17
舞踏会では完敗したというのに、アンジェロはその後も何度かエイレーネを王宮に呼びつけた。流石に他人の目がある場所で毒を盛ったりはしなかったが、嫌味ったらしい事を言われたり、あからさまな嫌がらせは執拗にされた。しかし、この手の虐めは彼女に通用しないと悟ったのか、やがて王宮からの招待状はぱったり届かなくなった。
それからは平穏な日常が戻ってきた。エイレーネは庭の手入れに勤しみ、薬草についての知識を深め、リファトと過ごす時間を大切にした。それらの合間に侍女達の指導もしており、一緒に読み書きの練習をする。新たに侍従となったユカルが混ざる日もあるのだが、彼はリファトから教わることが多い。今日も彼の姿は無かった。どうやら女三人のところに加わるのは気遅れするようだ。遠慮気味なユカルを、ジェーンがぐいぐい引っ張って着席させるのが既に恒例となっていた。そこまでしても当初は辞退する素振りを見せた。そこでエイレーネが「学ぶことに身分や性差は関係ありません。必要なのは意欲と努力です」と諭し、着席するようになったのである。
「二人ともよく頑張っていますから、そろそろ休暇を取ってはどうですか?」
目が疲れやすいジェーンに配慮して少休憩を挟んでいた時、エイレーネはそう提案してみた。途端に二人の目が輝く。
「ええ!?良いんですか!?」
「でも私達、まだ新人ですのに…」
「新人は休んではいけない、という規則はありませんよ」
「やったー!!ありがとうございます!!ねぇねぇアリア、たっくさん焼き菓子買ってさ、孤児院に持っていこうよ!あ、せっかくだから姫様も遊びに来ませんか?みんな喜びますよ!」
ジェーンのはしゃぎ声は壁を突き抜け、別の部屋にいたユカルの耳にもしっかり届いていた。
ユカルは出自があやふやで自称十八歳としている。となるとアリア達よりも年上だが、職場においては彼女達の後輩に当たる。彼は序列に準じた態度をするべきだった。しかし僅差で先輩の二人は「堅苦しいのはやめやめ、新人同士頑張ろう」と彼の背中を叩いた。以降は同僚として話をしている。友人を作る暇もなかったユカルは戸惑ってばかりだが、気さくな二人はごく普通に喋りかけてくれるので助かっていた。
「…賑やかですね」
「彼女が来てから、ここはすっかり変わったよ」
ユカルが発したのはほぼ独り言のような呟きだったが、リファトは教本を片手に相槌を打った。たった今言われた「彼女」がエイレーネを指す事は、侍従になって日の浅いユカルにも察せられた。明らかに声音と顔つきが変わるのだから、余程の鈍感でもない限り分かるだろう。
「ユカル」
「はい」
不意に名を呼ばれたユカルは居住まいを正す。リファトは教本を閉じていたので、勉強に関する話ではなさそうだった。
「エイレーネは私の命より大切な人だ。有事の際は私ではなく、彼女を守ってほしい」
「……しかし、俺の主人は…」
言い淀むも、リファトの言い分が解らない訳ではなかった。ユカルとて、たおやかな少女を庇護対象として認識している。それだけでなく、あの少女には他人を惹きつける何かがある事も知りつつあった。
ユカルは腕に奴隷の焼印がある事を、包帯が取れるまで黙っていた。見られた時に言えば良いと思っていたのだ。焼印は腕まくりすると見えてしまう位置にあるので、隠し通すつもりはなかった。実際、何かと接する機会の多い侍女達にはすぐに見つかり、大変だったねと労われた。とはいえ、犯罪者であった過去を白状する勇気は無かった。
しかしエイレーネだけはいつまでも焼印に触れてこない。外国から嫁いできたと聞き、もしかしたら意味を知らないのかもしれないと考えたユカルは、自ら明かした。隠しておくのは何となくもやもやしたのだ。結論から言うと、エイレーネは全部知っていた。ユカルが来たその日にリファトが教えてくれたらしい。「殿下が選ばれたのですから信用に足る方だと思っています」と彼女は笑顔で締め括った。
