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タイムパラドックスは矛盾じゃない

A:本文


言語【日本語】


形式【小説】


人物 編集長・小説家・その他。


編集長=柳坂一郎。


小説家=羽村岳。


出来事(『編集長、曖昧な言葉を述べる』


    『編集長・小説家、会話する』


    『編集長、部屋を出る』


    『小説家、人を殺す』


    『小説家、不安を感じる』


    『小説家、旅立つ』)。






B:解釈その1


「今流行りのタイムトラベルを題材にした小説を書け」


 小説家が入ってくるなり、Web季刊誌『トレンドライン』の編集長、柳坂一郎は命じた。柳坂が前置きなしで話を始めるのは、業界内でも有名な話である。


「条件は一つだけ、作中でタイムパラドックスは絶対に起こすな。読者の反応がやっかいだ」


 机と戸棚があるだけのこじんまりした部屋である。小説家の羽村岳は立ったままの姿勢で、柳坂の指示を聞いている。


「プロットとテーマは自由に決めていい。字数は約一万字、期限は一週間。……何か質問は?」


 羽村は無言で十秒ほど熟考してから、不明瞭な点について編集長に確認する。


「タイムパラドックスというと具体的には?」


「例えば、主人公が過去に遡って自分の親を殺すなんてストーリーは即不採用だ。第二次大戦前にヒトラーを暗殺するような歴史改変もいらん。自動車事故で死んだ彼女の身代わりになるとか、受験前夜の自分にテストの解答を教えるとか、その手の因果関係がややこしいプロットは全てゴミ箱行きだと思え」


 論点が明確になったところで、羽村は私見を述べた。


「タイムパラドックスなんて妄想ですよ」


「どういう意味だね?」


「人類がいくら努力しても、タイムパラドックスは起こせないって意味です」


 柳坂は椅子に深く座り直し、両手を組んで羽村を見上げた。相手とじっくり話し合いたい時、彼は常にこのポーズを取る。


「詳しい説明を」


「編集長は、この世界は何で出来ていると思いますか?」


「素粒子の講義でもする気か?」


 柳坂がやや皮肉めいた口調で言う。


「それとも物質の最小単位は紐だとかいう編み物の話か? あいにく生活と無関係な話題には興味を持てない性分でね。考えたこともないよ」


 編集長の言葉が止まるのを待って、羽村は説明を再開する。


「世界の成り立ちに関して、自分はホログラフィー仮説の支持者でしてね」


「何だそれは?」


「えーと、ホログラフィーはわかりますよね?」


「一応、工学修士だからな」


 自嘲っぽく笑ってから、柳坂は学生時代の記憶をたぐり寄せる。


「ホログラフィー……立体映像を平面上に記録する技術だ」


「その通りです。では、そのホログラフィーの技術を世界に当てはめたらどうなるでしょう?」


「世界、だって?」


「我々が暮らす世界は三次元空間である……賛同してもらえますか?」


「異議なし」


「そして編集長の言う通り、ホログラフィーというのは立体映像を平面上に記録する……言い換えれば三次元を二次元に写し取る技術です」


 思わせぶりに口を閉じた羽村に代わって、柳坂が主張を結論づけた。


「人間が暮らす世界は、二次元上に記録された情報の集合体にすぎないのだ……とでも宣うつもりかな?」


「それがホログラフィー仮説です。ただし、それは正統派の意見。自分が支持しているのは異端の説でして。異端派曰く、『人間が暮らす世界及び人間は、二次元上に書かれた言語にすぎない』」


 柳坂の両手が机の上で何度か組み替られる。深くモノを考える時の彼の癖である。それを知っている羽村は、無言で編集長の返事を待った。


「宇宙空間の正体、それは二次元上に記述された言語である……オカルトサイトのキャッチコピーみたいだな。いや、待てよ。もっと良いフレーズがあるぞ。『言語を操る人間、実は言語そのものだった!』」


