15
ダンスの練習に明け暮れていたリファトとエイレーネは、夢を見る事も無くぐっすりと眠っていた。舞踏会は明日に迫っている。寝過ごしたりして貴重な時間を無駄にはできないので、必ず起こしに来るよう侍女達に伝えてあった。
ところが二人の目覚めは朝の挨拶ではなく、侍女達の悲鳴となった。一気に覚醒した二人が飛び起きるのと、酷く狼狽えたジェーンが駆け込んできたのはほぼ同時だった。
「何があったのです?」
エイレーネの問いに返ってきた答えは"隣室が荒らされている"との事であった。その一言で二人も青褪める。壁を一枚隔てた所に侵入者がいたというのに、まるで気が付かず寝入っていたとは何たる不覚。二人は寝起き姿のまま、隣室の様子を見に走った。
「これは…!?」
「なんてこと…」
リファトは目を見開き、エイレーネは口を手で覆う。
室内には無数の端切れが散乱し、床を埋め尽くしている。仕舞ってあった衣装が、無惨に切り裂かれていたのだ。アリアが確認したところ、ずたずたにされたのはエイレーネのドレスばかりだった。
「アリア、明日着ていくドレスは…」
エイレーネが問い掛けると、アリアは弱々しく首を横に振り、泣きそうな声で「…だめでした」と言った。その瞬間、リファトの怒りが燃え上がる。
兄の、アンジェロの差し金だ。そうとしか考えられない。
導き出された結論に、思わず口汚い言葉が飛び出そうになった。リファトは咄嗟に奥歯を噛み締める事で、どうにかそれを耐える。兄の仕業なら犯人を見つけようとしても揉み消されるだろう。つまりは泣き寝入りするしかない。
「なんとかならないの!?アリア、裁縫得意でしょ?」
「こんなにぼろぼろでは無理よ、ジェーン…直しようがないわ…」
「そんな…じゃあ今すぐ仕立てればっ」
「採寸と生地選びで一日が暮れてしまうわ」
黙々と端切れを拾う、か細い背中が哀れでならず、アリアとジェーンは必死に打開策を考えた。だが、残り一日でドレスを一から仕立てるなど不可能である。服は全てお針子の手縫いだ。どう考えても間に合わない。
項垂れる二人に代わってリファトがエイレーネの傍らに膝をつき、なるべく穏やかに名を呼んだ。
「レーネ。仕立て屋の店頭に置いてある見本品なら、明日に間に合うかもしれません。一緒に出掛けましょう」
仕立て屋の多くは華やかな衣装をガラス越しに飾って、街道を通る人の目を惹くようにしている。仕立ての済んだドレスならば、あとは体型に合わせて調整すれば良い。それが彼の思い付きであった。
「王子様!それならあたしとアリアで探してきます!」
「お二人はダンスの練習をしていてください!」
話を聞いていたジェーンが間髪入れずに挙手をする。アリアもその気でいるようだ。エイレーネが感謝を述べるが先か、二人は風のように部屋を飛び出していった。アリア達だけでなく、事情を知った使用人も手が空いている者は、仕立て屋へと出掛けていくのだった。リファトとエイレーネは使用人達を信じ、雑念は捨てるべく練習に打ち込んだ。
しかし、予想を上回る最悪の成果がもたらされる。
「姫様ぁ、ごめんなさい…どこにもドレスが無かったんです…っ」
意気揚々と出て行ったジェーンが、戻って来る頃には泣きべそをかいていた。隣に立っているアリアも泣き出しそうであったが、泣くのを堪えて見てきた事を教えてくれた。
「店頭にあったはずのドレスが、ごっそり消えていたんです。お店の人に聞いたら、少し前に全部売れてしまったと言われましたが…誰が買い占めたのかは教えてもらえませんでした」
不自由な足で方々を歩き回ったアリアの顔には、濃い疲労の色が滲んでいる。不甲斐ないとばかりに俯く侍女達へ、エイレーネは労りの言葉をかけていた。着替えの服すら失った彼女の後ろでは、リファトが震える拳を握りしめる。
料理人のマルコは知人からロバを借りて、遠方の仕立て屋まで探しに行ってくれたが、それも徒労に終わってしまう。いよいよリファトの怒りが頂点に達した。ばら撒かれた大金もさることながら、その理由がエイレーネを困らせる為ときたら腑が煮え繰り返るどころでは済まない。
じきに日が暮れる。もはや打つ手無しかと誰もが諦めかけた、その時であった。
「……………失礼…します…」