窃盗団の飼い犬にされていた汚い過去を知りながら、最初に示した敬意を捨てたりしなかったのだ。ユカルにはそれで充分だった。命じられるまでもなく守ると決めるには、充分すぎたのである。
「そう。だから命令している。必ず遂行するように」
彼女を守りたい気持ちは同じはずなのに、ユカルは「はい」と即答できなかった。リファトの命令を遂行するとは即ち、エイレーネの頼みをふいにするという事になるからだ。罪人に頭を下げてまで、あの少女はリファトの安全を願っていた。ユカルは己を拾い上げてくれたリファトとエイレーネ、二人の信頼に応えたかった。
「…その時は、お二人とも守ります」
「それは頼もしいな」
リファトは侍従の言葉を否定する事なく、静かに微笑んでいた。
規則正しく夜はやって来て、夫婦の密かな会話が始まる。眠る前の楽しみだった。
「そういえば日中、盛り上がっていた件はどうなりました?」
「二人が孤児院へ帰る話でしょうか」
エイレーネが休暇の提案した後、侍女の二人はその話題で持ちきりだった。そうすぐに休みは取れないのに、まるで明日帰れるといった喜びようであった。
「ええ。レーネもついて行くのですか?」
「いつの間にやらそういう事になっていました。行って来ても構いませんか?」
「もちろんです。また色々な話を聞かせてください」
「はい、殿下。感謝いたします」
「…貴女も、故郷が恋しいと…思いますか?」
孤児院とはいえ生家も同然の場所に帰る喜びは、正直リファトにはよく分からない。この国から出た事もないし、王宮に戻りたいと思った事もないからだ。けれどエイレーネは違うだろう。時折、彼女の口から聞く祖国の話は、明るいものばかりで……愚問だったとリファトは遅れて後悔した。
「そう、ですね…でも、寂しいと思うことは無くなりました。きっとこれからも、無いと思います」
エイレーネはリファトを見つめながら、口角に嬉しさを滲ませていた。
ああ。いったい何度、この人に恋をするのだろうか。リファトは甘美な陶酔に浸るのであった。
七日後、休暇を貰ったアリアとジェーンは朝一番に市場へと走っていった。一時間もしないうちに帰って来たかと思えば、大量の焼き菓子が詰まった籠を抱えていた。それを馬車に積み込んだジェーンがひと言「狭くなっちゃった!」と笑う。二人ならゆったり座れる座席も、三人並ぶとそこそこ窮屈だ。しかし三人とも細身であるし、何より楽しそうである。まるで旅行に出掛けるような調子のアリアとジェーンは、窓から大きく手を振るのだった。
二人が買ってきた焼き菓子は、孤児院で暮らす子供達の夢そのものらしい。大きくなって働くようになったら絶対に食べよう、という誓いがあるとかないとか。とにかく二人は給金を貰ったらまず、家族の皆に食べさせてやろうと思っていたそうだ。
その話を事前に聞いておいて良かったと、エイレーネは孤児院に到着するなり実感した。甘い香りを嗅ぎつけた子供達が、ものすごい勢いで集まってきたのだ。あまりの活気にエイレーネは潰れそうになった。そんな嵐の中でも、順番は守られているか、欲張って多く持っていく子はいないか、目を光らせ喧騒に負けない声を張り上げるアリアとジェーンには、感心するほかなかった。
「騒がしくて申し訳ありません」
開いた口が塞がらないでいるエイレーネを、院長先生が気遣う。
「いいえ。元気いっぱいなのは良いことですから」
「ありがとうございます。ところで…あの二人は妃殿下のご迷惑になっていないでしょうか」
「毎日とても熱心に働いてくれて、たくさん助けてもらっていますよ。二人がここで育ったからこそ、心根が真っ直ぐで温かいのだと感じています」
「まあなんとお優しい…あの子達が妃殿下に引き取っていただけたのは、この上ない幸運でございました」
「勿体ないお言葉です。その後、こちらはお変わりありませんか?何か困ったことがおありでしたら、仰ってください」
