七話 その日、日常は崩れ去る
朝食を終えた晃人は、須戸とラスに協力を要請した。王の指輪のみならず、危険な宗教団体の活動が確認されており、彼らの相対するにはどうしても助力が必要なのだと頭を下げた。それを聞いたラスは大きく翼を広げて、きちんと相談した旨を褒め称えた。ラスを苦々しげに横目で見やり、須戸もまた晃人に力を貸す事を了承する。元より、晃人に頼まれれば、多少の無茶は苦にもならない。
食事を終えて、話し合いも済めば荷物を取りに出かける事になる。今回はラスも共に行く事になった。昨日の様にバスに乗り、何事も無く目的地に着いた。皇都東京の一区画にある皇軍憲兵局。近代的なビルは実利的で乾いた印象があり、役所の様に面白みがない。だが、ここに勤める者達は皇国軍が恐れる物の一つなのだ。
憲兵、綱紀粛正を旨とする彼等の仕事は多岐に渡る。軍部内の汚職や規律の乱れの是正。政治家や役人の態度を正す勧告。そして、警察との連携取って、警察では対処し辛い事件の解決など。多岐に渡る仕事の中の一つに、市井を脅かす怪異に対する対策まである。日本皇国では狩人の存在を法律で認可していないため、一時的に憲兵扱いを受ける事になるのだ。
受付まで足を運べば、軍服を纏った受付嬢が要件を問う。晃人は狩人許可証を提示して、荷物を受け取りに来た旨を伝えると、状況は一変した。
「失礼しました、一ノ瀬様。局長がお待ちしております」
柔和な受付嬢の顔は、峻厳な軍人の物へと変わり、敬礼を持って迎えられた。相談事に来ていたらしい民間の人々が驚く中、晃人は現れた憲兵に案内され憲兵局長室まで向かう。須戸とラスも、多少気後れしながらその後に続いた。
晃人たちがエレベーターで局長室に移動している時間、別の場所にて蠢く者達の姿があった。日中でありながら、周囲は夜のように深い闇が覆う洞窟の奥深く。壁に反響し大きなうねりを思わせる潮騒の音、遠くに見える僅かな光が照らすごつごつとした岩場。それらが示すのは海辺の傍の洞窟と言う事実のみ。
海水が流れ込むその洞窟の最奥に、闇の中に何者かがひしめき合っていた。もしその場に真っ当な神経の者が居たならば、きっと光が無い事に感謝の祈りをささげるだろうと思わせる程に生臭く、淀んだ空気が蟠っている。
その異様な場所に一人の男が足を踏み入れた。その姿は仏法に仕える僧侶か、修験者を思わせる。漆黒の僧衣を身に纏った黒い髪の男は、海水が流れ込む洞窟を危なげなく歩いて来る。手に持つランプの灯りが洞窟を照らし出すと、海水から数多の異形が顔を覗かせているのが垣間見える。動く水死体、囁く亡霊、ひれ伏す魚人等々。それらの姿を見ても、全く怯まず僧衣の男は歩を進める。男の姿を認めると、異形たちは囁き合い、ひれ伏し、祈願した。主の復活を。
男が纏うのは僧衣とは言っても、凡そ正道の僧ではあるまい。悪しきカルト、怪しき新興宗教すら恐れをなす神名を背に、その従神の名、一文字ずつを袖に記した僧衣など御仏の教えに合致する筈も無い。
男の纏う僧衣の背には『九頭竜』と記され、袖には左右それぞれに『陀』『権』と記されている。この異様な僧衣を纏い、異形に渇望されるこの男こそ『黒い聖職者』に帰依するO∵S∵Wの魔術師にして、その下部組織であるダゴン秘密教団の日本支部長、軍司秋水であった。
軍司が洞窟の最奥に辿り着くと、数多の札の張られた怪しき社を見つける。その姿を見れば、海水が流れ込む場所であるにも関わらず彼はその場で跪いた。
「おお……おお! 正に伝承通り、王の息女であるお姫様の……。よくぞ見つけた、者共。よくぞ、よくぞ……! 王の騎士であるこの軍司、お前たちの働きに感服したぞ!」
僧衣の男は、大仰に異形たちに労りの言葉を掛けた。ひれ伏す魚人は涙を流し、囁き合う亡霊はその存在を震わせ、蠢く水死体たちは、歓喜にばしゃりと海面を叩いた。
