13
リファトを散々虐め抜いた陰険な兄が、恥をかかされたまま大人しくしているはずがない。アンジェロの性根を嫌というほど熟知しているリファトは、兄とエイレーネが鉢合うことがないよう用心していた。だがしかし、アンジェロとて曲がりなりにも弟の性格は理解していたようだ。直接エイレーネに会いに来る事はしなかったものの、国王の名を使って王宮に参上するよう仕向けてきたのである。届いた書簡にはご丁寧にも、虚弱な第四王子に代わり登城せよ、と書いてあった。暗にリファトは来るなと言っているようなものだ。封蝋の印璽を見た瞬間に嫌な予感はしたが、こうも見事に的中してしまうと、リファトの眉間に深い皺が寄る。険しい面持ちのまま、彼はエイレーネに告げねばならなかった。
「アンジェロ兄上は必ず何かを仕掛けてきます。味方になってくれる者は…誰もいないと、思ってください」
「はい」
リファトの声には苦々しさが滲み、それを聞いたエイレーネの表情も曇っていた。最早、彼女が独りで登城するのは決定事項である。離れてしまえばリファトは何もできない。矢面に立つ、なんて所詮は口だけだったのだ。
「すみません…本当に…」
「ご自分を責めないでください。わたしがもっと上手に対応していれば良かったのです」
「…兄上の言いなりになれば良かったと思うのですか?」
「え?いえ、そこまでは…」
ともすれば不機嫌にも聞こえる彼らしからぬ声色に、少しだけエイレーネの肩が跳ねた。
「レーネがはっきり言い返してくれたあの時、私は天にも昇る気持ちでした。あれに勝る返答があったとは思えません。ですから、間違いだったみたいに言わないでください…」
「もちろんです!わたしの発言は取り消しません。嘘偽りのない本心です。ただ、もう少し言い様があったのではと…」
「兄上はああいう気性ですので、どう言葉を変えても結果は同じだったでしょう」
ようやっとリファトから小さな微笑がこぼれたので、エイレーネはほっとした。彼が苦悩していると、エイレーネも一緒に苦しくなって胸が痛むのだ。
「この機会に私の家族のことを教えておきたいと思います。それが役立つかは分かりませんが…今の私にはこれくらいしかできない」
リファトの前置きはまだ続く。彼は古城へ住まいを移す以前から、王宮の内情にはあまり詳しくない事を告げた。ましてや王宮から完全に離れている現在、どのような派閥が力を持っているのか、正確な勢力図は不明だという。
それらを踏まえた上で、リファトは本題に入った。
まずは父であり国王のギャストン。国を治める能力は一目置かれているものの、昔から女性にだらしない。カルム王国は一夫一妻制だが、王族や貴族が愛妾を作る事に関して寛容な国柄であった。リファトの父も例外ではなく、過去に数多の愛妾がいた。しかし現在はミランダという女性に夢中らしい。彼女は平民の生まれで、舞台女優として活躍していたところを見初められたと聞く。国王の寵愛を独占している為に、王妃から激しい嫉妬を買っている。
次いで母のニムラは気性が激しく、自尊心の強い王妃だ。絶える事なく現れる愛妾を悉く嫌い、夫に面と向かって不満をぶつけていた。過去にいた大勢の愛妾を追放したのは王妃ではないかと囁かれているが、真相は分かっていない。ミランダについては言わずもがな、息子のリファトに対しても寵愛を完全に失う原因になったと、仇のように憎んでいる。
それからリファトの説明は兄弟へと移った。
第一継承権を持つ嫡子はフェルナンという。リファトとは歳が十も離れている。彼の気質は父に似ており、幼い頃から時代の王たる片鱗を見せていた。ただ一点、父とは異なるのが女性との付き合い方だ。次々と愛妾を囲う父に、怒り狂う母、という男と女の汚い部分をまざまざと見せられて育ったフェルナンは、結婚そのものを、ひいては女という生き物を疎んでいる。愛妾を作るなんて以ての外、自身の妻でさえも遠ざけて碌に話もしないそうだ。とはいえ、王子に生まれたからには後継を残さねばとの意思はあったのか、一応、子供も一人だけもうけている。だがその子供が女児であった為、後継者問題は解決に至っていない。