「感謝申し上げます。そうですね…とりたてて問題は、」
「あるよ!」
「??」
突然、舌足らずな声が足元から聞こえてきた。エイレーネは導かれるように視線を落とす。すると、五つか六つくらいの男の子が、期待のこもった眼差しでエイレーネを見上げていた。
「こまってるよ!」
「おやめなさい!ああっ、そんな泥のついた手で触っては!」
院長先生の制止も虚しく、男の子はエイレーネの服を引っ張ったので、黒い手形が付いてしまう。しかし、土くらいで目くじらを立てるエイレーネではない。青褪めたのは院長先生だけである。エイレーネは膝を折って目線を合わせると、困り事は何か詳細を尋ねた。
「あのね、かだんのお花がね、かれちゃいそうなの」
「それは一大事ですね。見せてもらっても良いですか?」
「うん!ぼくがつれてってあげる!」
「助かります」
エイレーネはぴっと伸ばされた真っ黒な手を、笑顔で握るのだった。
ここだよ、と男の子が指差す先には小さな花壇があり、植えてある植物は元気が無かった。くってりと垂れ下がった葉を真似るつもりはないのだろうが、悄気る男の子の姿はそれとよく似ていた。
「もうげんきにならないのかなぁ…」
「植物は強いですから、簡単には負けないですよ」
「ほんとう?」
「本当です。きちんとお世話をしてあげれば、また元気になります」
男の子を励ましながら、エイレーネは花壇の土に触れてみる。指先で土を摘み、指の腹で押したり転がしたりして、よく観察する。
「…お水は足りていますが、肥料が不足しているようです」
「ひりょうって?」
「植物のお食事ですよ。お腹が空いているので、元気がなくなってしまったんです」
「そっかぁ!」
男の子の顔に笑顔が戻った。その後でエイレーネは枯れ葉を集めて、土に混ぜ込むのだった。興味を示した子供達にも手伝ってもらい、手を汚しながら一緒になって笑った。様子を見に来た院長先生には、上手くいかなかった時の対処法も説明しておく。エイレーネの流暢な口振りに、相手は目を瞠っていた。
「…随分とお詳しいのですね」
「花が好きなものですから」
感嘆に満ちた褒め言葉を貰ったエイレーネは、照れ笑いを浮かべた。
アリアとジェーンは一泊してから戻る予定だ。しかし、エイレーネはもう帰らねばならない。子供達は残念がって引き留めようとしたが、リファトに無断で外泊する事はできなかった。子供達の手を振り切るのは辛かった、エイレーネは寝床の中でそう話したのだった。
翌朝帰ってきた二人は、院長先生からの手紙を預かっていた。宛先はリファトとエイレーネの両名になっている。リファトは開封した手紙を、二人で読める位置に下ろした。
内容は時候の挨拶から始まり、エイレーネの助力を願うものへと移っていく。
『……我が院は農民の方々から、市場には卸せない野菜を無償で分けて頂く事がございます。しかし最近は不作続きのようなのです。何とかしたいと思えども、無知な我々では相談に乗ることもできません。そこでエイレーネ妃殿下の知恵をお借りしたく、リファト王子殿下の寛大なご判断を何卒お願い申し上げます……』
最後まで目を通したリファトは特に逡巡する素振りも無く、返事は貴女が書くと良いでしょう、とあっさり告げた。
「ただし外出する際は、ユカルを同行させてください」
「殿下の侍従ですのに、わたしが連れ回すのは気が引けます」
「ここに籠りきりにさせるのも良くありませんし、強いて言うなら護衛の訓練ですよ。私と城の中に居ては、何も鍛えられませんから」
と彼が言うので、此度の依頼に関してはエイレーネとユカルの二人で担う運びとなった。代わりにアリアとジェーンが居残り、雑務を行う。
そして三回に渡る手紙のやりとりの末、エイレーネは数名の農民から直接話を聞く事が決まった。
「民の声を直で聞ける機会なんて滅多にありませんから、必ずや有意義な時間にしたいと思います」
出掛ける間際、エイレーネはリファトにそう宣言したのだった。
