3-1-3 意識と無意識の性質と活用
意識とはなんだろうかと考えることがあるが、今のところ自分を納得させられるような仮説を私は持っていない。ただ、意識と無意識がそれぞれに異なる性質を持っていて、果たしている役割にも違いがあるようだ、とは考えている。
少し寄り道をして、以下に、意識と無意識についての私の考察(仮説)をいくつか説明してみたい。そして、「アウトサイダー」がどのように意識と無意識を活用しているかについても、いくつかの仮説を説明したい。
(1)情報の蓄積
幼児期において意識と無意識がどのような位置づけにあるのかは正確には分からないが、無意識の領域における情報の蓄積が大人よりは少ないということは言えると思う。幼児は経験を積むに従って膨大な情報を獲得していくことになるだろう。獲得した全ての情報を意識したままでいることは出来ないから、それらの多くは無意識の領域に蓄積されていくことになるのだろう。そして、必要があれば意識の領域に引き出して、活用するということになるのだろう。どのようにして情報を蓄積し、必要となったときどのようにして情報を検索し、そしてそれをどのようにして活用するのだろうか。それらの処理のかなりの部分は無意識の領域で行われていて、意識することが出来ない、というように私は考えている。
蓄積した情報が膨大になるに従って、簡単に意識の領域に引き出せなくなる情報も増えていくだろう。おそらく頻繁に引き出される情報や印象の強い情報は優先順序が高いとして、意識の領域に近いところで蓄積され、検索も容易なのだろう。しかし、めったに引き出されない情報や思い出したくないような情報などは、無意識のより深い領域に蓄積され、検索が容易ではなくなるのだろう。そして、ほとんど検索不可能な情報もどんどん蓄積されていくのだろう。
ただし、無意識の領域に蓄積されて意識するのが困難になったからといって、その情報が全く活用されてないということはないだろう。無意識の領域でも、情報の検討やそれにもとづく判断、あるいは意思や行動の決定、などの機能がそれなりに働いているはずだと考えている。そして、それらの結果が意識に上ってくる場合もあれば、上ってこない場合もあると考えている。意識に上ってこなかった場合、無意識の領域で何が起こっているのかを察知するのは、それなりの習熟が必要だろうという私の考えは3-1-2で記述した通りである。
(2)チェックポイントと自動化
意識というものは、頭の中で情報を処理する際に、処理過程のあちこちにチェックポイントがあって、チェックポイントを通過するごとにいちいち処理を停止し、進捗状況を検証し、検証結果によっては処理方針を変更する、というような類いの働きをしているのだろう、と私は想像している。(そこに「言葉を操る」などの高度な機能も加わってくると考えているが、ここでは考慮しない。)
それに対して、無意識下での情報処理では、進捗状況を確認するために停止するというようなことはほとんどなく、自動的にどんどん処理が進行していくことが多いのだろう。いちいち停止しないから処理速度が速いし、大量のデータを処理することも可能であるようだ。
意識下での情報処理は速度が遅く、脳への負担も大きい。逆に、無意識下での情報処理は速度が速く、脳への負担が小さい。そのような傾向があると考えている。
脳への負担の大きい情報処理を人は嫌う傾向があり(たいていの人は勉強のような意識的に頭を使う行為が嫌い)、従って、なるべく考えずに結論づけようとすることが多くなるのだろう。そのため、なるべく無意識下で自動的に情報を処理しようとするようになるのだろう。しかも、自分ではそうしていることにほとんど気づかない。
無意識下でどのように自動的な処理を実現しているのかという点については、一つの仮説として以下のように考えている。
何かを初めて経験するとき、それについての情報は頭の中に何もないはずである。そして、一度でも経験すると、何らかの情報が脳に蓄積されるはずである。そのとき、どう考えてそうしたか、どういう結果になったか、どうすればよかったと考えたか、など様々な情報が蓄積されるが、それは単なる記憶でしかない。しかし、同じような経験を何度か繰り返すと、その経験の共通点をパターンとして脳が認識するようになるのだろう。最初は意識的に判断したことでも、それはもう前にやったことだからそのときと同じ対応をすればいいと判断するようになり、いちいち意識せずに判断するようになるのだろう。(私は「頭の中に回路が出来る」という表現をよくする。)経験を積めば積むほど、意識するチェックポイントが減っていく、という言い方をしてもいいだろう。
自動化には次のような特徴があるようだ。
その一、一度でも経験すれば記憶に残り、それが自動化の材料になる。その二、経験の積み重ねによって自動化は自動的に起こる(無意識の領域で処理される)。その三、経験が少ない段階では自動化のレベルは低いが、経験を積むほど精密になっていく。その四、意識して改善を心掛けていると、より高度な自動化が可能になる。(スポーツなどにおける技術向上を思い浮かべていただきたい。)その五、不適切な状況で自動化が働いてしまうことがある。その六、使わないでいると少しずつ劣化する。……等々。
