五話 続いたデートとキス
赤い髪の女、アリシアの動きは正に獣の俊敏さ。放たれた弾丸のような速度で晃人に迫る。背後で纏められた赤い髪は彗星の様に尾を引き、拳を覆う青白い光もまた流星の如し。あれ程の濃密に練り上げらた魔力が体に触れるだけで、ただの人間である晃人は良くて瀕死、悪ければ即死だ。
だが、晃人は何ら恐れてはいなかった。確かに尋常では無い魔力を纏った拳、男だ女だと言う次元を超えた破壊力が備わっているのは一目で分かる。だが、如何に速かろうとも、ここはバスの車中。座席と座席の間の通路を駆けるか、座席を乗り越え左右の何方から迫るかの少ない選択肢しかない。無論、窓を飛び出して、全く予想外の迫り方をするかも知れないが、それにしては殺意が真っ直ぐ此方を向きすぎている。
アリシアの拳が晃人を貫くまで一秒と掛からない、そんな刹那の時間。晃人は冷静に、しかし、高速で思考する。人が怪異を狩る為に必要な物は理性、そして狂気だ。一度、狩人が怪異と遭遇したならば、冷静に狂わなくてはいけない。そうでなければ、怪異を狩れない。身の毛のよだつ行為を冷静に分析し、それに基づき狂気を放つ。故に思考は狩人の何よりの武器。その思考が告げる。女の双眸に宿る殺意の薄さの意味を。先程一瞬だけ放った殺意とは較べ様も無いほどに、アリシアの放つ殺意は薄い、その意味を。そして、赤い髪の女が欲する所は何か? このバスの異様さは何か? バスの運転手が何の反応も示さず、バスのあるまじき静かな移動に終始する、その意味は?
答えを自覚する前に晃人は背後に飛ぶ。その瞬間に、先程まで晃人がいた場所に青白い光を放つ拳が通過していく。そして、にやりと笑みを浮かべる赤い髪の女、アリシアの姿が見えた。
「狩人ならば避けるだろうさ! だが、こいつは貰っていくぞ!」
青白き魔力に覆われた右手では無く、左手を伸ばして須戸に迫る。アリシアにとって晃人は路傍の石に等しい。躓いてしまう事はあるが、注意すれば何の問題も無い存在と認識しているのだろう。多くの怪異が、狩人が人間である事でそう誤解してきた。
晃人の真意にいち早く気付いたのは、後部座席で動向を見守っていた喪服姿の女ことネビロスだ。晃人の退く先が運転席である事に気づき、ベールの向こうの瞳を僅かに細めさせた。続き、察したのは須戸。指輪の前に怯える? 弟子が自分の怯えを察して立ち塞がり、強敵と戦う最中にただ怯えていると言うのか? 師である己が嘗て仕えた王の遺品に怯えるとは片腹痛し! 青灰色の瞳に力を取り戻した彼女は迫りくるアリシアの左手を右手で打ち払う。アリシアは舌打ちし、右手を伸ばした所で異変が起きる。
バスが急に止まった。悲鳴のような急ブレーキ音も何もなく、不意に止まったのだ。乗っている者達のみが慣性の法則に従い、大きくよろけてしまったがそれだけだ。
「お客様。今、何と?」
「繰り返しますか? 何時までもお仕事されていると、お子さんが悲しみますよ、お父さん」
「お、俺は、バスを車庫に……ああ、そこで急に目の前が暗くなって」
「私が高校三年の頃だから、2018年だったか。貴方はバスの運転業務を終えて、車庫に戻る途中、過労がたたり急死されました。お子さんの悲しむ様子がテレビに映っていたのをよく覚えています……」
アリシアはよろけた拍子に倒れ込みそうになり、バスの座席に右手を掛けて堪えようとしたが、生憎とバスの座席は破壊の魔力に耐えきれずに触れた先から消滅し、彼女はごろりと転がってしまった。ラフなシャツにジーンズと言う姿なので転んでも問題なかったのは彼女にとって幸いだった。須戸はそんなアリシアを避けながら、聞こえてくる晃人の言葉にはっとする。そんな事件が確かにあった。せめて、家に帰れると良いんだけどと呟いていた晃人の背中が何故か思い出された。
「お仏壇に帰ってあげてください。そこにすら父がいないと言うのは、さびしい物ですよ」
「かえ、帰る……そうだ、息子の誕生日が……」
須戸からは運転手の表情は見えない。ただ、先程までは違和感を与えながらも確かに其処にいた運転手は、うっすらと揺らめいていた。存在が希薄になっていくように。
「もう、十年以上経ってますから、お土産はそれを踏まえた物の方がよろしいかと」
「あ、ああ。すいませんね、お客様。何から……何まで……」
アリシアが跳ね起きた頃には運転手の姿は消えて、バス自体も消失した。晃人に須戸、アリシアにネビロスは白昼の町中に唐突に投げ出された。平日の昼である事が幸いし、周囲にはあまり人気は無かったが、向こうの方で散歩中と思しき老人が目を丸くしているのが一瞬見えた。
「舞台そのものを消し去りましたか。ここで戦うとなれば騒ぎが大きすぎますからね、退くことを忠告します、アリシア」