院長先生曰く。売り物にならない所謂"訳あり"の野菜を分けてくれるのは、近年こちらに居住を移した農民が殆どを占めるらしい。元々、農耕とは無縁の職に就いていた彼らは、年齢等を理由に引退し、長閑な土地で畑を耕し始めた。しかし経験の無さゆえか、収穫できるのは質の悪い野菜ばかりで、貯金を食い潰す毎日だという。もはや唯一の救いは、孤児院の子供達が残さず食べてくれる事だ……肩を落として話す彼らを心配していた院長先生は、エイレーネが適切に指摘する様子を見て閃いたと語った。
一度、孤児院に立ち寄ったエイレーネは、改めて仔細を聞き、その足で現地へと向かう。心許ない表情なのは彼女ではなく、彼女に付き従うユカルであった。
「妃殿下、俺は後ろで立ってるだけでいいんですか?」
「今日はわたしの身分を伏せて、お話を聞きに行くのです。呼び方には気をつけてくださいね」
「あ…も、申し訳ありません」
暴力沙汰には慣れているが、自分ではない誰かを守る為に戦った経験が無いユカルは、護衛という任務がいまいちぴんとこないのだ。襲われたら叩きのめせば良いのだろうが、農民相手にそんな状況に陥るとは思えない。周囲を警戒するにしたって、睨みを効かせるという意味では無さそうだし……頭を悩ませるユカルに、エイレーネは提案してみた。
「立っているだけでは退屈でしょうから、ユカルもお話に混ざってはどうですか?」
「えっ、や、それは…どうなんですか」
結局ユカルは、首を傾げながらついて行くしかなかった。
農民達は「その道に詳しい人を呼んでおいた」としか聞かされていなかった。そのため風格のある男が、言うなればポプリオのような人間が来ると思い込んでいたのである。ところが、やって来たのはいかにもお嬢様育ちといった少女だった。
「…そっちの兄ちゃんじゃないのかね」
「彼は付き添いで、院長先生から依頼を受けたのはわたしです」
がっかりだ、彼らの態度はそれを物語っていた。その露骨な落胆ぶりに、ユカルは舌打ちしたくなる。だが彼とは対照的に、エイレーネは微塵も腹を立てた様子も無く話を続けるのだった。
「作物が育ちにくくてお困りだと、お聞きしました」
「そうだ。でもお嬢ちゃんに畑のことが分かるのかい?」
「少し見せていただいても?」
「荒さんでくれよ」
疑惑の目を向けられつつ、エイレーネは畑を見て回った。時折、葉や土に触れてはじっと見つめ、また少し歩く。
農夫の眉間の皺がより深くなったあたりで、彼女は戻って来た。そして、幾つか気になった事があります、と口火を切った。
「まず右側の畑ですが、水やりが不十分のように思います。それと剪定が甘いです。もう少し切り落とさないと実が大きくなりません。左側の畑の作物には葉の病気が見られるので…」
淀みなく羅列されていく改善点に、彼らは目を瞬かせ、次いで不愉快そうに唇を曲げた。それも仕方がないのかもしれない。彼らだって真剣にやってきたのだ。いきなりやって来た小娘に、ああでもないこうでもないと口出しされては、屈辱的だったのだろう。
「お嬢ちゃんの意見も一理あるかもしれんが、そうやって失敗したら責任をとってもらえるのかね?」
「今年も不作だったら、もう食っていけねぇんだ。俺の家族が路頭に迷ったらどうしてくれる?」
「素人にあれこれ指図される筋合いは無い。はっきり言って気分が悪いよ」
エイレーネは黙って聞いていたが、側に控えるユカルは沸々と怒りが湧いてくるのを感じていた。文句を言われているのはユカルじゃない。これまでは、同じような境遇の奴隷が叱られているのを見ても何とも思わなかったのに。自分は上手く立ち回ろうと肝に銘じるのが精々だったのに、今はどうしてか憤りが抑えられそうにない。
「我々は生きるか死ぬかなんだ。世間知らずのお嬢ちゃんには絶対に分からんだろうがね!遊び半分で首を突っ込まないでくれ」
いよいよ我慢ならなくなったユカルは、前に進み出て怒りを爆発させた。