濡れた僧衣をそのままに、男は立ち上がれば、怪しき社の扉に手を掛ける。幾重にも張られた霊的な結界が男を蝕むように火花を散らすが、男は意に介さず。指先を覆っていた手袋が燃え落ち、三又の鉾が交差するかの様な異様な文様が浮かぶ手の甲が露になる。よく見れば、手の甲の一部には魚人達と同じく鱗が生えていた。
「焚倶累、夢倶流雨那府、九頭竜」
男は、経の様な物を唱えると、背後に控える異形共も唱えだす。
「ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅるー」
ごぼごぼと聞き取り辛い発音ながら、その唱和は男に力を与える。星の位置が男に力を与える。そして、『黒い聖職者』より与えられた星々の叡智が……。
「流流位恵、雨我府那倶流、訃多群」
「るるいえ、うがふなぐる、ふたぐん」
舞い散る火花の勢いは徐々になくなり、社の扉が軋みを開けて開かれて行く。社の奥から轟と唸りを上げる潮臭い風が吹き抜けると、全ての霊的抵抗は止んだ。
開け放たれた扉の奥には、金属で造られた四角い箱が収められていた。大きさは少し大きく四方が五十センチほどか。その表面には、蛸とも竜とも、人ともつかぬ謎めいた怪物が描かれていた。僧衣の男、軍司は恭しく箱を社から取り出せば、水辺で待機する異形たちに掲げて見せた。途端、箱のふたが開き女の声が響いた。
「おお……おおお……。数十年ぶりの解放……心より嬉しく思う。我を封じ込めし魔術師二人の首……我が元へ持ってきた物には褒美を取らせる……一ノ瀬と篠雨の首を……」
「お姫様、その両名は共に滅びております」
「口惜しや……。なれど、軍司、我が近衛よ、奴ばらに血族はおらぬのか?」
「一ノ瀬には一人息子が居りますが……狩人でございます」
「――殺せ。彼奴の息子が、寄りにもよって狩人……」
「さらに悪い報せが。彼奴は……一ノ瀬和人の忘れ形見、一ノ瀬晃人は旧き神により星の戦士の一人として選ばれてございます」
沈黙が落ちる。箱の中より白き繊手が現れ、箱の縁に捕まれば徐々に、徐々に白い髪が、血の気がない白い額が箱の掛か寄りせり上がってくる。更に姿を見せるのは美しく整っていながら、恐怖を振り撒く容貌だった。全てを見下す赤眼、微かな笑みすすら浮かべる蒼褪めた唇。王の落とし仔たる姫君は、しかし、それ以上は体を持ち上げる事は叶わずずるずると箱の中へと戻っていく。
「ふ、ふふふ。それならばそれで良い。招集せよ、招集せよ……我が近衛を一人残らず。世界各地に散らばる我が配下を。父の御名において、星の戦士を殺せ……」
「御意。少々時間が掛かりますが……利用できるものは全て利用いたし、時を稼ぎましょう。どんな下賤の力を借りようとも狩人を殺せば、その他は全て水底へ沈むのですから」
「良きに計らえ……我は今暫し、眠る」
箱を抱えたまま、跪いていた軍司は恭しく了承の言葉を返す。そして、水を打ったように静かになっていた異形たちに向けて告げた。
「哀れな鬼の一族に力を返してやろう。悪魔を率いて悦に入る小娘に取り入ってやろう。全ては時間を稼ぐためだ。さあ、行くが良い、我が同胞。お姫様の下知である!」
海魔達が吼え、喜びと怒りの声を上げて世に放たれた。これより日本皇国の近海では海難事故が相次ぐ。沈む船も、溺れる者も多数出る事故の原因が古の姫の復活によるものだとは、今は誰も知らない。
そうほくそ笑んだ、軍司であったが不意に、箱を小脇に抱えて、僧衣に隠された首筋をそっと撫でる。刀剣による切傷がそこにはあった。あと一歩踏み込まれて居れば、王の騎士とは言え命はなかった。
「王の御代が来る前に、決着を付けねばなるまい……魔神狩人一ノ瀬……」
そう呟く軍司の双眸には、並々ならぬ憤怒の炎が燃え滾っていた。