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3-3 「天邪鬼」(「偽我」)

 十歳の頃の私の経験をまず紹介したい。

 休み時間に、二人の同級生がじゃんけんをして遊んでいるのをそばで見ていたことがあった。何度もじゃんけんを繰り返して、どちらがたくさん勝てるかを競っていた。

 二人のことをA、Bと表現しよう。二人がじゃんけんをしているのを見ている間に、Bの立場に立って何を出せばAに勝てるかを頭の中で考えてみようと思いついた。

 最初は勝ったり負けたりしていたと思う。しかし、途中から自分が選んだグー・チョキ・パーの手が連続して勝つようになった。AとBがじゃんけんを止めるまでに、だいたい十回は連続して勝っていたと覚えている。

 いったい何が起こっているのかと困惑したが、AとBがじゃんけんを止めたのを見て、今度は私がAにじゃんけんをしようと誘った。二、三十回は繰り返したと思う。そして、三分の二ほどの比率で私が負けた。

 その出来事について、当時の私は、少なくとも三つの可能性(仮説)を考えたと覚えている。

 一つ目は全くの偶然であるという可能性。確率的にはほとんどありえないようなことだろうが、絶対にないとは言えない。

 二つ目は自分が気づいていない潜在的な自分が、天邪鬼な動機で自分を誘導したという可能性。その場合、潜在的な自分は何を出せば勝てるかを分かっていたことになる。

 三つ目は未知の生命体が自分の心にとりついていて、自分を誘導したという可能性。その場合、未知の生命体は何を出せば勝てるかを分かっていたことになる。(正直に言えば、この説が一番しっくりきた。)

 どの説も具体的な証拠がないので結論を下すわけにはいかないな、というのが当時の私の結論だった。ただ、いろいろと思うことはあった。

 一つは、未知の生命体が自分の心に何かをささやいたとしたら、それが自分の心であるかないかは区別出来ないだろう、ということ。誘導されるのを防ぐのは難しいだろうと考えた。

 一つは、それが何であるにしろ、それは自分を不利な方向に誘導することがあるようだ、ということ。理由のない否定的な心の声に気づいたなら、なるべく従わないようにした方が無難だと考えた。この章でより強く主張したいのはこちらに関することである。


 コリン・ウィルソンが著した『精神寄生体』という小説がある。翻訳された本の発行日から考えると、私はそれを二十八歳以上のときに読んでいる。上記の三つ目の仮説に近い発想で書かれていて、またコリン・ウィルソンと自分が同じような発想をしているのを見つけたな、という感想を持った。

 『精神寄生体』では、精神寄生体は人の心の中に入りこんでいて、人を操ったり、人の精気を奪ったりしている。『精神寄生体』は空想科学小説として書かれており、コリン・ウィルソンは実際に精神寄生体が存在すると考えていたわけではないようだ。コリン・ウィルソンが『精神寄生体』で試みたのは、『アウトサイダー』で記述した内容を小説の形で表現することだったそうだ。特に重視していたのは、以下のようなことだったようだ。

 「アウトサイダー」は深くものを見ることによって、強い高揚感をもたらすような世界を垣間見ている。しかし、決まりきった日常に追われているせいで、その経験を見失いがちで、喪失感から精神的に追い詰められる傾向がある。どのようにすればその喪失感に打ち勝つことが出来るのか、ということをコリン・ウィルソンは示そうとしていた。

 私がここで示そうとしている視点は少し異なっている。私は「心の中で否定的な言葉をささやく何者か」が存在していると考えている。それが、潜在的な自分なのか、それとも未知の生命体のような他者なのかというようなことは、とりあえず問わなくてもよいと考えている。問題なのは、それが理性に反するような行動に自分を追いこむことがある、ということだ。そして、それを容認していると破滅に至ることもある、と考えている。

 「心の中で否定的な言葉をささやく何者か」のことを、私は「天邪鬼」(あるいは「偽我」)と呼んでいる。


 私は「天邪鬼」がささやく言葉はさほど分かりにくいものだとは思っていない。それは、自分の身勝手な欲望をうながすものであったり、自分の意思に反する気まぐれを起こさせるものであったりする。ただ、それを警戒していなければ、知らずに乗せられてしまうこともあるようだ、と考えている。

 エドガー・アラン・ポーの『黒猫』という小説を例にとろう。主人公は思いやりのある子どもだったが、大人になり大酒のために暴力をふるうようになる。それは時とともに激化し、ついには凶行を犯してしまう。主人公は犯罪を隠す方法を思いつき、うまくやったと満足する。しかし、奇妙な衝動に駆られて自らの罪を暴露してしまう。

 私は、主人公を徐々に暴力的な人間に変え、後戻りが出来ないところまで連れていくのが「天邪鬼」だと思っている。そして、自らの罪を暴露させるのも「天邪鬼」だと思っている。

 主人公は暴力衝動に身をまかせただけであり、同時に、そんな自分を罰したいとも願っていた、と考えるのが普通だろう。私もそういう解釈を全否定するわけではない。ただ、早い段階で心のささやきを意識していたら、違う道を選択することも可能だっただろう、と考えているだけである。

 本来の自分であるべきだ、というようなことは言わない。自分がどういう存在であるかということは、生きている限り自分自身に問いかけ、徐々に自ら変えていくものだ、と考えているからだ。私が否定するのは、訳の分からない「心の中で否定的な言葉をささやく何者か」に翻弄されて、自分が本当は望んでいない自分に、いつの間にか、なってしまうことである。(知らないうちに自分がコントロールされているというようなことが嫌なのだ。)


 「天邪鬼」がいくら巧妙であったとしても、一度に人の心を変容させてしまうことは出来ないだろう、と考えている。それは少しずつ人の心に侵食してきて、徐々に心のパーツを組み換え、最後は取り返しがつかなくなるように仕向けるのだろう、と考えている。

 私は、人の心はそんなに単純なものではないと考えている。一人の中に様々な心があり、相反していたり、複雑に絡み合っていたり、強かったり弱かったりしているのだろう。そして、その場その場で、慎重に、あるいは軽はずみに、どれかを選択しているのだろう。時々はちょっと立ち止まって、自分の心を冷静に観察することが、自分自身を救うこともあるはずだ、と考えている。「天邪鬼」に支配されない確率を高めるには、自分自身の心であっても鵜呑みにしないという態度が必要だと考えている。



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