 軽く一笑いしてから、羽村は言葉を返す。


「冗談みたいな話ですけど、自分はその説を本気で信じてるんです」


「信仰の自由は認めるよ。それで……?」


 柳坂は上目遣いで、羽村に問いかける。


「世界が記述された言語だとして、タイムパラドックスと何の関係が?」


「その言語ですけど……」


 コンマ五秒の間を介して、羽村は続ける。


「世界を記述する言語って、どんなのでしょうね?」


「さっきから君は質問ばかりだな」


 わざとらしく呆れ顔を作って、柳坂はため息をつく。


「女でも口説く気か? 聞いているのはこっちなんだぞ」


「まあまあ、もう少しだけ付き合ってくださいよ」


「世界を記述する言語ねえ……」


 その方面に明るくない柳坂が、『言語』と聞いて思い出すのは二種類しかない。日本語や英語のような自然言語か、プログラミングに使用するコンピューター言語だ。そして、世界を創造するのに使えそうな言語といえば。


「構造的にはプログラミング言語に似たものだろう。自然法則が物理エンジンに、生物は学習するAIに対応する。君も私も人間の形をしているがその実体は文字列の塊で、自由意志なんてまるでなく、記述された通りに行動するだけの哀れな機械というわけだ。……これで満足かね、言語君?」


「熱弁ありがとうございます、言語編集長。でも自分の意見は全然違うんです」


「では、君の信条をたっぷり聞かせてもらおうか」


 柳坂は背筋を伸ばし、羽村の説明に耳を傾けた。


「世界を記述する言語と聞けば、誰しもコンピューター言語のように厳格な規則を持ったものを想像します。それはおそらく宇宙空間が自然法則によって詳細に定義されているように思えるからです」


「なるほど」


「そこから、人間は記述された言語に従うだけのAIだ、という発想が生まれる」


「そうだな」


「ですがもし、記述に使われているのが曖昧な言語だとしたら? 文法規則の緩い自然言語に似たものだとしたら? この世界は抽象的で、いくつもの解釈が成り立つことになります。読み手次第で意味が変わるような小説のように」


 再び、柳坂の両手がせわしなく動き始める。机を挟んで立つ羽村は、入ってきた時から同じ態勢のままだ。


 沈黙は十秒以上続いた。柳坂の口が開く。


「今度はこちらが質問する番だ。もし君の主張が正しいとすれば、この世界は意味がなんとでも取れるような曖昧な言語で記述されているわけだ」


「ええ」


「君と私がこうして会話しているのも、記述された結果というわけだな?」


「そうなりますね」


「どうせなら具体的なコードが知りたいね。ああ、もちろん実際にはわかるわけがない。人間はメタ情報を認知できない生き物だからな。君の想像で構わんから、どんな風に書かれているのか試しに言ってみてくれ」


 羽村は即座に回答する。


「『編集長と小説家が会話する』とか?」


「おいおい、そこまで曖昧でいいのか!」


 柳坂は面白がって、机をバンバンと叩く。


「会話の内容も行動も一切の指定は無しときた! なら、こうして私が机を叩くことは予定になかったわけだな。君の意見はよくわかったよ。『人間は完全に自由ではない。記述された言語に従う必要がある。ただし、記述された範囲内において人間は自由である』って感じだ。決定論と自由意志の中間ってところかな」


 柳坂は両手でリズムを刻むのを楽しみ、ふと本題を思い出す。


「タイムパラドックスはどうした? まだ答えを貰っていないぞ」


「これが最後の結論です。曖昧な言語で世界が記述されているなら、タイムパラドックスは矛盾ではありません」


「というと?」


「人間は記述された範囲内で自由に行動できます。裏を返せば、記述されていることに反しない限り、何が起きても矛盾とはいえないわけです」


「一見タイムパラドックスに思える事象も言語の上では矛盾していない?」


「それが自分の信条です」


「なかなか興味深い話だな。ところで君の説明を聞いてふと思ったんだが……」


 柳坂の言葉は、突然鳴り響いた着信音によって中断された。柳坂はポケットから端末を取り出し、画面を確認する。


「失礼、すぐ戻る」


 羽村を一人残して、柳坂は部屋を出た。羽村も携帯端末を取り出して、時刻を確認する。15時35分20秒。羽村はほくそ笑み、端末をしまう代わりに内ポケットからナイフを取り出した。刃渡り十五センチの、持ち歩く理由がまずないナイフである。


