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大変ありがたいことに、短編小説を読んでくださった方から続きを希望する旨のコメントをいただきまして、このたび連載版の執筆を始めました。前回の投稿から随分と日が空いてしまった上、不定期連載になりますので、この場を借りてお詫び申し上げます。ふと思い出した時にでも読んでもらえれば嬉しいです…。
以下、注意事項です。
・短編と連載では設定や言葉が異なる箇所があります。
・短編では登場しなかった、又は名前がついてなかったキャラクターがてんこ盛りです。
・作中、病気の表現や農耕の説明が出てきますが作者はど素人です。あまり深く突っ込まないでいただけると助かります。
・後々、登場人物の死亡シーンも出てきます。
予めご了承ください。
実りの秋が過ぎ去っても、この国では肌を刺すような風が吹くことはない。ここはベルデ国。三つの大国に囲まれた、内陸の小さな国である。しかし豊かな土壌と穏やかな気候に恵まれ、小さいながらも平穏に栄えていた。ここで暮らす国民は人情に溢れていて、自国の風土を体現しているかのよう。そしてそれは連綿と続くベルデ王室も同様であった。王家の血を引く者達は血生臭い玉座とは無縁の、家族愛に満ちた日々を送ってきたのだ。
エイレーネと名付けられた王女は、そのような場所で育った。季節に関わりなく花が咲き誇る豊かな自然、仲の良い両親から注がれる惜しみない愛情、それらに囲まれていたエイレーネもまた、物腰柔らかな気立ての良い少女に成長したのである。待望の第一子だった為か、五人の子供達の中でエイレーネが最も目を掛けられていたかもしれない。だが、下の兄弟達は姉を妬んだりしなかった。姉は長子だからと威張ることは決してせず、後継ぎである弟に敬意を払い、まだ幼い他の兄弟達の世話も喜んで請け負っていたのだ。故に、エイレーネは慕われこそすれ、僻まれるなんて事は以ての外であった。さらに彼女は周囲の使用人にも優しく、まさしく誰からも愛される王女だったのである。
しかし、王女として生を受けたエイレーネには、課せられた使命があった。それは逃れられない宿命とも言えよう。
ベルデ国は良い国だが国土は小さく、軍事力も他国に遠く及ばない。隣接する大国に徒党を組まれて攻め込まれればひと溜まりも無いのが実情。起こりうる危機を回避するべく、ベルデ王室の姫君は母国を旅立つのだ。不可侵条約をその身に携えて……先代も、そのまた先代の王女達も、いずれかの外国へと嫁いでいった。力を持たぬ小国は、そうするしか民を守る術がなかったのである。
───エイレーネ・メイ・ベルデの命は、愛する祖国のために。
この言葉は、エイレーネが心の中で立てた誓いだ。誰に強要された訳でもなく、賢明な王女である彼女は、生まれながらに背負った使命について理解していた。
祖国で採れた作物はなんでも美味しく、ベルデ国を支える民達は王家に敬服してくれる。エイレーネはこの国と民が大好きだった。祖国と民の安寧のためならば、王女としての使命を果たす事に苦痛など感じなかった。
されど、エイレーネとて齢十六の少女。愛する家族と祖国を後にする事に、一抹の寂しさを抱かずにはいられない。まだ明言はされていないが、以前より囁かれていたサリド皇国への輿入れが近付いているのではなかろうか。かの国にはエイレーネと同じ年頃の皇子がいるという。会った事もない相手であるが、王族の結婚など得てしてそのようなものだ。とはいえ着実に迫っている別れを思うたび、エイレーネは儚い痛みを伴う寂しさを覚える。そんな時、彼女は決まって王宮の庭園へ向かうのだった。
ベルデ王宮の庭園は、それはそれは立派で広大な園である。庭園の一部は式典の折に一般公開される事もあり、民達は壮麗なその内をひと目見ようと、こぞって押しかける程なのだ。初代国王の趣向により年中花が咲くようになったこの庭園を、エイレーネもいたく気に入っている。彼女は気の向くままに散策するのを好み、一輪だけ花を手折っては結い上げた髪に挿したりしていた。
大抵、下の兄弟達と手を繋いで散歩するのだが、今日は独りになりたい気分だった。季節は冬と言っても、厚手の上着を羽織ってしまえばどうという事はない。
もし、寒さの厳しい国に嫁ぐことになったら、暖かな気候に慣れたこの体は耐えられるのだろうか。文化や言語の違いに悩まされるのではないだろうか。
油断すると次々に浮かんでくる不安を、エイレーネは頭を振って追い払う。とっくに覚悟は決めたはず。だったらあとは頑張るだけ。定められた場所と時間の中で、精一杯努めるしかないのだ。今一度、奮起した彼女は、愛くるしいかんばせを引き締めたのだった。
運命の瞬間は、何の前触れもなく突然にやって来た。