第二王子のマティアスは、リファトと最も交流が薄い。というのも彼は筋金入りの変わり者で、リファトのみならず家族全員と疎遠なのだ。どんな顔の造りだったかももうろ覚えの始末。マティアスは興味の無い事にとことん無関心で、己が好きに暮らせるなら他はどうでも良い性分だった。父の命令で結婚はしていたはずだが、妻や子供の話は一切聞こえてこず、唯一噂されるのはとっくの昔に相手は消息を絶ったというものだけ。彼自身は趣味である狩猟が存分に行える辺境の地に屋敷を構え、毎日のように鬱蒼とした森へ出掛けているらしい。リファトはまた別の意味で、家族や臣下から見放されているのだ。
第三王子についてはわざわざ記すまでもない。
「マティアス兄上はどのような招待にも応じてこなかったので、今回もレーネが会う事はないでしょう」
そして、国王は第一王子を。王妃は第三王子を贔屓にしているという。特にニムラは夫に似たフェルナンではなく、ひときわ容姿の整ったアンジェロの後ろ盾となり、王座に据えたいと画策していた。
「父上とフェルナン兄上は、母上達を警戒していますので、貴女に危害を加える理由はありませんが、それは助けてくれる可能性も然りです」
「はい。承知しております」
エイレーネが招待されたのは、国王の親族が集う晩餐会だ。終われば帰れるので滞在時間はさして長くないが、そうだとしても味方が一人もいないのは流石に厳しい。あのアンジェロが同席する以上、ただ静かに食事することはできないだろう。十中八九、嫌がらせを仕掛けてくる。
苦虫を噛み潰したような面持ちをするリファトとは対照的に、エイレーネは落ち着いたものだった。不安は当然ある。けれども平穏な祖国にいた時だって、揚げ足を取られるなんてのは日常茶飯事だった。愛されていた王女であっても、取り入ろうとする者や快く思わない者は一定数いた。それ故、巧みな言葉の裏に隠された悪意を躱す術は、エイレーネにも自然と身に付いた。アンジェロみたいにあからさまに毒を吐く手合いは、分かりやすくて逆に助かる。
「わたしは何を言われても平気ですから」
「私が平気ではありません」
「前言を撤回します。わたしもリファト殿下が悪く言われては、平静を装うのが難しいです」
いつもならここで微笑み返すリファトも、今回ばかりは暗い表情のままだった。
「上手く立ち回ることができないかもしれませんが、殿下のお立場が悪くならないよう、最善を尽くします」
「私の立場なんかどうだっていいんです。そんなものは初めから無いに等しい。価値も無い。私は、貴女を守る壁にすらなれない事が情けなくて…悔しくてなりません」
無力さに打ちひしがれる彼は、膝の上に置いた拳を震わせていた。それに気付いたエイレーネは、下を向く彼の瞳を覗き込むのだった。
「リファト殿下」
綺麗なエメラルドグリーンが、リファトの瞳に映り込む。
「殿下がわたしを案じてくださるそのお心は、わたしの鎧となります。それは決して砕けず、必ず守ってくれると知っているので、わたしは闘えます。お側にいられないのは寂しいですけど…怖くはありません。そう思えるのは全部、リファト殿下のおかげです」
エイレーネは視線を絡めながら優しく訴えた。彼女の言葉はリファトにちゃんと届いたようで、苦しげだった表情が徐々に変化していく。
「わたしはたくさん助けていただいていますから、もう謝らないでくださいませ」
「レーネ…ッ、貴女という人は、本当に……」
語尾は掠れていき、とうとう音が消える。あとはもう微かな吐息が漏れるだけだった。
晩餐会に出席するエイレーネの身なりを整える事は、新米侍女達にとって初めての大仕事と言えた。今まで見た事も触った事もないような正装を、主人に着付けてやらなければいけないのだ。古株の使用人の手解きを受けながらやったものの、不慣れなのはどうしようもない。それを見越してエイレーネは余裕を持って支度を始めたので、時間に押される事態だけは避けられた。
「ごめんなさい…」
「すみません…」
結局、ほとんど先輩任せになってしまったアリアとジェーンは、しょんぼりと肩を落としていた。何回かやり直す羽目になってもエイレーネは怒らなかったが、それが尚のこと二人を意気消沈させた。