 羽村は両手を後ろで組み、その片方の手で柄を握って、編集長が戻ってくるのを待った。


 一分後、部屋の扉が開いた。柳坂は端末をいじりながら、侘びの言葉を述べる。


「待たせて悪い。仕事の連絡にいちいち電話を寄こすやつがいてな。通話なんて時代遅れだと何度も言ってるんだが、習慣というのは厄介なもので……」


 端末に気を取られている隙を狙い、羽村のナイフが柳坂の心臓を一突きした。声をあげることもできず、柳坂の体が床に倒れこむ。


 羽村はかがみこみ、編集長の死を確認する。


「これも実験のためです。許してくださいよ」


 羽村の動きは迅速だった。ナイフが刺さったままの柳坂の死体を戸棚に放り込むと、何食わぬ顔で編集長の部屋から出た。他の社員は平常通り仕事にいそしんでいて、気づかれた様子はない。デスクの合間を堂々と通り抜けて、そのまま建物の外に出ることができた。


 羽村の目的地は決まっている。今流行りのタイムトラベル業を営む、株式会社TTTタイムトラベルツーリストの時空港だ。一部の富裕層の娯楽にすぎなかった時間旅行を一般人でも手の届くようにしたのはTTTの功績である。


 もっとも、人類はいまだ過去にしか進路を許されていない。逆行できる時間もせいぜい二時間程度。未来に戻る手段はないので、時間旅行者は遡った時間の分だけ浮いた時間を楽しみ、『現在』に帰還する。


 16時11分29秒、羽村は時空港に到着した。受付で待ち時間を確認する。


「ラッキーですね、お客さん」


 受付の女性は愛想よく応じた。


「今なら十分後に出発できますよ」


「それで結構です」


「では、時刻の指定をお願いします」


 羽村は差し出された端末を叩き、14時30分00秒と入力した。


「いくつか注意事項があるので、出発までにお読みください」


 画面が切り替わり、タイムトラベルに関する諸注意が表示される。一番上の文言は『タイムパラドックスを起こす恐れのある行動は控えてください』。そして、そうした行動の具体例が続く。


 羽村はそのページを不敵な笑顔を浮かべて読んだ。彼は思う。タイムパラドックスは決して起こらない。これまで無数の時空旅行者が過去に赴いたが、パラドックスを恐れるあまり、彼らは特定の行動を忌避してきた。まさにこのページに書かれていることを。先祖殺し、親殺し、そして自分殺し。そうやって人間の可能性に蓋を閉めるのはもったいないと羽村は考える。


 もしかすると、自分以前にも時空のタブーに触れた者がいたのかもしれない。それでも世界は普通に進んでいる。どちらにせよタイムパラドックスは存在しない。


 タイムパラドックスは矛盾じゃない。


 羽村は向こうの時空港に着いてからの予定を再確認した。出港手続きが三分。工具店での買い物に五分。そこから編集長の部屋まで約四十分。目的の15時35分20秒には充分間に合う。


「羽村様、出発の準備が整いました。どうぞお進みください」


 案内に従い、羽村は五角形の小部屋に入った。黒い壁に囲まれた何の変哲もない空間である。無論、壁の向こう側には時間を操る究極の技術が隠されていて、今から羽村を過去に飛ばしてくれる。


 出発直前になり、羽村は心なしか不安を感じた。仮に、自分がこれから起こす行動でタイムパラドックスが起きてしまったら? 最悪の場合、自分という存在は消滅してしまう。羽村にも死に対する恐怖はあった。だが、自身の信条の正しさを証明するのだという固い決意が、そうした迷いを頭から打ち払った。