「ふざけるなよ!!教えを乞うてきたのはお前らだろ!?」
己の胸にこんな激情が存在していたなんてユカルは知らなかった。
悪い事をすれば罰が下る。自分のように。だったら善人は報われるべきだろう。エイレーネは純粋な思い遣りの気持ちでここまで来たのだ。批難される謂れなど無い。一目で「お嬢ちゃん」と見抜いたくせに、どうしてその「お嬢ちゃん」が綺麗な手足を泥で汚している事に気が付かない。
額に青筋を浮かべるユカルの迫力は相当だったが、若造に言われっぱなしではおれぬのだろう。農夫達も怒りの形相になる。まさに一触即発、そんな時だった。
「ユカル。乱暴な言い方をしないでください」
決して大きくはない一声が、場を貫く。澄んだ瞳に射抜かれると皆、不思議と言葉が出なくなった。
「申し訳ありませんでした。皆様をご不快にさせたこと、深くお詫び致します」
「あ…いや…」
「………」
「今日のところは失礼します。お騒がせいたしました」
帰りますよユカル、と促されて彼はようやく足を動かすことができた。馬車の座席に腰を下ろすまで、一つも会話は無かった。
「話に混ざるのは構いませんが、あんな風に怒鳴るのはよくありませんよ」
「…あいつらが妃殿下を見下すのは良いんですか?無礼じゃないですか」
「身分を伏せていたのですから、見下されたと思うのは間違いです」
未だに怒りが収まらないユカルに対し、エイレーネは一貫して落ち着き払っていた。年下の少女を相手に情けないが、ユカルは止まれなかった。
「妃殿下は今日のために色々調べて…有意義な時間にしたいと楽しみにしていたのに!俺は納得できません!」
エイレーネは依頼を受けた日から今日まで、ユカルには読み解けない本を何冊も熱心に調べていた。困っている人々の助けになろうと一生懸命だったのを、天と地ほどの身分差があるにも関わらず自ら歩み寄ろうとする姿を、ユカルはこの目で見ていた。その真心がまるで伝わらなかったのが、彼はとても悔しかったのだ。
「忌憚のない意見を聞けたことに変わりはありません。皆、守らねばならない家族のために必死なのでしょう。わかってあげてください」
「………」
彼女の悲しげな眼差しを受けて、ユカルはリファトの言葉を思い出す。ぼろぼろのユカルを見たら辛い思いをする人がいる、そう言ってリファトは目を細めていた。成程そうかと、ユカルはようやく腑に落ちた。
「……でも、わたしのために怒ってくれて、ありがとうございました」
「!!」
リファトやエイレーネが身を置く世界は、激情に駆られるまま動く事は命取りになる。感謝を忘れた者から、貪欲で意地汚い人間へ堕ちていくのだ。彼女の清廉とした振る舞いにより、ユカルは社交界という煌びやかな舞台の裏側を、少しだけ垣間見た気がした。
生きる場所が変わったならば、生き方も変えねばならない事を悟ったユカルに、じわじわと罪悪感が芽生え始める。遅まきながら謝罪を口にしたものの「伝える相手が違いますよ」とやんわり返されたのだった。
院長先生への報告はその日のうちに済ませた。力になれなかった事を詫びるエイレーネ達に、話を聞いてくれただけでも嬉しかったと労ってくれた。
農民達のところへも日を改めて詫びに行くつもりだったが、リファトが待ったをかけた。頭を冷やす時間も必要でしょう、という彼の言葉に従うことになったのである。
それから半月は経っただろうか。可能ならまた孤児院に顔を出してほしいと、院長先生から頼まれたのである。すぐさま向かったエイレーネとユカルを出迎えたのは、あの日、喧嘩別れのようになってしまった農夫達だった。一斉に頭を下げられたエイレーネ達は、突然の事に目を白黒させる。
「俺達が間違っていたよ」
「お嬢ちゃんには悪い事をした」
「恩知らずなことをしてすまない」
彼らは口々に謝り、謝罪と同じくらい感謝も述べるのであった。