突如として現れた巨躯に、誰かがうわっと声を上げた。巨体なのに発する声は辛うじて聞き取れるかどうか、しかも仏頂面で近寄り難い容姿の男は、庭師のポプリオだ。彼と話す際は耳を澄ましていなければいけない為、その場に集う全員は一様に口を閉ざした。
「……………こちらを…妃殿下に…」
「これは…もしや花嫁衣装では?」
彼がぬうっと差し出したのは型の古い、純白のドレスであった。
衣類は全て手縫いであるがゆえ、服は貴族の買い物で、平民は古着が主流である。それは花嫁衣装も例外ではない。大抵は母親が着たものを手直しして、娘が受け継いでいくのだ。ポプリオが持ってきたのは、彼の妻が着た花嫁衣装なのだろう。
「……………妻は妃殿下より背が高いので…寸法は合わせられるかと…」
寸法が大きいだけなら、裾上げするなり何なり合わせようがある。だが言い換えれば、元の形には戻せなくなるという事だ。代々受け継いできたであろう大切な花嫁衣装を、ポプリオの娘は着られなくなってしまう。
「いけません、ポプリオさん。お気持ちは大変嬉しいのですが、娘さんを悲しませたくはありません」
エイレーネは丁重に断ろうとするものの、彼は手を引っ込めようとしなかった。
ポプリオは彼女に恩があるのだ。当の本人は恩情をかけただなんて、微塵も思っていないだろうが、ポプリオは忘れられない。
それは彼の妻の誕生日のことだった。
彼は毎年、妻に花を贈ると決めている。しかし自宅に庭はないので、必然的に店で購入するか、勤め先の庭から頂戴する事になる。断りを入れれば剪定した花くらい持ち帰らせてもらえたので、彼は手ずから育てた花を妻に贈ることができていた。今年から職場が第四王子の古城へ変わったが、快く許可が下りる事は尋ねる前から分かっていた。案の定、共に庭の手入れをしているエイレーネに、剪定した花を数本持ち帰っても構わないか訊くと、笑顔でどうぞと言われた。
「数本で良いのですか?」
小さくとも花束ができれば充分であったし、エイレーネが殺風景な部屋を花で飾っている事を知っていたので、あまり多くを摘んでいくのは忍びない。ポプリオは一つ頷くことで大丈夫であると伝えた。彼は口下手すぎる男で、会話を成り立たせるのも一苦労なのだが、エイレーネは気にする様子も無いし、明るく喋りかけてくれる。
「ポプリオさんもお部屋に花を飾るんですね。もっと早く知っていたら、たくさん持ち帰っていただきましたのに」
責めるのではなくただ残念そうな口調に、ポプリオはうっかり妻の誕生日である事を呟いてしまった。それを耳にしたが最後、エイレーネは前のめりになって一気に喋り始めたのだった。
「今お持ちになっている花はここへ置いて、ポプリオさんは一番綺麗に咲いている花を摘んできてください!花は見る人に喜びを与えるのが役目です。奥様のお誕生日なら、とびっきり素敵な花束を作りませんと!」
寡黙なポプリオが口を挟める余地は無く、促されるまま最も美しく咲き誇っていた花を手折った。その間にエイレーネは自前のリボンを持ち出してきて、出来上がった立派な花束にささやかな彩りを添えてくれたのだった。
帰宅した彼が花束が完成した経緯も併せて渡したところ、妻は涙を滲ませて大層喜んだ。今まで貰った中で、一番綺麗だとも言っていた。
だからこそ彼の妻は、エイレーネの窮地を知ってすぐ、こんな古い物で良ければと差し出してくれたのである。
「……………妻も娘も…是非にと言っていました…妃殿下がお困りなら…役立ててほしいと…」
ポプリオは多くを語らなかったが、ここは譲らないという意思はひしひしと伝わってくる。エイレーネは壊れ物を扱うかのようにドレスを受け取ると、深く深く頭を下げたのだった。
「心からお礼申し上げます。奥様達が大切になさってきた衣装、決して無駄にはしません」
リファトにもありがとうと感謝されたポプリオは、気が動転したのか声が更に小さくなってしまい、終いに何を言ったのか全く分からなかった。
しかし安心するのはまだ早い。花嫁衣装をエイレーネの体に合わせなければいけないし、本来花嫁が纏うはずの純白のドレスのまま舞踏会に参加しては、顰蹙を買うだろう。多少なりとも色味を加える必要があるのだ。早急に作業へ取り掛からねばならなかった。
「あたしがお針子を連れてきます!みんな素っ気なかったんですけど、一人だけすごい親身になってくれた人がいたんです。その人に頼んでみます!」
