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短編小説の内容はここまでです。この話の後半から新章になります。
夜明けを目前にして、リファトは目が覚めてしまった。もう一度眠ったところで、すぐに起きることになるなら、このまま起きてしまおう。隣にいるエイレーネの睡眠を妨げないよう、彼はそろりそろりと半身を起こした。細心の注意を払ったつもりだったが、彼女は僅かな振動を感じ取ったらしく、小さく唸った。
「すみません…起こしてしまいましたか…?」
囁くようにリファトが謝ると、エイレーネの瞼が緩慢に持ち上がった。しかし殆ど夢の中にいるようで、視線を合わせても彼女はぽうっとしたまま、次の行動に移ろうとしない。これは間もなく二度寝に入るだろう。そんなあどけない彼女の姿に、リファトはつい笑みが溢れる。
彼はおもむろに歪な手を伸ばして、寝台に広がる橙色の髪に触れてみた。見た目に違わず、柔らかな指通りだった。指の腹でふわふわの髪を撫でているうち、彼女に触れられたらと切望していた昨日までの事が回顧され、リファトは感慨無量になる。たとえ深く触れ合うことはなくとも、今はこれだけで満足であった。
その刹那のことであった。エイレーネの表情がふにゃりと崩れる。
「……きれい…」
短いその一言は、完全にリファトの意表を突いていた。エイレーネは夢うつつの眼で見つめながら、でも確かに"綺麗"と告げたのである。その後、彼女は再び眠りに落ちていく。現実世界に取り残されたリファトだけが、ただただ呆然としていた。
「……綺麗、ですか。こんな私が…」
その褒め言葉はエイレーネのためにあるようなもので、己には一生当てはまらない、相応しくもないとリファトは思ってきた。半ば確信に満ちていたほどである。
ところが、エイレーネの瞳には"呪われた王子"が綺麗なものに映ったらしいのだ。俄には信じられない。信じられないほど嬉しくて、いっそ笑えるくらいに動じた。
エイレーネが何を指して綺麗と評したのかはわからない。外見についてではなかったのかもしれない。だが、人違いの線は無いだろう。彼女はリファトを真っ直ぐ見つめて告げたのだから。
気が付けば、リファトは泣いていた。ひび割れた肌に熱い涙が沁みるまで、彼は自分が泣いていることを知らずにいた。頬を伝い落ちた一粒の雫が、波打つ橙色の髪に当たって弾ける。カーテンの隙間から差し込む日の出の光が、小さな飛沫を煌めかせるのだった。
万が一にでも泣いた跡を目撃されたら困るので、リファトはそそくさと寝台を抜け出した。そのまま足音を忍ばせつつ、外にある井戸へ行き、水を汲み上げて顔を洗う。普通は使用人が洗顔の準備をするところだが、彼は自ら断っていた。仮に頼んだとしても、洗面器と水指しを置いて逃げ帰る背中を見ることになり、どのみち片付けるのはリファトなのだ。汚い水の後始末なぞしたくない、というのが使用人の総意らしい。無理にやってもらうより、自分で済ませたほうが互いの為だと思い、そうしてきたが、結局は余計な傷を負いたくないと自衛していただけなのかもしれない。
濡れた顔を拭き、ふうと息を吐いたリファトであるが、城の中から話し声が流れてきたので反射的に耳をそばだてていた。この井戸は厨房に近い場所にあった。
「なんでこんなに早起きしなくちゃいけないのよ。"田舎姫"も自分で身の回りの事をやればいいのに、お高くとまってるんだもの。嫌になっちゃうわ!」
「さぼったらまた怒られるわよ」
「ふん。別に怖くないわ。土いじりしか能の無い小娘なんて」
「あんた、怒られた時、何も反論できなかった癖に」
「ちょっとびっくりしただけ!」
「そんな態度とってて、減給されても知らないわよ」
「"田舎姫"がどれだけ威張っても、給金の出どころは何にもできない幽霊なんだから。それこそ怖くないわ」
黙って聞いていたリファトは、無意識に拳を握り締めていた。愚痴しか言わない彼らが渋々といえど指示に従うようになったのは、エイレーネの叱責が切っ掛けだった。それが無ければ彼らは依然として、リファトを無視していただろう。
何も変えられなかったリファトは、悔しさ故に歯噛みした。ここで黙って引き退るのが、今までの自分。だが、もうそれは止めることにする。リファトの為に医学書を研究し、手ずから薬草作りに励む彼女が愚弄されるのを、どうして見過ごせようか。
何かを変えたいと願うなら、まず己が変わらなければ。恩師の言葉が過ぎる。リファトは一つの決意を胸に、その場を後にした。
中へ戻るとエイレーネも起き出していて、朝食の席を整えていた。彼女はしっかりとパン切り包丁を握っており、ついつい吹き出しそうになる。
「貴女ひとりに押し付けてすみません」
「先程まで手伝ってもらいましたよ。わたしの給仕もなかなか板についてきたのではないでしょうか」
エイレーネがおどけると、リファトは素直に笑った。
「今日の予定は何かありますか?」
「大層な用事は無いですが、ポプリオさんが午後からしか来られないそうなので、水やりはします。あとは…新しく種を蒔こうと計画しているので、土作りをしようかと」
「そうですか。では手が空いたら少しだけ、貴女の時間を貰っても良いですか?」
「でしたら朝食の後、すぐにでも…」
「いえ、それには及びません。水やりには適した時間があるのでしょう?私のために時を逃しては植物達が可哀想です。急ぎではないので、レーネの用事が済んでからで大丈夫ですよ」