「こっちに越してきてから、俺達は地元の連中から除け者にされててなぁ…頼んでも頼んでも、耕作のコツを教えてくれないんだ」
「俺らが成功すると連中の売り上げが落ちるってんで追い返されるから、俺らだけで何とかするしかなかったんだ」
「けど知っての通り、全然上手くいきやしない。八方塞がりだったよ」
「あの後、畑の半分だけお嬢ちゃんに言われたようにやってみたんだ。するとどうだい?びっくりするくらい育つ育つ!」
「手前勝手なのは分かってる…だが、もう一度教えてもらえないかね?」
「二度とお嬢ちゃんに文句は言わない。約束する」
随分と都合の良い話だ。ユカルは手前勝手という部分に同意したかった。だけど、エイレーネの答えは違う事を彼は知っていた。
エイレーネは嬉しそうな笑顔を見せて、力強く頷いたのだった。
「喜んでお手伝いいたします!」
不服な事は隠さず教えてほしいです、とも付け加えた彼女を、ユカルは無言で見守っていた。
園芸や農作に関するエイレーネの知識は人々を圧巻した。それぞれが所有している畑によって土の質は異なり、また、育てている作物も同じではないのだが、彼女の助言は驚くほどに的確だった。後でユカルが「妃殿下は土や草と対話しているみたいでした」とリファトに報告したくらいである。彼女が手入れした所から植物達が生き生きしていくので、農民達は諸手を挙げて大喜びした。
身なりや振る舞いからして平民では無いのは明白なのに、親しみやすさがあるエイレーネは、たちまち人気者になった。彼女に付いてくるユカルも、揉めた事など水に流して歓迎された。エイレーネの口添えもあったし、何よりもユカルが誠心誠意謝ったのが功を奏したに違いない。
しかし新たな問題も出てきた。人々がエイレーネに馴れ馴れしくするたび、ユカルは密かに肝を冷やしていた。実は第四王子の妃です、なんて知った日には全員ひっくり返ってしまうのではないか、と。
彼の心配事は、存外すぐに実現した。それは、とある農民が発した一言が原因だった。
「お嬢ちゃんは本当にいい子だなぁ。うちの倅の嫁にしたいよ。考えてもらえないかい?」
ユカルは心の中で、無理に決まっているだろうと即座に叫んでいた。困ったのはエイレーネも同様で、何と返すのが正解か考えあぐねているようだった。その間に何故か口論が始まってしまう。
「冗談はよせ。俺の息子のほうが稼ぎも良いし、顔も良い」
「お前んとこのへちゃむくれの事か?親馬鹿も大概にしろ」
「なんだと!?俺に似た男前だぞ!」
「お前に似たらおしまいだろう!」
「お嬢ちゃん、俺の長男はどうだろう?次男も働き者だよ」
「ダメだダメだ!お前の嫁さんが怖すぎる。恐ろしい姑がいたらお嬢ちゃんが可哀想だ!」
「お、俺の女房のことはほっといてくれ!」
白熱し続け、収拾がつかなくなっていく様を尻目に、ユカルは小声で囁いた。
「…どうしますか?」
「…正直にお話するしかなさそうです」
既婚者ですと言ったが最後、根掘り葉掘り聞かれそうな勢いである。だがここはもう観念するしかなさそうだ。
「あの…皆さん。わたしは既に結婚している身ですので、そういったお気遣いは不用です」
予想通りの阿鼻叫喚となるが、ユカルは乾いた笑いしか出てこない。本当の衝撃はこれからである事を考えると、若干哀れになってくる。男共の熱量に押され気味のエイレーネを庇ってユカルが代弁した。
「この方はカルム王家の第四王子、リファト殿下のお妃様です」
長い、長い静寂が流れる。もしや息の根が止まっていないか不安になるほどの静けさだった。
その後、空気をつんざくような野太い悲鳴が上がったのは、言うまでもない。
第四王子が三人目の花嫁を迎えていた、とは知らずに過ごしていた人々の衝撃は凄まじい。彼らは一様に顔色を失くし、足を縺れさせながら倒れるように平伏した。どれだけエイレーネが、今までと変わらずお喋りしてください、と宥めても実現する事はなかった。