乳飲み子を抱える母に持っていこうと、エイレーネが花を束ねていた時であった。待機を命じていたはずの使用人が、家令を連れてくるのが見えた。息を切らせて走る様子に、エイレーネはあまり良くない報せがもたらされたと直感する。
「そのように急いで…何か、あったのですか?」
息が整わぬうちに、家令は先ず無作法を詫びた。エイレーネが構わないと続きを促せば、次いで婚約の報告が伝えられたのだった。
「エイレーネ王女殿下の、ご婚約が決まりました…!お相手はカルム王国の第四王子、リファト殿下にございます!」
おめでとう御座いますと続いた祝辞は、もうエイレーネの耳に届いていなかった。小さく震える両手から、抱えていた花束が落ちる。はらはらと舞い散る花弁は、目の前が真っ暗になり涙を流す事も忘れた姫君の御心のように見えた……後に臣下はそう語ったという。
リファト・グレン・カルム───大海をも統べる王国の王子。
それだけ聞けば申し分ない婚約相手であろう。歳は五つほど上だが、大した問題にはならない。有力候補と囁かれていた王子とは違ったものの、カルム王国の権威はサリド皇国よりも強い。こと海軍の戦力は他国の追随を許さないそうだ。祖国の守護という点において、これほど優れた国は無かった。ならば何故、エイレーネを含めた周囲の者達が顔色を悪くしたのか。その理由は、選ばれた相手が"呪われた王子"だと忌み嫌われているからに他ならなかった。
誰からも愛されている王女の婚約だからこそ、皆が関心を持ち、出来る限りの良縁を望んでいた。そしてエイレーネ自身もささやかながら、乙女らしい理想を持っていたのだ。願わくば、両親のように温かな家庭を築きたい。それは、王女としての決意の裏側でどうしても捨てきれなかった、女の幸せを求める気持ちだった。祖国の安寧のためならば捨てるべきである願望が、心の片隅から消せなかった。
「お願いです、お父様…どうかお考え直しを…」
内にある未練など切り捨てなければならなかったのに、それをしなかったから今、こんな風に決意が揺らいでしまうのだ。エイレーネは父の部屋で項垂れていた。無意識に「嫌です」という言葉が口をついて出た直後、彼女は青褪めながら口元を手で覆った。王女である己に許された発言は「謹んでお受け致します」のみ。国王の決定に逆らうことは何人であろうと許されない。
消え入りそうに弱々しい声だったが、静かに佇む父には聞こえていただろう。ただの親であったなら、引き留めることもできたに違いない。しかしベルデ国の王は、一人の娘よりも国民を選ばなければならないのだ。私情を挟んでいては治世などできぬ。ましてや大国カルムに楯突くことなど!
父はただひと言「すまぬ」と告げた。エイレーネは今度こそ、返答を間違えなかった。高貴な身分の女性は政治の道具、そういう時代に生まれついた。ただそれだけの話なのである。
上に立つ者の矜持ゆえか、エイレーネは取り乱すことはしなかったが、その心は悲嘆に暮れていた。いつでも聞き分けの良かった彼女が、国王の決定に控えめながら異義を申し立てたのだから、心中は察するに余りある。多感な年頃の少女が大切な居場所を手放して異国へ嫁ぐのに、お相手は"呪われた王子"ときた。どこにも救いが無い。
ベルデ王宮の人間は誰も件の第四王子を目にした事がないので、知っているのは出回っている噂だけだ。しかしその噂というのが、中々に酷いのだ。
まず第一に、彼は人目に晒すのが憚られる容姿をしているらしい。虚弱な体質のため体の線は細く、先天的な皮膚病のせいで、全身にまだら模様の痣があるそうだ。特に顔や手足といった末端の病状は深刻なのだとか。だが、エイレーネを失望させた原因はこれではない。生まれつきの病に関して、とやかく言う権利など誰にも無いのは彼女とて分かっている。不可抗力な苦しみを味わってきた彼に、同情を寄せたくらいだ。敢えて懸念を言うとしたら、結婚生活が看病一色になることだろうか。病人の世話をしたくない訳ではないが、苦痛に呻く人の側に居続けるのは存外堪えるものだ。治る見込みが無いのは本人も周りも辛かろう。
エイレーネが憂いたのは、もう一つの噂の方だった。と言うのも、彼は既に二度結婚し、立て続けに二度とも離婚に至っていたのである。
一人目の妃殿下は挙式からひと月と経たないうちに、愛人と駆け落ちした。すぐに別の女性が二人目の妃にあてがわれたが、その人は毎日のように癇癪を起こし、果てには宮殿の金品を無断で持ち出して、故郷へ横流しする始末。当然、追放は免れず、妃殿下は晴れやかに笑って出て行ってそうだ。話を聞くだに悍ましい。エイレーネは妻となった二人の姫君を知っているが、そんな恥知らずな行いをするような人間には見えなかった。