喋りながら走っていったジェーンを、アリアは追いかけようとはしなかった。もうそうするだけの体力が残っていなかったのだ。その代わり採寸だけは済ませておこうと、エイレーネに声を掛ける。
「ジェーンが戻ってくる前に採寸しても良いですか?」
「はい。お願いしますね、アリア」
ドレスの仕立て直しが始まれば、リファトの出る幕は無い。彼はエイレーネが見せてくれた手本を頼りに、練習を続けたのだった。
親身なお針子は夜なべして衣装を直してくれた。本人曰く、時間が足りなくて満足の出来ではないらしいが、エイレーネにはどこに不満があるのか分からない完成度であった。
「次は完璧な縫製をしてみせますので、今後もご贔屓に」
腕も売り込みも上手なお針子だ。今後着る服は全て貴女に任せたい、とエイレーネがお願いすれば、良い笑顔で帰っていった。
そこからは一分一秒を争った。大急ぎでエイレーネの身支度を終わらせなければならなかった。晩餐会では髪結いも満足に出来なかった侍女達は、出発の時間が迫る中でも戸惑う事なく仕事を終わらせた。拙さは残るものの、努力を惜しまなかったのが、その成長ぶりから窺える。
「絶対に勝ってきてくださいね!」
「ジェーン、違うでしょ…」
「あ、そうか…えぇと、お気をつけて行ってらっしゃいませ!」
「行ってらっしゃいませ。王子様、姫様」
相変わらずの掛け合いを聞きながら、リファトとエイレーネは王宮が寄越した馬車に乗り込むのだった。
「今日も綺麗ですね。よく似合っていますよ」
「皆の親切で出来上がったドレスですもの。間違いなく最高のドレスです。殿下も素敵ですよ。仮面もお持ちだったんですね」
今日のリファトはヴェールではなく、目元を覆う黒い仮面を着けている。ひらひら動くヴェールでは、踊るのに支障が出るとの判断だ。
「熱がこもるからと言って、ギヨームからは不評なのですが…醜い部分が隠れていれば、陛下達も文句は言わないでしょう」
「醜い部分なんてありません。訂正をお願いします」
「すみません、レーネ」
眦を下げたリファトだが、口では謝っているのに嬉しそうだった。
因みに今はマナーとして手袋も嵌めているが、エイレーネに触れて以来というもの、城の中では外すようになった。冬ならまだしも夏場は汗をかいて蒸れるので、ギヨームから外せと散々言われていたものの、実行する勇気が無かった。だというのに、エイレーネから「殿下のお肌によくないですよ」と悲しげに言われたら呆気なく外していた。ギヨームがちくりと嫌味を言わずにおれなかったのは余談である。
様々な階級の貴族が集う舞踏会は、そこまで堅苦しい雰囲気ではない。国王両陛下が来るまで、各々自由に雑談やダンスを楽しんで良い事になっている。今宵の注目は言わずもがな、第四王子である。社交界に姿を見せず、噂話や憶測だけが一人歩きする"呪われた王子"に皆、興味津々なのだ。無論、彼とお近付きになりたいのではなく、単なる怖いもの見たさだった。
舞踏会に第四王子が参加すると吹聴した男、アンジェロはほくそ笑んでいた。今回の企てには手間も金もかかったが、あの二人が恥をかいて惨めに逃げ帰る様を見物できるなら安いものだろう。アンジェロは令嬢達と戯れつつ、その時が来るのを待った。
ところが、入場してくる二人を見つけたアンジェロは、己の企ての一つが失敗に終わった事を悟る。
手練れの者を雇い、女の服は全て着られなくしろと命じたはずだった。だから、どんなみすぼらしい格好で現れるのか期待していた。しかしエイレーネは可憐に着飾った姿で登場した。雇った奴がしくじったのか。どんな手を使えばたった一日でドレスが完成するのか、アンジェロには見当もつかなかった。国王の愛妾ミランダと並べば見劣りするとはいえ、声を大にして面罵するのは難しそうである。
それに加えて弟の態度も腹立たしい。少しくらい動揺や不安を見せれば良いものを、以前にも増して幸せそうにしているだけだ。あちらこちらから不躾に眺められてもどこ吹く風で、エイレーネと呑気に歓談する姿が癪に障る。
「やあ!二人とも、息災だったかい」
アンジェロは苛立ちを隠し、気さくな王子を演じながら弟夫婦に近付いた。リファト達も慇懃に挨拶を返したので、それだけ見れば和やかな光景だっただろう。だがアンジェロの目は笑っていなかった。
