16
舞踏会から一夜明けたばかりだと言うのに、エイレーネは朝から動き回っていた。ポプリオの妻にお礼がしたいと昨夜から言い張り、目覚めるや否や贈り物の準備を始めたのだ。料理人のマルコにバゲットを焼いてくれるよう頼み、彼女は庭で瑞々しい花を摘んでいる。
出来ることなら厚意の対価に与う品を用意したかったのだが、手持ちの金がいよいよ底をつきそうなのだ。ほとんどの衣装が駄目にされ、新しく仕立てるほかなかったのが痛手だった。舞踏会の一件で協力的だったお針子のハリエットが、特別に割安で仕立ててくれたとは言え、数がかさめば値段もかさむ。慎ましく暮らしているエイレーネ達にとって痛い出費である事に変わりなかった。
そういう事情により、パンと花くらいしか持っていく物が無いのである。しかし無いものを嘆いても仕方がない。お礼の気持ちを伝える方がよほど大事だ。エイレーネは感謝を込めて大きな花束を作った。バゲットの方はマルコが必ず美味しく焼き上げてくれるだろう。
厨房に顔を出すと、丁度マルコが籠に詰め終わったところだった。彼はバゲットだけでは寂しかろうと果実入りのパイも焼いてくれた。ひっきりなしに感謝するエイレーネに恐縮しながらも、彼は嬉しそうであった。
右手に籠、左手に花束を抱えたエイレーネは、早速出掛けていく事にする。リファトは別件で用事があり、同行できないと言う。エイレーネとしてはゆっくり体を休めてほしかったが、彼の言葉を信じるなら「動くと筋が少々痛む」程度らしい。
「大荷物ですね。重たくないですか?」
「はい。アリアとジェーンが手伝ってくれますから」
「それなら大丈夫ですね。では、私からの感謝も伝えてもらえますか?」
「かしこまりました。殿下もお気をつけて行ってらっしゃいませ」
昼前に仕事を切り上げたポプリオが道案内するというので、エイレーネは侍女の二人を伴って歩き出した。馬車は一台しか所有しておらず、今日はどうしてもリファトに必要だったため、エイレーネ達は徒歩である。リファトは終始すまなそうにしていたが、通いで働くポプリオの家は古城からかなり近いのだ。エイレーネは散歩をするような気分でいたので、彼の罪悪感は少しだけ薄れたのだった。
さて、彼女達の賑やかな声が聞こえなくなるまで見送っていたリファトも、城を発たねばならない。彼はエイレーネが向かったのとは反対方向へと馬車を走らせた。
座席に腰掛けたリファトは小難しい面持ちで腕組みをする。いい加減、侍従を見つけなければならない。先日、易々と侵入者を許してしまった事で、悠長に構えていられぬと彼は反省したのだ。
城の警護をしている者達は正規の騎士ではない。ちょっとばかり腕に自信のある有志を募ったに過ぎず、その上、老朽化が進んだ城は城壁も崩れかけている。つまり侵入するには打ってつけの環境なのだ。今のところ修繕の目処も立っていない。
しかし、だ。雑務と護衛と諜報を任せられる人材なんて、どう探して良いのやら。エイレーネみたいに複数の人間に仕えてもらうべきか。だが、人数が増えた分だけの給金を支払う余裕が……。
一人で唸っていたら突然、馬車が大きく揺れて急停車した。考える事に没頭していたせいで反応が遅れてしまったものの、リファトは何とか踏ん張り体を支えた。
「申し訳ありません!お怪我はございませんか!?」
「ああ。大事ない」
揺れが止まってすぐ、車外から御者の大声が飛んできた。リファトは扉を開けて外に出てみる。彼に怪我は無いが尋常ではない揺れだった。外の喧騒も何やら気になる。
「何があった。事故か」
使用人の総入れ替えを決行した日を境に、リファトは彼らに対する口調を改めた。簡単に言えば丁寧語を使わなくなった。目下の者に謙る話し方が、侮られる一因であったようにも思えたのだ。しかし、わざわざ理由を説明するのは憚られた。形から入る典型的な見栄っ張りのようで恥ずかしかったのである。とりわけエイレーネに知られたら愧死しそうだったが、幸いにも彼女は何も聞いてこなったので、リファトは無事でいられた。
「物陰から急に人が飛び出してきまして、手元が狂いました」
「ぶつかったのか?」
「いいえ。相手が上手く避けてくれたようで接触はありませんでしたが…」