"呪われた王子"には姫君達をそんな風に変えてしまう"何か"があるのではないか。彼の妻となった者は似たような末路を辿るのだとしたら……想像するだけで身震いがする。けれど、逃げ道などどこにも無い。そんなものは最初から在りはしないのだ。自分ではない誰かが決めた道の上を歩くこと。それがこの国における王女の存在価値であった。
突如として決まったエイレーネ王女の婚約に、周囲はどよめいた。そして、そのどよめきは今もなお継続している。
「よくお聞きなさい、レーネ。カルム王国の意向により、来月の半ばに挙式すると書簡が届きました」
「来月の半ばに挙式…?」
どこか呆然と母親の台詞を繰り返したエイレーネであるが、まあ無理もない。国境を跨ぐ結婚となれば、準備に時間がかかるのは当然。王族同士なら尚更である。だというのに、今からおよそ一ヶ月半後に挙式すると伝えられたのだ。いくらなんでも性急すぎるだろう。輿入れする国の言語や文化、礼儀作法にと、覚える事は山のようにある。カルム王国の言葉は簡単な挨拶程度しか知らないエイレーネにとって、ひと月半の準備期間など無意味に等しい。
元々、彼女はサリド皇国の皇妃になる事を想定して、教育が施されてきた。だが蓋を開けてみれば、折角積み重ねてきた知識は役に立たないカルム王国へ嫁ぐ結果となった。王座に君臨したいなんて野心はこれっぽっちも持ち合わせていないものの、これまで費やしてきた時間が無に帰したのは痛手だった。
「それから…供の者を付けてはならぬとのお達しです」
「えっ……な、何故ですか?」
少し眉根を寄せた母は、言い辛そうにしていた。それでも口を閉ざすことはしなかった。王女を導く親として、言い聞かせなくてはならないのだ。
「理由は書かれていませんでした。しかし『ならぬ』ものは『ならぬ』のです。粛として受け入れなさい」
「…はい」
「恨むならわたくし達を。お相手に向けることは止しなさい」
「いいえ、恨むなど。わたしはお父様とお母様の娘に生まれる事ができて、本当に幸せでした」
「レーネ…わたくしの愛しい娘…貴女の幸せを切に祈ります」
厳格な母が声を震わせていた。親ならば誰もが願う子の幸せを二の次にする、それに対する葛藤が表れているようだった。母の瞳には、これから愛娘に待ち受ける試練の将来が見えていたのだろう。
その日以降、エイレーネは寝る間も惜しんで勉強した。向こうの言語が解らなければ、文字通り話にならない。だから朝から晩までカルム王国の本を翻訳し続け、必死の思いで頭に叩き込んだのである。お気に入りの庭園を散策する時間も、残り僅かとなった家族との団欒の時間をも犠牲にして、学ぶことに没頭した。だが、時間はいくらあっても足りなかった。華奢な体に大きな重圧がのし掛かり、旅立つ日が近付くにつれ、エイレーネの顔は憂愁の色が濃くなっていった。元来のエイレーネ王女は朗らかでよく笑う性分の娘であった。その王女が毎日、表情を曇らせているので、彼女に仕える使用人達も一緒になって落ち込んだ。結婚は人生の分岐点であり、期待と不安の両方を孕んでいる。エイレーネの場合は期待は皆無で、不安の方に比重が大きく傾いているのだから、笑えなくなるのも道理だった。
そして訪れた別れの日。この朝食の席が、エイレーネ・メイ・ベルデとして家族と食卓を囲める最後の機会となる。それに際して、彼女は珍しく我儘を言った。旅立つ日の朝食は庭園を眺めながら摂りたい、と。すぐさま許可した父の計らいで、家族は庭園に設けられた美しい四阿に集まった。朝から豪華な食事が並び、寒いなか申し訳ないと恐縮するエイレーネへ、次から次に彼女の好物が勧められたのだった。
朝食の席は和やかな雰囲気に包まれていたのだが、いよいよ出立という時になると、小さな弟や妹達が泣き出した。エイレーネと年子の弟だけは「姉上、どうか息災で」と未来の国王らしく挨拶していたものの、まだ精神的に幼い子達は寂しさに勝てなかったようだ。小さい両手で姉にしがみつき、わんわん声を上げて泣いていた。母にぴしゃりと叱られても離れようとせず、最終的には無理やり引き剥がされる始末であった。
心から別れを惜しんでくれる家族に、エイレーネは掛けたい言葉がたくさん、たくさんあった。しかし、それらを口から出してしまったが最後、目の奥から止めどない涙まで溢れてしまいそうで、できなかった。結局、エイレーネは「今までありがとうございました」のひと言に、全ての気持ちを込めるしかなかったのである。
馬車を牽く白馬がひときわ高く嘶いたのを皮切りに、エイレーネが愛した場所は遠ざかっていくのだった。
ここでは本編に書ききれなかった設定を載せようと思います。有ったり無かったりしますし、読み飛ばしても大丈夫です。
【補足】
結婚は嫌だと言ってしまった事を、エイレーネはとても後悔しています。王女として言うべき言葉ではなかったからです。彼女は自分の母親をお手本にして、正しく立派な王族になる事を目標にしています。