 ブウウウンと、激しい振動音が響いた。空間が捻じ曲がるような奇妙な感覚とともに、羽村は過去の時空港へと旅立っていった。






A:本文


言語【日本語】


形式【小説】


人物 編集長・小説家・その他。


編集長=柳坂一郎。


小説家=羽村岳。


出来事(『編集長、曖昧な言葉を述べる』


    『編集長・小説家、会話する』


    『編集長、部屋を出る』


    『小説家、人を殺す』


    『小説家、不安を感じる』


    『小説家、旅立つ』)。






C:解釈その2


「今流行りのタイムトラベルを題材にした小説を書け」


 小説家が入ってくるなり、Web季刊誌『トレンドライン』の編集長、柳坂一郎は命じた。柳坂が前置きなしで話を始めるのは、業界内でも有名な話である。


「条件は一つだけ、作中でタイムパラドックスは絶対に起こすな。読者の反応がやっかいだ」


 机と戸棚があるだけのこじんまりした部屋である。小説家の羽村岳は立ったままの姿勢で、柳坂の指示を聞いている。


「プロットとテーマは自由に決めていい。字数は約一万字、期限は一週間。……何か質問は?」


 羽村は無言で十秒ほど熟考してから、不明瞭な点について編集長に確認する。


「タイムパラドックスというと具体的には?」


「例えば、主人公が過去に遡って自分の親を殺すなんてストーリーは即不採用だ。第二次大戦前にヒトラーを暗殺するような歴史改変もいらん。自動車事故で死んだ彼女の身代わりになるとか、受験前夜の自分にテストの解答を教えるとか、その手の因果関係がややこしいプロットは全てゴミ箱行きだと思え」


 論点が明確になったところで、羽村は私見を述べた。


「タイムパラドックスなんて妄想ですよ」


「どういう意味だね?」


「人類がいくら努力しても、タイムパラドックスは起こせないって意味です」


 柳坂は椅子に深く座り直し、両手を組んで羽村を見上げた。相手とじっくり話し合いたい時、彼は常にこのポーズを取る。


「詳しい説明を」


「編集長は、この世界は何で出来ていると思いますか?」


「素粒子の講義でもする気か?」


 柳坂がやや皮肉めいた口調で言う。


「それとも物質の最小単位は紐だとかいう編み物の話か? あいにく生活と無関係な話題には興味を持てない性分でね。考えたこともないよ」


 編集長の言葉が止まるのを待って、羽村は説明を再開する。


「世界の成り立ちに関して、自分はホログラフィー仮説の支持者でしてね」


「何だそれは?」


「えーと、ホログラフィーはわかりますよね?」


「一応、工学修士だからな」


 自嘲っぽく笑ってから、柳坂は学生時代の記憶をたぐり寄せる。


「ホログラフィー……立体映像を平面上に記録する技術だ」


「その通りです。では、そのホログラフィーの技術を世界に当てはめたらどうなるでしょう?」


「世界、だって?」


「我々が暮らす世界は三次元空間である……賛同してもらえますか?」


「異議なし」


「そして編集長の言う通り、ホログラフィーというのは立体映像を平面上に記録する……言い換えれば三次元を二次元に写し取る技術です」


 思わせぶりに口を閉じた羽村に代わって、柳坂が主張を結論づけた。


「人間が暮らす世界は、二次元上に記録された情報の集合体にすぎないのだ……とでも宣うつもりかな?」


「それがホログラフィー仮説です。ただし、それは正統派の意見。自分が支持しているのは異端の説でして。異端派曰く、『人間が暮らす世界及び人間は、二次元上に書かれた言語にすぎない』」


 柳坂の両手が机の上で何度か組み替られる。深くモノを考える時の彼の癖である。それを知っている羽村は、無言で編集長の返事を待った。


「宇宙空間の正体、それは二次元上に記述された言語である……オカルトサイトのキャッチコピーみたいだな。いや、待てよ。もっと良いフレーズがあるぞ。『言語を操る人間、実は言語そのものだった!』」


 軽く一笑いしてから、羽村は言葉を返す。


「冗談みたいな話ですけど、自分はその説を本気で信じてるんです」


「信仰の自由は認めるよ。それで……?」


 柳坂は上目遣いで、羽村に問いかける。


「世界が記述された言語だとして、タイムパラドックスと何の関係が?」


「その言語ですけど……」


 コンマ五秒の間を介して、羽村は続ける。


「世界を記述する言語って、どんなのでしょうね?」


「さっきから君は質問ばかりだな」


 わざとらしく呆れ顔を作って、柳坂はため息をつく。


「女でも口説く気か? 聞いているのはこっちなんだぞ」


「まあまあ、もう少しだけ付き合ってくださいよ」


「世界を記述する言語ねえ……」


 その方面に明るくない柳坂が、『言語』と聞いて思い出すのは二種類しかない。日本語や英語のような自然言語か、プログラミングに使用するコンピューター言語だ。そして、世界を創造するのに使えそうな言語といえば。


「構造的にはプログラミング言語に似たものだろう。自然法則が物理エンジンに、生物は学習するAIに対応する。君も私も人間の形をしているがその実体は文字列の塊で、自由意志なんてまるでなく、記述された通りに行動するだけの哀れな機械というわけだ。……これで満足かね、言語君?」


