八話 皇都の上空に
憲兵局の局長室を後にして、下りのエレベーターの中で晃人は不意に違和感を感じる。何かが自分を見ている様な奇妙な感覚。
(……軍司か?)
ダゴン秘密教団の日本支部長、O∵S∵Wの魔術師、そしてクトゥルフナイトと呼ばれる化け物の一人の名を胸中で呟く。遠くで感じる異様な圧にその身が僅かに震えだす事を自覚すれば、左の鎖骨の下あたりをそっと触れる。ここに刻まれた超常の印、太古の印があると自覚すると、恐怖も混乱も自ずと鎮まる。
「何事か、ございましたか?」
その様子を黙ったまま見ていた須戸やラスは何も語らず、エレベーターのパネルを前にして、晃人らには背を向けている憲兵が問いかける。その背を晃人が見やれば、黒い髪は直毛で腰のあたりまで伸ばされているのが見えた。そして、腰に吊るされた直刀が。
(坂上宝剣の担い手……)
剣を一瞬だけ凝視したが、すぐに視線を外し晃人は告げた。
「ダゴン秘密教団が動いたのでしょう。事を起こす前にと思っておりましたが」
「――なるほど、私の気分が不意に優れなくなったのもそう言う事ですか。本邦に仇なす者が動き出したと」
「奴らを追うには、貴方の力が必要だ、神海中尉」
「阿方家とは因縁が在りますので……必ずや燻りだして見せましょう」
ポーンと目的地に到着したことを知らせる音が鳴り響き、扉が開いていく。軍帽を被った神海は、片手でエレベーターの扉を抑えながら深く一礼して告げる。
「受付に荷物の受け取りを告げてください、貴方様の武具、その全てをお渡し出来るでしょう」
「ありがとうございます、それでは、失礼」
一礼して晃人が下りると、それに続いて須戸とラスも降りる。ラスは居り際に神海を振り返ると、楽しげな様子で笑う美しい女憲兵と目が合った。神海はラスに気付くと、より笑みを濃くして告げた。
「良き狩りを」
と。
スーツケースを片手に引っ張り、背には刀袋を背負った晃人を伴って憲兵局を出ると、須戸は大きく伸びをした。如何にも肩肘が張って仕方がない。憲兵局自体に何処となくアウェー感すら感じる須戸には仕方がない事だ。しょっ引かれたり、尋問を受けた事はないが、妙な物を見る目で見られる事は多々あったので仕方がない。特に、怪異を討伐の対象にしている者達には。
それでも、肩肘が張る程度で済んでいるのは僥倖なのだろう。何せ大悪魔である須戸を敵とは彼らは見なして居ないのだから。それには、長年の須戸の動きも一役買っているが、憲兵局の重鎮である生雲大佐の意向も強い。晃人の父と年の離れた友人の上司であった彼は、今でも晃人を気に掛けているのを須戸は知っている。
「奴と顔を合わせるかと思ったがなぁ」
「生雲さんですか? ――奥様が病に伏せていたとは……」
「お前にも一言も無かったのか?」
「二十歳になった時に、預かっていた父の遺産を返されて以降、あまり連絡は取ってなかったのですよ」
九歳で父を亡くした晃人を生雲家で引き取ると言う話もあったようだが、どう言う訳かそうはならなかった。結局晃人は、須戸に会うまで施設で暮らしていた訳だが、その間も生雲は夫婦で晃人の様子を見に来ていたらしい。須戸が引き取って以降も、最初の内は心配だったのか、外で出会っていたようだったが。
「……見舞いに行かなくて良いのか?」
「押し掛けるのも……と思う反面、気にはなりますからね。事件を解決したら一度、打診してみます」
晃人を介した知り合いと言えなくもないが、須戸は生雲とは反りが合わない。嫌いと言うほどでは無いが、互いが互いを警戒して本音を話さないのだから、碌な物じゃない。だが、ラスの見立てでは彼は良い人だよと言うのである。奥方は更に輪をかけて良い人だと。
だからこそ、須戸は生雲を警戒するのだ。晃人の親代わりとして、自分が及第点と言えない事は理解しているからこそ、引き離されやしないかと怯えるのだ。須戸自身、自分の気持ちには気付いて居ないが、心密かに怯えていた。その怯えを無自覚に隠せば、感の良い憲兵である生雲には、何か隠し事があると悟られ、より警戒されると言う悪循環が生まれていた事に当事者たちは気付いて居なかった。
今も、晃人に見舞いを勧めながら、すぐには向かわない彼に少し安堵している自分に須戸は気付いて居ない。だが、須戸は気付かなくともラスは気付いて居る。その辺の心の流れや、すれ違いも。故にラスは随分前から生雲に須戸についてメールを送り、その返信を貰ったりもしていた。結果、悪魔ではあるが須戸は晃人を預けるに値するとして、生雲夫婦からの接触が減っている事をラスは知っている。今でもラスの保有するメールアドレス帳には生雲のメールアドレスも登録されているのだ。
(自分で気付かなきゃ、報連相しようが無いからね)
オレンジ色の双眸を半ば眠るように閉じて、ラスは一人黙考した。あとで、メールでご機嫌伺いの手紙でも出しておこうかしらと。
それにしても。ラスは不意に先程のエレベーターでの晃人と神海のやり取りを思い出す。
(何も感じなかった。きっと、須戸も。でも、晃人とあの鬼に連なる憲兵は何かを感じていた。それは、何?)