御者が視線をずらしたので、リファトもそれに倣う。彼が見つけたのは、一人の青年を騎士が三人がかりで取り押さえている場面であった。御者の物言いから察するに、飛び出してきたのはあの青年だろうが、いったい何故押さえつけられているのか。青年は被害者だろうに。リファトは事情を尋ねるべく、人集りに近付いていった。
「少し良いだろうか」
「は?我々は忙し…ひぃ!あ、貴方は!?」
やや遅れて到着した隊長らしき人物に問い掛けたものの、冷たく追い払われそうになった。かと思えばリファトを顔を見て震え出す。
見飽きた反応であるし、もしかすると素性にも気付いたかもしれない。リファトは名乗る事を省き、用向きだけを伝える。
「今し方、私の馬車がそちらの青年を危うく轢いてしまいそうになった。怪我は無かったか心配なので確認したい」
リファトが一瞥したところ、青年は擦り切れた服を纏い、その隙間から大小の傷跡と、奴隷であることを示す焼印が見えた。赤茶けた髪は適当に括られ、背中に垂れている。
「さ、左様で…しかしながら此奴は大罪人として、騎士団がずっと追っていましてね。貴方様に足止めされてむしろ助かったと言いますか…とにかく、あとは我々にお任せください」
「………」
隊長は早口に言い切り、そそくさと部下の元へ行ってしまった。
これ以上の情報は望めそうになかったので、リファトも踵を返した。ところが彼は乗車したものの、御者に待機を命じるのであった。
「あら…殿下はまだお戻りになっていないのですか?」
エイレーネは贈り物を渡してお暇する予定だったのだが、熱心に引き止められて変更を余儀なくされた。熱意に押し負けてポプリオの家族と昼食を共にする事になったので、戻るのが遅れてしまった。しかしいざ帰ってみれば、リファトは出掛けたままだという。
「それほど時間は掛からないと仰っていたのですが…何かあったのでしょうか」
「大丈夫ですよ、姫様。遅くても夕食までには戻ってきますって!」
そう励ますジェーンは、たらふく食べてご満悦の様子だった。かくいうエイレーネもアリアもお腹がはち切れそうである。王族が直々に赴き、心尽くしのお礼を述べたものだから、両手でしかと握手された夫人は大いに感動し、これでもかと手料理を振舞ってくれたのだ。終いには手土産まで持たされそうになり、エイレーネは全力をもって遠慮しなければならなかった。
「…そうですね。待っている間に、前回の勉強の続きをしましょうか」
「はい!」
「すぐに本を持ってきます」
「あっ、待ってよアリア!」
古城でそんなやりとりをしていた頃。
リファトが乗る馬車は、ようやく動き出していた。しかし、馬車は街中から遠ざかり、ひと気の無い方へと進んでいく。御者は本当に行き先はあっているのかと再三尋ねたが、進路は変わらなかった。
「つ、着きましたが…」
「ありがとう。ここで待っていてくれ」
御者が震えるのも無理はなかった。その場所は一見すると堀に囲まれた城のよう。だが実際は刑の重い罪人を収容する監獄だからである。ここに押送された者が外に出られるのは公開処刑が決定した時のみ、と囁かれる恐ろしい場所なのだ。すたすたと歩いて行ってしまった主人を追いかける度胸など、御者は持ち合わせていなかった。
入り口で看守に止められたリファトは、先刻、捕縛されていった青年と話がしたいと願い出る。「大罪人」と言われていたので、こちらへ収監されたはずだ。騎士達が向かった方向とも合致するので、まず間違いないだろう。
第四王子であると明かせば、懐疑的な視線と怯えた表情をされた。だが引き退るつもりはなかった。リファトは「あと一歩で大怪我を負わせるところだったので、王族としてきちんと謝罪がしたい」と一貫して主張し、押し通ったのだった。
嫌な顔をされつつも、面会の許可を得たリファトは、暗い牢へ続く階段を下りていく。目当ての人物は独房にいた。消えそうな蝋燭が一本だけ灯るそこは、不潔で酷い環境だった。捕らえられた囚人は処刑を待たず、拷問による怪我か病気で命を落としていくのだろう。
リファトは悪臭の漂う牢の前に立った。気絶している訳ではなさそうだが、四肢を鎖で繋がれた青年は身じろぎ一つしなかった。
「私はリファト・グレン・カルムという。君に幾つか尋ねたい事があって来た」
「………」