「せっかく出て来られたんだ。そんな端に隠れていないで、可愛い新妻と踊ってきたらどうだ?」
「しかしながら兄上。私の体では演奏が終わるより先に、力尽きてしまうと思います」
弟がやんわり辞退するのを想定していたアンジェロは、口角を吊り上げた。その仰々しい仕草は、盛大に赤っ恥をかいてこい、と言わんばかりであった。
「なに、案ずるな。短い曲を流すよう僕が頼んでおくさ。さあさあ楽しんできたまえ」
「…お気遣いありがとうございます。ではレーネ、手を」
「はい。リファト殿下」
二人の手が重なる。その先はもう、言葉など要らなかった。奔走してくれた使用人達への感謝と、互いへの信頼があれば、堂々と胸を張っていられる。何ら恥じる事は無い。
腰に添えられた手の温かさを感じつつ、エイレーネはリファトを見上げた。彼の唇が優しい弧を描いていたので、エイレーネもはにかんだ。
曲の始まりに合わせて、ゆっくり動き出す。特訓に手は抜かなかったが、所詮は付け焼き刃。リファトの身のこなしには辿々しさがあった。けれど、長年の療養生活で思うように体が動かない、とでも言い訳すれば充分通用するだろう。そのくらいには踊ることができていた。しかも彼の足運びが怪しい時は、エイレーネが大衆の視線を引き寄せるようわざと大きく動いた。ふわりと広がるドレスの裾で、上手いこと隠したのである。
そうして二人は大きな失敗をする事もなく、最後まで踊りきってみせた。正直なところ、周囲の反応は微妙だった。関心は強いが、関わりたくはないのである。故に誰一人として、良かったとも悪かったとも言わず、控えめな拍手すら起きなかった。しかしそれは、首謀者であるアンジェロでさえ黙っているしかなかった、とも言える。酷評しようと思えばできたが、罵ったところで彼が期待したような結末にはならないのは明白だった。
アンジェロは醜い弟が辛酸を嘗める様が見たいのだ。生意気な小娘が屈服する姿を見下ろしたいのだ。親睦を深める様子など見ていて胸が悪くなる。最低な気分だった。彼は悔しさに引き結んだ唇の奥で、歯が軋む音を聞いた。
不意に、貴族達からどよめきが起きる。まだフロアの中央にいたリファトが、苦しげに胸を押さえていたのだ。彼を支えるエイレーネの必死さから、拙いのではないかと見ていた人々は囁き合った。
種明かしをすると、これは一刻も早く退散したいが為の演技であった。王子が具合を悪くしたと言えば、さっさと帰してもらえるはず。計画を立てたのはリファトだった。素人の演技でどこまで騙せるかは賭けであったが、特に怪しまれずに会場を抜けられた。計算外だったのは、リファトの演技が堂に入りすぎて、エイレーネが本気で心配になった事くらいか。そのおかげで信憑性は増したが、リファトは申し訳なくなった。
「貴女の心配を無碍にしてしまった事を許してください」
息が整うまでは待たせてもらうと通してもらった部屋で、二人きりになったリファトはいの一番に謝罪する。
「本当に、苦しくないのですよね?」
「はい。軽い疲労はありますが、それだけです」
「わたしが余計なお節介を焼いたせいで、殿下のお体に障ってしまったのかと…良かった」
騙されそうになった事には一切触れずに、エイレーネは瞳を潤ませた。安堵したからだろうが、口元だけを緩めている。その表情に目を奪われたリファトは、気が付けば「抱きしめても良いですか」と訊いていた。
「あっ…か、構いません」
ぽっと赤くなりながらも承諾してくれた彼女を、リファトはそっと抱擁する。己の頬を橙色の髪がくすぐるのが心地良い。
「…ありがとうございます。レーネと踊ることができて、幸せでした」
耳元で聴こえた声が満たされていることに、エイレーネは堪らない気持ちになった。彼の肩口に額を埋めてから「…わたしもです」と絞り出したのであった。
【補足】
ポプリオとの初対面時、エイレーネは笑顔で挨拶しました。ところが、ポプリオの声が小さすぎたためエイレーネには聞こえず、彼に無視されたと誤解が生じます。馴れ馴れしくして気分を害してしまった、と勘違いしたエイレーネは使用人の中で彼だけ「ポプリオさん」と呼ぶようになりました。ポプリオのほうは、とても畏れ多いので止めてほしいと思っているのですが全然言い出せず、そのうちエイレーネがきっかけを忘れるので、きっとこのままです。




