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3-2 「観念」

 次に、「深くものを見る」ことを妨げている要因の2つ目について説明したい。

 それは、人は「観念」という眼鏡を通して物事を観察する傾向があり、現実の現象を直接的に判断するのではなく、対象に対して「観念」をまず当てはめ、個人個人が保有している「観念」に付随している判断を採用し、それで分かったという気になる傾向がある、ということである。そこで思考が止まっていることには気づかない。

 観念、あるいは概念、とらえ方、見方、考え方、理念、など、様々な表現が出来ると思うが、ここではそれらを代表して「観念」という用語を使うことにする。この文章内での「観念」の定義は、「頭の中で形成した特定の方向性を持った判断」というようなこととする。「観念」に対応する現象が現実に存在するかしないかは、定義上は問題にしない。


 アイザック・アシモフが提言した「ロボット三原則」を例にしてみよう。私がその考え方を知ったのは十歳より前だったと思う。その時は、どこまで有効かには疑問があるけれど、なるほどそれは一つの知恵だなという風にとらえていたと記憶している。しかし、その後、「ロボット三原則」の考えを取り入れた『わたしはロボット』という小説の子供向けに翻訳された本を読んで、これは本当に実現可能な話なのかという疑問を持った。具体的には、「ロボットは人間に危害を加えてはならない」という原則の一つに対して、いったいどのようにロボットを制御すればそれを実現出来るかという視点が乏しい、と思ったのだった。

 小説に書いてないなら、自分で考えてみるまでである。私は、ロボットが遭遇すると予想される全ての事例を洗い出しておく必要があるだろうと考えた。そして、その事例ごとにどう対応すべきかプログラムしておかなければならないだろうと考えた。具体的なことは覚えていないが、例えば、ロボットが自動車を運転する場合は人間にぶつからないようにしなければならないとか、赤ん坊などの世話をする場合には強い力を入れてはいけないとか、そのような事細かい指示をあらかじめロボットに指定しておくことが必要であろうと考えたのである。

 もし、少しでも漏れがあれば「ロボットは人間に危害を加えてはならない」という原則を実現することは出来ないだろう。また、新しい仕事をさせるためには、その度にそれに応じた新しい手順を記憶させねばならないだろう、などと考えた。(このように様々な事例に対する手順を集積していくというような考え方は、現在のAI技術に通ずるものがあると思う。なお、この考え方が唯一無二の解答であると思っていたわけではないので、そこは誤解しないでもらいたい。あくまでも、解決策の一つとして考察しただけである。)

 「ロボット三原則」という考えは、ただそれだけを見てみれば、現実にどのようにすれば実現出来るかという視点が乏しい「観念」である。もしそれを実現しようとするなら、どのようにすれば実現出来るかを検討する必要がある、と私は考えている。

 アイデアを練る場合には、「観念」は有効な道具であると考えている。その段階では、現実性を考慮せずに検討することも有効だと考えている。しかし、「観念」はしばしば人の考えに強い影響を及ぼして、現実に目隠しをしてしまうことが多い。だから、「観念」を検討したならそこで終わらせず、必ず現実性について検討しなければならないと私は考えている。アシモフはその点に対してかなり無頓着なのではないか、と私は感じたのだった。(小説なのだから、多少非現実的な描写があっても全否定するわけではない。)


 現実を無視して「観念」だけをこね回し、現実離れした「観念」で物事を判断している人は非常に多い、と私は思っている。そういう人は「観念」は見ているが、現実は見てない。「観念」にはまりこんでしまうと、外に目を向けることが出来なくなる。そして、いつまでたってもそこから抜け出せなくなる。ついには、「観念」に合わせて、現実の方を歪めてとらえるようになる、と私は考えている。

 「観念」による弊害を回避するためには、「観念」を現実と突き合わせて検証してみれば事足りる。しかし、それは言うほど簡単なことではない、と私は考えている。「観念」が現実でなければならないという信念を持った人々に対しては、いくら丁寧に現実を説明しても納得させることなど出来ないだろう。

 「アウトサイダー」がどのようにしてそのような混乱を回避しているか、という点に絞ろう。

 何か物事を判断する場合に、それを自分なりの分類で振り分け、その分類に対応する「観念」を当てはめようとすること自体は、おかしなことではない。「観念」は過去に蓄積した情報を基にしており、その情報を有効に活用するのは合理的である。「アウトサイダー」でも、その点は同じである。

 ただし、「アウトサイダー」であれば、その「観念」を自動的に受け入れてしまうことは少ないだろう。過去に作り上げた「観念」に問題はないか、目の前の現実にも同じように当てはめられるか、などを検証しようとするだろう。その「観念」に無意識的な判断が含まれていないかということに関しても注意深く考察するだろう。

 一度考えただけで最終的な結論が出る、とは私は考えない。ある程度の判断が出来ても、それは暫定的なものであり、もっと適したとらえ方があるはずだ、といつも考えている。だから、私は機会があるごとに自分の様々な「観念」を様々な現実と突き合わせて検証し、よりよい判断を得ようとしている。


 「観念」の問題は、もっと視野を広げるなら、言葉(言語)の特質の問題ととらえることが出来る、と私は考えている。「観念」を表現するためには言葉が必要である。言葉で表現すると現実にもそれが存在するものだと人は考えがちだが、それは、言葉は現実そのものではないということを忘れているからだ。

 言葉(言語)は便利な道具だが、様々な特質があり、それを理解せずに安易に使っていれば、自分自身に物事を捻じ曲げてとらえさせたり、他の人に捻じ曲げた考えを植えつけたりするように作用する。ほとんどの人はそこまで考えて言葉を使っているわけではないので、様々な誤謬に陥りがちだ、と私は考えている。(「アウトサイダー」とは別個の大きなテーマなので、ここではこれ以上扱わない。)


(補記:「アウトサイダー」の本質が「深くものを見ること」にあるとしているのに、「観念」を不器用にこねくり回して、現実と幻をごちゃ混ぜにしているような人々を、私は「アウトサイダー」であるとは認められない。コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』には、そういう視点が乏しいと感じている。)



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