「熱弁ありがとうございます、言語編集長。でも自分の意見は全然違うんです」


「では、君の信条をたっぷり聞かせてもらおうか」


 柳坂は背筋を伸ばし、羽村の説明に耳を傾けた。


「世界を記述する言語と聞けば、誰しもコンピューター言語のように厳格な規則を持ったものを想像します。それはおそらく宇宙空間が自然法則によって詳細に定義されているように思えるからです」


「なるほど」


「そこから、人間は記述された言語に従うだけのAIだ、という発想が生まれる」


「そうだな」


「ですがもし、記述に使われているのが曖昧な言語だとしたら? 文法規則の緩い自然言語に似たものだとしたら? この世界は抽象的で、いくつもの解釈が成り立つことになります。読み手次第で意味が変わるような小説のように」


 再び、柳坂の両手がせわしなく動き始める。机を挟んで立つ羽村は、入ってきた時から同じ態勢のままだ。


 沈黙は十秒以上続いた。柳坂の口が開く。


「今度はこちらが質問する番だ。もし君の主張が正しいとすれば、この世界は意味がなんとでも取れるような曖昧な言語で記述されているわけだ」


「ええ」


「君と私がこうして会話しているのも、記述された結果というわけだな?」


「そうなりますね」


「どうせなら具体的なコードが知りたいね。ああ、もちろん実際にはわかるわけがない。人間はメタ情報を認知できない生き物だからな。君の想像で構わんから、どんな風に書かれているのか試しに言ってみてくれ」


 羽村は即座に回答する。


「『編集長と小説家が会話する』とか?」


「おいおい、そこまで曖昧でいいのか!」


 柳坂は面白がって、机をバンバンと叩く。


「会話の内容も行動も一切の指定は無しときた! なら、こうして私が机を叩くことは予定になかったわけだな。君の意見はよくわかったよ。『人間は完全に自由ではない。記述された言語に従う必要がある。ただし、記述された範囲内において人間は自由である』って感じだ。決定論と自由意志の中間ってところかな」


 柳坂は両手でリズムを刻むのを楽しみ、ふと本題を思い出す。


「タイムパラドックスはどうした? まだ答えを貰っていないぞ」


「これが最後の結論です。曖昧な言語で世界が記述されているなら、タイムパラドックスは矛盾ではありません」


「というと?」


「人間は記述された範囲内で自由に行動できます。裏を返せば、記述されていることに反しない限り、何が起きても矛盾とはいえないわけです」


「一見タイムパラドックスに思える事象も言語の上では矛盾していない?」


「それが自分の信条です」


「なかなか興味深い話だな。ところで君の説明を聞いてふと思ったんだが……」


 柳坂の言葉は、突然鳴り響いた着信音によって中断された。柳坂はポケットから端末を取り出し、画面を確認する。


「失礼、すぐ戻る」


 羽村を一人残して、柳坂は部屋を出た。羽村も携帯端末を取り出して、時刻を確認する。15時35分20秒。羽村はほくそ笑み、端末をしまう代わりに内ポケットからナイフを取り出した。刃渡り十五センチの、持ち歩く理由がまずないナイフである。


 羽村は両手を後ろで組み、その片方の手で柄を握って、編集長が戻ってくるのを待った。


 二十秒も経たないうちに、唐突に部屋の扉が開いた。現れた人物の顔を見て、羽村は驚愕する。その顔がまぎれもなく自分自身の顔だったからだ。


 部屋に入った羽村は、右手にナイフを握りしめ、羽村めがけて襲いかかった。


 体が硬直した隙を狙い、羽村のナイフが羽村の心臓を一突きした。声をあげることもできず、羽村の体が床に倒れこむ。


 羽村はかがみこみ、自分自身の死を確認した。


 羽村は部屋の様子をうかがう。物理的にも感覚的にも異変はない。自分の存在も消滅することなく、今まで通り存続している。


 頭の中を一つのフレーズが駆けめぐった。


 タイムパラドックスは矛盾じゃない。


 羽村は満足げにほほ笑むと、ナイフが刺さったままの自身の死体を戸棚に放り込み、机の前で編集長を待った。


 再び、部屋の扉が開いた。柳坂は端末をいじりながら、侘びの言葉を述べる。


「待たせて悪い。仕事の連絡にいちいち電話を寄こすやつがいてな。通話なんて時代遅れだと何度も言ってるんだが、習慣というのは厄介なもので一向に変わる気配がない。しぶとく生き残るゴキブリみたいだ」


