挟ませており、ミランダは一人になってからそれを読んだ。
「……あのお姫様はどうするのかしらね」
読み終えた紙切れは、燭台の火へとかざされた。瞬く間に燃え上がる様を、ミランダは無表情で眺めていた。
「例年に比べれば軽く済みましたがね、気が緩んだ時こそ危ないんですよ。殿下はそうやって何度、寝床に逆戻りしたことか。よくよく思い返していただきたい。妃殿下、見張りは頼みましたぞ」
やはりギヨームの小言は避けて通れませんでした、とはリファトの弁である。冬の時期は起き上がれる日の方が少なかった昨年までを考えると、ふた月の間、寝込んだのが十日未満なら重畳と言えよう。
「先生のお小言は心配の裏返しなんですよ」
「分かっているつもりですが、耳に胼胝ができそうです」
困り顔のリファトを見つめる彼女は、可笑しそうにしている。
「私が言えた事ではありませんが、レーネも体を冷やさないよう気を付けてください。ここはベルデ国より寒いでしょう」
「そうですね…滅多に雪は降りませんでしたから。でも、殿下の手の方が冷たいですよ?」
彼女はそう言いながら、確かめるように彼の手を握った。歪な指先は冷たかったがひび割れておらず、血も膿も滲んでいなかった。エイレーネが毎日欠かす事なく、特製の保湿剤を塗り込んでいたおかげだ。
初めは頑なに拒否していたリファトも、いつしか彼女に言い負かされて薬を取り上げられていた。皮膚病が悪化する時期に触れられたら、彼女の手を汚してしまう。リファトはそれがすごく嫌だった。だが彼女は躊躇うどころか使命感に燃え、丹念に薬を塗布した。薬独特の匂いがエイレーネの手に染み付いてとれなくなっても、彼女は「わたしの手もすべすべになりましたよ」と得意げに笑ってのけた。その眩しい笑顔に、リファトは長いこと見惚れたものだ。
「祖国では珍しかったからこそ、雪を眺めるのはわくわくします。まるで白い花びらが舞っているみたいで幻想的です」
「花びらですか…なるほど、そうして見ると美しい光景ですね」
「寒いのは得意ではありませんが、それだけ麗かな春がもっと好きになれるんです」
彼女が包み込むリファトの右手は、優しい温もりが移り、仄かな熱を灯している。エイレーネがはにかむと、そこだけ春の日差しに照らされた気がした。
王妃から第四王子へ「登城せよ」との伝令が届いたのは、それから二日後の事だった。