「先程は危ない目に遭わせて申し訳なかった」
「………」
「一つ、確認したい。君は数え切れないほど窃盗を繰り返してきたそうだが、今回に限って失敗したのはどうしてだ?」
ここでようやく青年はリファトを見上げた。殴打を受けた顔面は腫れ上がり、唇の端には血の塊がこびり付いている。蝋燭が照らし出す瞳は胡乱げであった。
「…アンタに教えて何になる」
「理由があるなら聞かせてほしい」
「教える義理は無い」
取り付く島もないが、リファトも口を割るまで動かないという意地を見せる。やがて粘り勝ちしたのは、リファトの方だった。
「……殺せと命令されて、しくじった。それだけだ」
「それは偶然だろうか?故意だろうか?」
青年は口を閉ざして俯いた。まただんまりかと思いきや、蚊の鳴くような声で呟く。静かな牢獄で無ければ聞こえなかったであろう。
「………俺には、できなかった…」
リファトは青年の旋毛に向かって声を掛ける。その声色は少し和らいでいた。
「…私は君の身元引受人になろうと思う」
「……は?」
「そして、私の侍従になってもらいたい」
「は!?アンタ、頭おかしいんじゃねぇの?」
それまで大きな反応を示さなかった青年が、思わずといった風に立ち上がった。その拍子にじゃらりと鎖が音を立てる。
「俺は…俺は盗むことしか能の無い人間だぞ。侍従ってのはそれが仕事なのかよ」
「違う。犯罪に手を染めてもらうのは困る」
「だったら他を当たれ」
「君に頼みたいんだ」
「……なんでだ…」
看守から聞き出した話によると、青年は頻繁に盗みを繰り返す事およそ十年、騎士団から逃げ続けたそうだ。視点を変えれば、危険と隣り合わせの毎日をそれだけ長く続ける能力が備わっていると言えよう。咄嗟に馬車を躱せる身体能力と、服の上からでもわかる鍛えられた肉体。暴れる様子は無かったのに、訓練された騎士が三人がかりで押さえていた事も、青年の強さの表れだろう。
しかしリファトが口にしたのは、全く別の理由であった。
「…君は捕らわれた時、どこか安堵しているように見えた」
「!!」
「君がどんな人生を歩んできたのか、私では想像もつかない。だが選択を迫られた瞬間に、他人の命を尊ぶ事を選んだ君の心を、私は信じたいと思った」
リファトは一旦言葉を区切り、それからもう一度、侍従になってくれないかと問うた。反論の声が上がることは無かった。しかし是という返事も無い。暫し、痛いほどの静寂が落ちる。リファトはただ静かに青年の選択を待った。
程なくして、赤茶けた旋毛が小さく縦に揺れるのを、リファトは見たのだった。
青年の名はユカルといった。
彼の一番古い記憶はやはり鉄格子の中。親の顔なんぞ知らない。痩せ細った腕に灼熱の鉄が押しつけられた時、ユカルは奴隷として生きていく事が決まった。
小さな奴隷を買ったのは窃盗団の長だった。子供だったユカルは言葉を覚えるより先に、盗みを覚えさせられた。成功すれば飯が貰え、失敗すれば折檻された。生き抜くためには命令を遂行しなければならなかった。そんな日々を不幸だとは感じなかった。そもそも幸せとは何かを知らなかったのだ。
命令通りに盗んでは空腹を凌ぐ毎日であった。子供から少年、少年から青年へ成長していくにつれ、ユカルは己のいる世界が日陰である事に気が付いた。日向を歩く人間達は日銭を稼ぐのに逃げ回ったりしない。腹が立ったら怒り、悲しかったら泣き、楽しかったら笑っている。まるで別世界だった。ユカルにも悔しいことや苦しいことはあったけれど、笑えることなんて無かった。だから何をそんなに笑っているのか不思議に思っていた。しかしユカルは、その不思議な営みを遠くから眺めるのが好きだった。盗み出した宝石よりも、ずっと輝いて見えたから。
長が代替わりした日から、方針が変わった。ユカルを買った長は、足がつくのを極力避けていたようだが、新しい長は目的の為なら手段は問わない人間だった。殺してでも奪ってこいと、ユカルは命じられた。その場では頷いたが、ユカルは心の中で嫌だと思った。宝石よりも綺麗なものを己の手で汚したくなかった。だから殺さないで済むよう、絶対しくじらない事に注力した。
だけど、そう何度も上手くはいかない。とうとう盗みの現場を目撃されてしまった。反射的に逃走していたが頭のどこかでは、これで終わりにできると考えていた。始まりが牢獄だったのだから、終わりもきっと同じだろう。