悪魔に類する自分達が感じ取れない事象。晃人や憲兵には感じ取れるそれ。それは一体なんだろう? その齟齬が致命的な何かにならないだろうかと、ラスは考え続けた。
「まあ、アレだな。肩が凝った。折角だ、晃人。そこのカメヤ珈琲でも行って、パンケーキでも食べないか?」
「三段重ねで間に生クリーム挟んだるあれですか……」
若干嫌そうに晃人は言う。
(確かにあれは胸焼けする……っと、そうじゃない、その齟齬……ん?)
晃人の言葉に同意しかけ、慌てて黙考に戻ろうとしたラスは不意に何かを感じて目をも開き上空を見た。須戸も晃人も同様に空を見上げた。周りを見れば、周囲の人達も同様だった。皆一様に空を見上げていた。
見上げた空には、晴天が広がっていたはずだ。いや、今も青空は広がっている。広がっているが、空には太陽以外の別の何かが浮かんでいるのが見えた。円形の巨大な浮遊物。遠く離れているため分かり辛いが、材質は石の様だった。
「何だ、あれは?」
「何処かの国の秘密兵器か?」
「永世中立国に軍を派遣するとは……」
人々の言葉が聞こえてくる中、須戸はその存在が何であったかを思い出して大きく目を見開いた。ラスも遅れてその存在が何であるのかを思い出して、思わず空を見上げたまま固まった。
「ま、まさか……ネブカドネザルの空中要塞か!」
「バビロンの守護者、動くんだ、まだ」
驚く二人に晃人は視線を送る。
「それはバビロンの空中庭園ではないのですか?」
「あれはアッシリアの王センナケリブが造ったニネヴェの空中庭園とネブカドネザルの空中要塞が混同されての結果の産物だ。ニネヴェの空中庭園は彼が妻の為に作った荒涼とした大地に浮かぶオアシス、素晴らしい灌漑技術の結果だが……」
「ネブカドネザルの空中要塞は、空を飛び移動する要塞。不落の空中空母。バベルの塔の残骸より造られた抗いの要塞」
須戸とラスが晃人の問い掛けに代わる代わる答えるが、視線は空を飛ぶ要塞から全く逸らされていない。一方の晃人は、須戸とラスから視線を外して空の要塞を一瞥する。須戸やラスの様子から察するに、あれは中東の物で……確か、指輪の持ち主は中東にも行ってたんだったかと、ウィリアムの報告を思い出す。
「何処に混同する要素があるのか……。しかし、要するに、あれはアリシアとか名乗った女の仕業なのか」
そう呟いてから晃人は大きく息を吐き出した。
上空の空中要塞から皇都を見下ろすアリシアは、相変わらずラフなシャツとジーンズと言う姿ではあったが、紫色の双眸には大いなる自身と力が宿っている。
「――悪魔の力を束ね、人の力も束ね、外神に対抗する。それ無くばこの星に生きる者に先は無い」
そう告げる言葉は、それでも何処かに迷いを感じさせることを傍に居る喪服姿の女、ネビロスは気付いている。その迷いが示す物が、自分の行いが、間違いである事はアリシア自身も気付いているのだと言う事を示している。それでも、きっとアリシアは突き進むだろう。己の悲願の為に。
「本当に起動させるとはね、恐れ入ったよ」
アリシアの背後に現れたのは、白と黒の翼を持ったサマエル。その名に神の毒と言う物騒な意味を持つ天使にして悪魔。銀色の髪を持ち、その両目は硬く閉じられていながら、その美貌に全くの陰りが無い。だが、語る物言いの軽薄さはベリアルに匹敵するとネビロスは軽く肩を竦めた。
「悲願成就の為だ。まずは、永世中立国である日本皇国に恭順を誓わせ、戦争続く中華の二陣営を取り込む。早くせねば、ソラから奴らが着てしまうからな」
「ふふ、空にいきなりこんな物が出現して、皇国の連中も度肝を抜かれたのでしょう。上層部には予告していたのですぐに連絡が来ましたよ」
「――早すぎる」
アリシアとサマエルの会話に、ネビロスは疑義をはさむ様に一言告げた。サマエルは一層笑みを深めてネビロスを見やり。
「上手く行くときは上手く行くものでしょ? それに、軍司も協力すると先程連絡が在った」
「……あれも外なる神に連なっている筈だ」
「上手く利用すればよい。それより他の魔神達はどうなっている? 何柱参加すると?」
アリシアの問いかけにネビロスは微かに首を左右に振り。
「ベリアルよりの返答ですが、アシュメダイを送りつける、だそうです」
「『不敗の剣王』にして『色欲』のアシュメダイとは、中々の人材を叩き付けてきましたね。ああ、ああ、そう言えば王の指輪を捨てた事があるのは、アシュメダイでしたか」
サマエルが大仰に告げやれば、アリシアは口をへの字に曲げて言い捨てた。
「力を見せつければよいんだろう! 己の決起で世界を変えてやる――。未だに戦争を繰り返しているこの世界を!」
そして、再び皇都の見下ろすアリシアの背中を、サマエルとネビロスはそれぞれ思案しながら眺めていた。