「落ち込まないでください。頑張ってくれて、ありがとうございます」
アリアとジェーンは王宮のしきたりについてまだ勉強していないが、それでも女主人が独りで外出させられる事に少々違和感を覚えていた。そして、今の自分達では侍女として同行するに値しないであろう事も、何となく予想がついた。たかが侍女であっても、一歩外に出ればその場に相応しい礼節が求められる。言葉遣いもなっていない現状では、付いて行ったところで主人に恥をかかせるのが落ちだ。
「なるべく早く戻りたいと思いますが、わたしが留守の間、リファト殿下をお願いしますね」
二人が仕えるエイレーネは普段と変わりないように見えたが、リファトは違う。エイレーネを視界に留めている時は柔らかく微笑んでいても、ふとした瞬間に憂いを帯びた顔を覗かせた。そうやって不安に曇る眼差しを見つけてしまうと、本日エイレーネが向かう先は余程恐ろしい場所としか思えなくなり、侍女達は身震いした。けれど周りが不安を煽ってはいけないと己を戒め、アリアとジェーンは暗い顔をしないよう気をつけてはいたが、果たしてどこまで隠せていたか。
「行って参ります」
馬車に乗る間際も、エイレーネは朗らかに笑っていた。こちらに向けた背中は、孤児だった少女達と大差ないというのに。
「っ、レーネ!」
あとは幸運を祈るのみと思われた、その刹那。不意にリファトが地面を蹴り、エイレーネの右手を掴んだ。彼女は反射的に振り向く。
「殿下…?」
仰ぎ見ればエイレーネの近い所で、彼の深い蒼色が揺らめいていた。
「…待っていますから」
たかだか夕食をご馳走になってくるだけ、今生の別れでもあるまい。けれど、母と兄の残忍さを知っているリファトは、どうしたってこの温かな小さい手を離したくない。無理だと分かっていても、行かせたくなかった。もう謝らないでと言われた手前、彼は謝罪を口にする事はなかったが、本当は百回頭を下げても足りないと思っている。
「はい。すぐに帰ってきます」
優しい温もりが遠ざかるのを寂しいと感じるのは、なにもリファトだけではなかったのである。
何度見ても、輝かしい城の佇まいは見惚れざるをえない。しかし前回とは違い、豪華絢爛な内装にうつつを抜かす事はしない。城門を通り過ぎると絶えずどこかから視線を感じるようになったが、エイレーネは真っ直ぐ前だけ見て歩を進めた。
「今しばらく、突き当たりのお部屋でお待ちください。後ほどお呼び致します」
「わかりました。案内に感謝します」
時刻はまだ五時を過ぎたあたり。あと一時間ほど待たなければならないだろうか。エイレーネは指定された部屋の前に立ち、扉を三回叩く。返事は無い。ところがドアノブに手を掛けようとした直後に、いきなり目の前の扉が開いた。彼女の手は中途半端な格好のまま止まってしまう。
「誰よあなた」
扉の向こう側から現れたのは、玲瓏たる容姿の女性であった。
極上の絹糸と見紛う白金の髪、アイリスを思わせる高貴な紫色の瞳、蠱惑的な体付き。正しく完璧な女性だ。この人を前にしてはエイレーネなど、ちんちくりんな子供に見える。惜しむらくは、極めて美しく整ったその顔が不機嫌丸出しである事か。
「…申し遅れました。わたしはエイレーネ・グレン・カルムとなった者でございます。以後お見知りおきを」
エイレーネはお辞儀をしながら、目の前の女性はいったい誰なのか考えていた。たくさんレースがあしらわれた贅沢なドレスと、光り輝く上等のダイヤモンドを見るに、相当な富豪である事は間違いない。王女と言われても納得の出で立ちだが、リファトに姉や妹はいなかったはずだ。従姉妹は若くして亡くなったと聞いているし、推定二十歳と思われるこの美女と合致しそうな親族が思い付かない。
「ここにいるのは何故」
エイレーネには名乗らせておいて、あちらは名前を言うつもりがないらしい。だが、相手が誰なのか判明するまで、滅多な事はしない方が良い。
「晩餐会のご招待を受けまして参上した次第です。先程こちらのお部屋で待機するよう、お聞きしました」