 柳坂は椅子に座り、羽村と向かい合った。


「話の途中だったな。時空の矛盾と言語の矛盾は別物だと君は言った」


「ええ。世界が曖昧な言語で記述されているなら、それも可能です」


「ところで、その言語は書き換えられるのか?」


「書き換え?」


 予想外の言葉が飛び出し、羽村は目をぱちくりさせた。


「おいおい、君は小説家だろう。どんな文章であれ、一度書いたらおしまいというわけにはいくまい。コンピューター言語だってそうだ。仕様変更に合わせて、ソースコードをどんどん書き換えるだろ? あれといっしょだ」


 羽村は納得した様子で、右手を顎に当てた。


「その発想はありませんでした。次に会う時までに、じっくり考えておきます」


「君に会う楽しみが一つ増えたわけだ。それより本題を忘れるなよ。君を呼んだ要件は覚えているだろうな?」


「タイムトラベルをテーマにした小説、字数は約一万字、期限は一週間後」


「大正解。期限は守れよ」


「遅れそうになったら奥の手を使いますから」


「タイムトラベルで時間稼ぎか? 良い時代になったもんだ」


 柳坂は肘掛けに両腕をのせ、会話を終わらせた。


「それでは健闘を祈る」


 羽村は部屋を出た。編集長が死体を見つける恐れがあったので、急ぎ足でデスクの合間を通り抜け、建物の外に向かった。


 羽村の目的地は本日二度目の時空港だ。自分殺しがタイムパラドックスを引き起こさないことを証明した彼は、次の実験を試みるつもりでいる。運命の15時35分20秒、編集長の部屋に赴き、そこでナイフを持った自分と相対する。そこで出会うのは一人の自分か、二人の自分か、というのも興味の対象である。自分自身に会ったら、事情を説明して建物から連れ出し、時空港とは正反対の方向に向かう。検証内容は、過去の自分がタイムトラベルを中止したらどうなるのか。彼は何も起こらないと確信している。なぜならタイムパラドックスは存在しない。


 タイムパラドックスは矛盾じゃない。


 16時10分58秒、羽村は時空港に到着した。受付で待ち時間を確認する。


「ラッキーですね、お客さん」


 受付の女性は愛想よく応じた。


「今なら十分後に出発できますよ」


「それで結構です」


「では、時刻の指定をお願いします」


 羽村は差し出された端末を叩き、14時30分00秒と入力した。


「いくつか注意事項があるので、出発までにお読みください」


 画面が切り替わり、タイムトラベルに関する諸注意が表示される。羽村は読んでいるふりをしながら、編集長の提起した問題についてしばし黙考する。


『その言語は書き換えられるのか?』


 不意に、奇妙な連想が頭に浮かんだ。世界を記述する言語とそれを書いている何者か――その関係はAIと開発者に等しい。もしも『人間が暮らす世界及び人間は、二次元上に書かれた言語にすぎない』という仮説が正しいとするなら、自分は世界を記述している者の目にどう映っているのだろうか。


 メタ情報を認知し、世界の規則を理解したうえで自由に動き回るモンスター? 


 記述者の想定を上回る、手に負えないイレギュラー因子?


 何にせよ、不気味な存在であることは間違いない。教えていない動きをしたために恐怖され、開発者自身の手で破壊されたロボットのように。


 破壊、書き換え……羽村は心臓を凍りつかせるような不安に襲われた。


「羽村様、出発の準備が整いました。どうぞお進みください」


 案内の声で、羽村ははっと意識を取り戻す。余計な心配だと自分を納得させ、羽村は五角形の小部屋に入った。


 おなじみの黒い壁が目に映る。不安は消えなかったが、無機質で静かな空間にいると、不思議と気分が落ち着いた。タイムマシンの中で口笛を吹くゆとりすら生まれた。


 ブウウウンと、激しい振動音が響いた。空間が捻じ曲がるような奇妙な感覚とともに、羽村は過去の時空港へと旅立っていった。






A:本文


言語【日本語】


形式【小説】


人物 編集長・その他。


編集長=柳坂一郎。


出来事(『編集長、曖昧な言葉を述べる』


    『編集長、会話する』


    『編集長、部屋を出る』)。


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