「承知いたしました」
朝食を摂りながら、そんな会話をした。
リファトの用事も気掛かりではあったが、エイレーネは一先ず水やりを済ませるために庭に出た。小さな庭とはいえ、水やりは結構な重労働である。井戸水を汲み上げるのも、じょうろに移し替えた水を運ぶのも力が要る。細腕のエイレーネには少しばかりきつい。けれど彼女はどこか楽しげに、井戸から庭までをせっせと往復するのだった。
今回、新たに育てようと計画しているのは、血流促進の効果が期待される薬草だ。先日、ようやっとリファトに触れたは良いが、彼の手が冷たかったのが気になった。暖かな陽気の日だったのに指先が冷えていたのが心配で、エイレーネはすぐに医学書を手に取り、その日のうちに庭師に相談した。ポプリオが午後まで不在なのは、薬草の種を買いに行っているからだった。
うっすらと額に汗を滲ませながら作業を進めていたのだが、朝の会話が頭から離れないので、エイレーネは少し早めに切り上げることにした。リファトはいつものごとく四阿に座っている。手を清め、土を払ってから、エイレーネも其処に腰を下ろす。
「もう良いのですか?」
「はい、殿下。お待たせしました」
リファトはしばし庭を眺めていたようだが、エイレーネに向き直ると噤んでいた口を開く。微笑みを浮かべていない彼の顔は、何度見てもどきりとする。
「…実は、使用人の総入れ替えをしようと考えています」
「えっ?」
身構えてはいたものの、意外な方向からの切り出しにエイレーネは唖然となった。
「私は貴女を悪く言い、軽んじる者を雇い続けたくはありません。今週末にも解雇を言い渡すつもりです」
「あ、あの…わたしは…」
「レーネが良いと許しても、私が我慢なりません」
エイレーネも自分よりリファトが罵られるほうが怒りが湧くと、ごく最近自覚したところなので彼の気持ちは分からなくもない。でも使用人の中にはポプリオのように真面目に働く者も少数ながらいるし、エイレーネの薫陶を受け態度を改めた者もいる。全員を解雇してしまうのはいささか乱暴ではないだろうか。
エイレーネの懸念が伝わったのか、リファトが表情を和らげる。
「全員追い出す訳ではないですよ。辞めたいと願う者と反省の色が見られない者に限ります。と言ってもそれが大半でしょうが…出て行く者に最後の手当ても払います」
男女で言うところの手切れ金であろう。成程それなら、とエイレーネもようやく納得がいった。
「少しの間、限られた人数で仕事を回してもらうことになるでしょう。あまり負担になってはいけないので、私も今日から後任を探します。そこで提案なのですが、レーネも侍女を選んでみませんか?」
「わたしが、ですか!?」
思いの外、声が大きくなってしまったエイレーネは慌てて口を手で塞ぐ。まさか自分で侍女選びをする日が来るとは思わなかったのだ。
「ええ。男の私にはない観点で探せると思いますし、多少でも気心が知れていたほうが貴女も安心できるかと」
「お気遣いは嬉しいのですけど、わたしには伝手もありませんし…探すと言ってもどうしたら…」
「人脈については私も希薄ですよ。なので、ギヨームに聞いてはいかがですか。彼なら多くの患者と接していますし、働き口を探している人間が見つかるかもしれません。身分については問いませんので、レーネが気に入った者を選んでください。見つからなかった場合は私の方で選定しておきますから、そう気負わずに」
いつの間にかリファトの表情と口調は、優しげなものに戻っていた。その声を耳にしていると心が凪ぐので不思議だ。エイレーネも自然と微笑んでおり、了解の返事をしていた。
翌朝、リファトの口から総入れ替えの話が伝えられた。集められた使用人達は一時騒然となった。突如、仕事を失う事を知り、初めは青褪めていたものの希望すれば残れる上、辞める場合も金が支払われると聞くと、次第に落ち着いていった。
リファトが予期していた通り、ポプリオを含めた僅かな人数は残留に挙手をし、大半の使用人は嬉々として退職を選んだ。荷物を纏める手際だけは良いのが憎たらしい。だが、主人が第四王子でなかったなら、彼らは有能な使用人だったのかもしれない。それを思うとリファトは何とも言えない心地になるのだった。
それから、リファトとエイレーネはそれぞれ手紙を書いた。エイレーネはギヨームに、リファトは国王に宛ててだ。何せリファトが行使できる権限はかなり限られている。そのため、やる事なす事全てを父ギャストンに報告しなければならなかった。三日経っても返事が無いなら「勝手にしろ」、逆に何らかの返答があれば「駄目だ」を意味している。ただ使用人を新しく雇いますと伝えるだけでは却下されるのが目に見えているので、リファトは王宮に金銭の要求は一切しない事、先の取り決め通りベルデ国から雇い入れはしない事を書簡にしたためた。結果、三日が過ぎても音沙汰無かったので、許可は下りたようだ。しかし、たとえ反対されてたとしても、リファトは手紙など届いていませんと白を切る算段であった。
それとは対照的にエイレーネは、ギヨームから丁重な返事を貰っていた。彼が定期的に出向いている孤児院を訪れてはどうか、というものだった。その手紙をリファトに見せると、彼は「良いと思いますよ」と背中を押してくれた。
「一緒に行きたいのは山々ですが、子供達を怯えさせては申し訳ないので、私はやめておきます」
本人が遠慮しているのに無理強いはできないが、頷くのも憚られたエイレーネは、無言のうちに眉を下げたのだった。