己は日陰の世界で生き、死んでいくのだと疑わなかったのに、未来は大きくひっくり返された。
「…どこに向かってるんですか」
「先に医者へ診せに行く。怪我が痛むだろう」
「この程度で手当てなんかしなくても別に…」
「その格好のまま帰ると、すごく心配する人がいる」
「はあ…?」
「彼女に辛そうな顔はさせたくない」
教育なんて縁遠いものだったユカルだが、対面に座る小綺麗な格好の人間が王子である事は聞いた。漠然と偉い立場の人というのも分かる。リファトは別にああしろこうしろと言わなかったが、とりあえず長と接するようにするべきかと、ユカルなりに考えた。
「俺の怪我なのに、なんでその人が辛くなるんですか?」
「そういう人なんだ。実際に会えば君にも分かる」
リファトはギヨームのいる診療所に立ち寄り、ユカルの治療を任せた。手当ての前に血や泥で汚れた体を洗い、髪も整える必要があったので、待っている間にリファトは衣服を調達してきた。身なりを整えたユカルは好青年だった。包帯だらけなのが勿体ない。
「すっかり遅くなってしまったな。少し急ごう」
移動する馬車の中で、ユカルは再三再四尋ねた。侍従にするというのは本気なのかと。リファトは相手が満足するまで、その質問に対して頷きを返した。侍従が嫌なら護衛でも構わないと言われたが、そういう話ではない。
古城に着く頃にはいい加減ユカルも黙ったが、内心では夢が覚めたら牢獄に繋がれたままではないかと思っていた。無論、寝ても覚めても彼の手足に鎖が嵌る事は二度と無いのだが、それくらい己に降りかかった出来事が信じられなかったのである。
過去に忍び込んだ屋敷と比べたら些かおんぼろな城は、ユカルが寝床にしていた小屋を思えば立派な建物だった。正面玄関をくぐるという経験が皆無な彼は、上の空でリファトの後ろをついていった。そんな夢見心地な頭の中に、鈴が転がるような声が響く。
「お帰りなさいませ。リファト殿下」
「レーネ、ただいま戻りました。出迎えありがとうございます」
ユカルを心底驚かせたのは、奥から現れた小柄な少女ではない。彼女を見つけるなり、声音を全く変えたリファトの方だった。先程まで話していた際は、高圧的ではない代わりに感情の起伏が少ないという印象であった。それが今はどうだ。レーネと呼んだ瞬間から、紡ぐ音が甘ったるい響きに変化したのである。愛しい、愛しいという気持ちがユカルにまで伝わってきた。変わり身の早さについていけないユカルは、愛妻家の顔をする夫の横顔を凝視してしまう。その視線に、エイレーネが気付いた。
「そちらの方は…酷いお怪我のようですが、大丈夫なのですか?」
ユカルの肩にも届かぬ少女に見つめられ、彼はたじろいだ。あまりに綺麗な瞳を前に、平気だの一言すら出てこなかった。そこへリファトが助け舟を出す。
「ギヨームのところで手当てをしてきましたから、安心してください」
「先生が診てくださったのなら、ひと安心です」
ほっとして目尻を下げるエイレーネに、ユカルはますます物が言えなくなった。
「レーネ。彼はユカルと言いまして、私の侍従を務めてもらう事になりました」
「良い方が見つかったのですね!」
エイレーネは屈託なく笑った後、固まっているユカルの前ですっと姿勢を正した。彼は瞬きすらも忘れていた。
「わたしはエイレーネ・グレン・カルムと申します。リファト殿下の御身を、どうかお守りください」
そう告げて一礼した彼女から、ユカルは目が離せない。
頭を下げるのは弱い奴、それが彼の骨身に叩き込まれた常識だった。偉い人間が頭を下げるところなど、一度だって見た事が無い。なのにどうして、王子と同じ家名を持っている少女が、罪人にお辞儀をしているのか。心臓が喉にせり上がってくる、この感覚は何だ。それらの問いに対する回答をユカルは持っていなかった。
生まれて初めて、ひとりの人間として尊厳を受け、眺めるだけだった日向の世界で生きていく事が叶ったのだと。ユカルが知るには、まだ時間がかかりそうだ。
【補足】
アリアは何でも器用にこなす優等生タイプ。
ジェーンは得意と苦手がはっきり分かれ得意分野は突出してできるタイプ。
ユカルはチート。