「あらそう。でも駄目よ。この部屋は陛下がわたくしに下さったの。余所者に踏み荒らされるのは気分が悪いわ」
「承知致しました。では、わたしはどちらで待機すれば宜しいでしょうか」
「わたくしの知ったことではないわね。そこで立っていたら?」
部屋にさえ入らなければあとは勝手にしろ、とでも言いたげな口調だった。エイレーネが動けないでいる間に、美しい女性はどこかへ歩いて行ってしまった。どうせ居なくなるなら閉め出さなくても良かっただろうに。
しかし真面目なエイレーネは言われた通り、廊下の端に立っている事を選んだ。季節によっては土を耕すこともやってのける彼女は、華奢なわりに足腰が強い。一時間弱、立ち続けるくらいは造作もなかった。
王宮での晩餐会において、出席者は身分の低い人間から順番に呼ばれ、最後にやって来る国王を恭しく迎えるのが礼儀である。まだ序盤に入室したエイレーネは、順次集まる王族の面々にひたすら低頭し続けるのだ。
当然ながらアンジェロも姿を見せたが、この時点では素通りされた。変わり者と言われている第二王子はやはり現れず、誰も気にする様子もなかった。
四人いる王子は全員が既婚者のはずだが、妻を伴っていたのは第一王子のフェルナンだけだった。すかさずエイレーネは第一王子夫妻に丁重な挨拶をする。フェルナンは「ああ」とだけ言って離れていったが、彼の妻はもう少し言葉を返してくれたので、エイレーネも会話を続けようとした。王太子妃の顔色が優れないのも、何だか気になったのだ。
「お会いできて光栄です。どうか無礼と叱らないでいただきたいのですが、祖国ではわたしが長子でしたゆえ、姉君ができて嬉しゅうございます」
「姉、とは…少々くすぐったいですが、無礼だなんて思いませんよ。気楽になさってください…」
「ありがとうございます。ヴァネッサ様」
王太子妃であるヴァネッサは静寂を纏う女性だった。風に舞う木葉の如く、覇気を感じさせない静けさがある。落ち着きと表するのは違う気がしたが、決して嫌な感じではない。
「ははっ!"呪われた王子"に見初められた姫は、さすが見る目が違うなぁ!」
和やかな対話を心がけていたエイレーネに横槍が入れられる。わざわざ確認するまでもなかったが、無視する訳にもいかないので、エイレーネはゆっくりと体の向きを変えた。
「媚びを売る相手も分からぬとは、なんと滑稽か!愚かにも程がある!」
アンジェロの不快な高笑いに顔を伏せたのはヴァネッサである。彼女は王太子妃とは名ばかりの、冷遇された妃だった。夫から愛される事もなく、後継となる男児も産めず、晒し者にされても文句すら言えぬ、ただそこに居るだけの妃。エイレーネが敬意と親しみを込めて話しかけてくれても、内心では無駄な事をと嘆息していた。静かにやり過ごす事、それがこの場における最善である。少なくともヴァネッサはそう考えてきたが、エイレーネは黙っていなかった。
「お言葉ですが、ヴァネッサ様は王太子妃であらせられます。目上の方を敬うのは、愚かなわたしでも知っている事です」
まさか第三王子ともあろうお方が知らぬはずはないでしょう、という思いを言葉尻に込める。
正しく伝わったからなのか、臆せず言い返された事が不満だったのか。アンジェロは顔を赤くしながら、更に食ってかかろうとした。しかし丁度その時、国王ギャストンが登場したのだった。
「何事か。騒々しい」
「ああ父上、申し訳ありません。頭の悪い義妹にちょっとした指導をしていたのです」
エイレーネが驚愕したのは罪を擦りつけられた事ではなく、国王の隣にいる女性の存在であった。本来ならば王妃ニムラが立っているはずの場所には、先刻出会った美女が枝垂れかかっていたのだ。そこでエイレーネはようやく思い至る。彼女は国王の寵愛を一身に受ける愛妾───ミランダだ。
「…まあ良い。皆、席に着け」
王妃を待たずに着席の合図が出る。それは王妃と愛妾の力関係を如実に表していた。今現在、ミランダには王妃をも凌ぐ権力がある…つまりあの時、エイレーネが逆らわないでいたのは賢明な判断だったのだ。
かくして暗雲の立ち込める晩餐会が幕を開けたのである。