しかしながら、彼女に対する感謝と尊敬は深まる一方だった。たかが平民のためにわざわざ出向き、一人一人の相談に根気強く付き合い、不敬も甚だしい言動にさえ親切を返した。そんな心優しいお姫様が嫁いで来てくれたのだ。喜ばない訳がない。彼らは事あるごとにお礼をしようと躍起になった。
「これは今朝、収穫したばかりの野菜です。良かったら持っていってください」
「俺達には他に差し上げるものがないので、どうか…」
ところがエイレーネの返事はいつも決まっていた。
「そのお気持ちはリファト殿下にお伝えください。殿下のお許しが無ければ、わたしは皆さんにお会いすることはありませんでした」
誰が頼んでも彼女の返答は変わらず、差し出された物を受け取ることもしなかった。
この国の民の困窮を気にかけているのはリファトも同じ。他人を気遣い、表に出るのを控えている彼にこそ、人々の感謝が届いてほしいのだ。エイレーネはそう願わずにはいられなかった。
次は一緒に行きませんか、と彼女はリファトを誘ってみた。彼が他人との交流を控えているのは知っていて、だからこそ今まで無理に連れ出すような真似はしなかった。エイレーネが控えめながら誘いをかけたのは、今夜が初めてだった。
困らせてしまうかもしれない、という彼女の心配は杞憂に終わる。リファトは躊躇する事なく「良いですよ」と応じた。すんなり進みすぎて、逆にエイレーネが戸惑ったくらいである。
「…宜しいのですか?お嫌でしたら、無理なさらずに…」
「折角レーネが誘ってくれたのですから、断るほうが勿体ないですよ」
リファトは不意に視線を己の手元に落とした。そこにあるのは変色した歪な手。
「…本当は、貴女が背中を押してくれるのを、待っていたのかもしれません」
綺麗とは言い難い彼の手に、エイレーネの手が音も無く添えられる。温もりを分け与えるような仕草に、リファトは勇気を貰った気がした。
"呪われた王子"が畑に現れても、野太い悲鳴は上がらなかった。彼の人となりも、病気の事も、エイレーネが予め伝えておいたのだ。だから皆、彼女から聞いていた通りの人だなと思っただけだった。むしろ気のいい連中は「俺達のほうがよっぽど酷い面ですよ」と泥で汚れた顔を自嘲して、笑いを誘っていた。
「遅くなってしまいましたが、ご結婚おめでとうございます」
「お祝いの品です。皆で心を込めて用意しました。お納めください」
農民達はここぞとばかりに、大きな籠をリファトに差し出した。山盛りになった野菜や果実は非常に美味しそうだ。これがエイレーネの手助けによるものだと知っているので、リファトも嬉しい。その成果が見れただけで満足だった。
「有り難いが、これほどの出来なら高値で売れるでしょう。皆、食べ盛りの子がいると聞いてい…」
「姫様にも遠慮され、王子様にも遠慮されたら、俺達のお祝いの気持ちはどこに持っていけば良いんですか!」
「姫様のおかげで食うには困っていません!」
「このまま帰ったら女房に殴られちまいます!俺を助けると思って是非!」
「こいつの嫁さん、本当に怖いんです!どうか助けてやってください!」
しかし彼らは必死の形相で言葉を被せてきた。リファトはちらりとエイレーネを見遣るが、彼女はにこにこ笑うだけであった。受け取る以外の道はないらしい。
「…ありがとう。皆の気持ちは確かに受け取った」
重みのある籠がリファトの手に渡った瞬間、喝采が起きた。賑やかな歓声を聞き、リファトの表情も次第に綻んでいく。恐れていたような事は何一つとして無かったのである。
「私に出来ることは限られているが、日々の暮らしで困った事があれば教えてほしい」
リファトの台詞に頷いたのはエイレーネだけで、人々は何故かどっと笑い出した。揃って目を瞬かせる二人に、民の一人が代表して教えてくれたのだった。
「王子様も姫様も、おんなじ事しか言わないなぁ!」
青空の下で幾つもの笑い声が響く。
夏の終わりが、もうすぐそこまで来ていた。