(3)意識と無意識の境界
意識と無意識の境界ははっきりしたものではなく、固定されたものでもないと私は考えている。例えば、人に指摘されて、初めて自分の「本心(仮)」(感情などのもろもろ)に気づいたという経験は多くの人にあるのではないか。そして、一度気づいてしまうと、今まで意識していなかったのに、いつでも意識出来るようになったという経験もあるのではないか。(何が「本心」であるかは、議論の余地がある問題であると考えている。意識と無意識はいくつもの階層を形成していて、その階層ごとに異なる質の「本心」があるのかもしれないというのが私の仮説の一つであるが、ここでは掘り下げないものとする。)
意識と無意識の境界にあるような情報を意識することによって、意図的に意識の領域を拡張することがある程度は可能であるというのが私の考えである。
「アウトサイダー」は無意識の領域で起こっていることに対して非常に敏感な人たちであるから、日常的に意識領域を能動的に拡張していて、一般の人と比較すればかなり広い意識領域を持っている、と私は考えている。
意識領域が広いということは判断材料が多いということでもある。考える際に有利であるのは当然であり、大きな差異をもたらす可能性があると考えている。
(4)無意識領域の活用と「発想」
無意識の領域は、何となく想像がつく部分もあるが、基本的にはブラックボックスとなっていて、どのような処理が行われているのかはよく分からない。
おそらく、コンピュータで行われているように、情報の管理(格納や検索など)と数学的な計算は、行われているだろう。記憶や計算に関して、まれに極めて高度な能力を発揮する人々が存在しており、そのような特異な能力も、誰もが潜在的には持っているのかもしれないとも思う。
「アウトサイダー」が発揮する能力で特徴的だと思うのは、発想が少々独特であるということである。それは「アウトサイダー」が無意識の領域をある程度は活用しているからだ、というのが私の考えである。
以下は仮説とも言いがたいようなレベルの想像であることを断っておく。
私は、無意識の領域では、様々な情報の検索や記録、その情報をめぐっての様々な考察や検証、流動的な情動の形成、言語化(言語機能の操作)、などなど、膨大な量の情報処理が常時行われている、と考えている。そしてそれは、感情や意思の強度によっては、よりいっそう膨れ上がる、と考えている。
しかし、そのほとんどは意識の領域まで上がってこない、従って、その存在に気づくこともないということが多いようだ。
その理由を、私は次のように推測している。処理量が膨大すぎて意識の領域でさばききれないから、あるいは、そのほとんどが整理されておらず有意な情報になっていないから、あるいは、無意識の領域で形成された取捨選択の回路によって自動的にかなりの情報がゴミとして捨てられているから、など。
もし意識に上がってこない膨大な処理情報の中に、完成度が低いかもしれないが、ごくまれに貴重な「発想」があったらどうだろうか。みすみす「未加工のダイヤモンド」を捨てていることになるのではないだろうか。だが、「アウトサイダー」は人より少し、「未加工のダイヤモンド」を拾い上げる能力があるようだ。
既に言及したように、「アウトサイダー」は無意識の領域で起こっていることに対して非常に敏感な人たちである、と私は考えている。「アウトサイダー」は、基本的には、自分自身に関して発生する様々な現象を注意深く観察していて、その情報をもとに無意識の領域で起こっていることを推理しているのだろう。しかし、それだけではなく、無意識の領域からときたま漏れ出てくる、ときに脈絡のないような「発想」を拾い上げることも多いようだ。
「発想」は、特に苦労することもなしにふわりと浮かび上がってくることがある。あるいは、うんうんとうなるほど考えた末にふと浮かび上がってくることもある。もうこれ以上は考えられないと諦めて何日もたってから浮かび上がってくることもある。様々なパターンがあるようだ。
「発想」を拾い上げること自体は、「アウトサイダー」ではないクリエイティブな人々も行っていることだろうと思う。そこに違いがあるとすれば、「アウトサイダー」は無意識的な(自動的な)判断を回避する能力が高く、個々の「発想」をじっくり検討出来ることが多いという点にあるだろう。だから、拾い上げた「発想」を、簡単にゴミとして捨ててしまうこともなければ、逆に、簡単に「未加工のダイヤモンド」だと決めつけることもない。
もう少し説明すると、例えば、天動説が当然だととらえられていた時代であっても、地動説が出てきたときに頭から否定するのではなく、じっくり検証してみることが出来るかどうか、というようなことである。固定観念の強さで言えば、ほとんどの現代人は天動説に固執した人々と全く変わらない、というのが私の観察である。それは専門家であるかないかにはあまり関係がない。
「未加工のダイヤモンド」は、検証したり修正したり洗練したりしなければ「未加工のダイヤモンド」のままである。「アウトサイダー」は何度も繰り返し考えることで、「発想」の精度を高めたり、新たな「発想」を組み上げたりしているのだろう。そして、その過程でも無意識の領域とやり取りをしているのだろう。