「――ちっ、ふざけた真似を……。だが、興が殺がれたのは確かだ、退くぞ」
面白くもなさそうに両腕を組んで傲然と立ち、ネビロスにそう告げたアリシアだが、一向にネビロスが転移しない事に気付けば、彼女の方へと視線を向ける。
「――アリシア、無意味に力を振るえば痕跡が残ります。帰るならば、歩きですよ」
「…………えっ?」
暫しベールの向こうの表情が分からぬ相手の顔を見据えていたアリシアだが、これ以上この場に居ても仕方がないので、踵を返して帰っていく。その肩は幾分落ちていた。
その背中を見送っていた喪服の女ネビロスは、一度晃人を見やりゆっくりと会釈して。
「用向きの後はお帰り頂く心算でしたが、お手数を掛けしました。しかしながら、狩人が霊を安寧に導くとは、わたくし存じ上げませんでしたわ」
「……無駄に戦うとこの後の予定に差し支えるので。それに、待っている側からすれば寂しい物なのは事実。それを知るからこそ、彼女も退いたのだろう?」
「……恐るべきは狩人の思考と観察眼。肝に銘じておきますわ。アリシアにも徹底しておきましょう。それでは、お二人とも……いずれ、また」
晃人の言葉を聞き、喪服姿の女は僅かに居住まいを正した。人間の中には時折恐るべき存在が生まれる物だと、ベールの奥の双眸を細める。それらか、晃人と須戸の二人に会釈して、アリシアの後を追った。
突如、嵐のように現れた二人の闖入者は、嵐のように去って行った。晃人は、喪服姿の女の背が見えなくなるまで警戒していたが、その姿が何事も無く遠ざかり消えれば、そっと息を吐き出して須戸を見る。見れば、須戸は何とも言えぬ表情で晃人を見ていた。
「お怪我はありませんか、師匠」
「儂は良い、お前こそ大丈夫か?」
「師匠こそ……いや、大丈夫そうですね」
「儂はお前の師であるぞ」
そう笑っていった須戸の顔を見て、晃人は一抹の不安を覚えた。確かに、彼女は怯えた様に震えていた。指輪が、彼の王の指輪の所為か、それとも別の理由の所為かは分からないが。戦いとなれば立ち直ると判断し、確かに須戸は奮起したようだったが……。ならば、何故、その笑顔に寂しさが潜んでいるのか? これは己の思い過ごしか。
悩む様子を僅かに垣間見せる晃人に、須戸は手を差し出していった。
「淑女はエスコートするべきではないか、晃人」
思い掛けない言葉に晃人は一瞬思考が真っ白になり、慌てたようにその手を取った。黒と赤を基調にしているゴスロリ姿の女と、英吉利倫敦南西部の伝統的なデザインのロングトレンチコートを纏った男は、腕を組んで懐かしき街並みを見て回る事にした。
師と、敬愛する女性とのデートに心浮き立つ晃人ではあったが、何処かに違和感を感じていた。生真面目な師が、襲撃者について調べようとも言わず、何処か積極的に晃人をリードする様に。今まで彼女の己に対する想いが、ただの師弟愛か、それ以上かは分からなかった。でも、今ならば……今ならば、これは好意を抱いて貰っているのではないかと錯覚出来た。それだけで幸せだった。これ以上は、決して望めるべくもない故に。
だが、今日の須戸はいつもと違っていた。普段の彼女は何処か物事を楽しむと言う事に制限を掛けていた。でも、今日は違っていた。普段に増して、良く笑い、拗ねて、怒って、また笑った。目まぐるしく変わる師の感情を晃人は眩しい物を見る思いで見つめていた。そして、日も沈み、夕食を行きつけだった奥村飯店で終えた帰り道。暗くなった夜道を歩いていた二人は、何時しか言葉を交わす事も無くなっていた。以下に晃人が人の機微に疎くとも、師の様子がおかしい事は分かっていた。それが何に起因しているのか分からない筈は無い。
あの指輪だ。それに、午前中に出会った二人。師が初めて見せた怯えた様な姿。何をそれ程怯えたのか、一体どんな因縁があるのか問いかけたかったが、如何質問すればよいのか分からず晃人は悩んでいた。すると、今日の須戸を象徴するように彼女が口を開く。
「――晃人」
「はい、師匠」
「昨夜ほどではないが、今日も冷えるな」
「ええと、また、暖めましょうか?」
何処か戸惑たような晃人の返事に、返答を返さずに須戸は晃人に寄り添う。温かい師の温もりに、晃人の心は浮ついた。どくどくと早鐘を打つ心臓の音が相手に聞こえるかもしれないと思うと、気恥ずかしさが一方的に増す。
寄り添った須戸は晃人のコートの襟元を掴んで屈めと言わんばかりに引っ張る。意図を把握しきれない晃人は、促されるままに屈む。
不意に視界いっぱいに師の顔が映り込み、唇と唇を重ね合わせていた。
それから後の事はよく覚えていない。そのまま二人で無言のままに帰り、訝しむラスを尻目に晃人は浮かれた様子で自室に戻った。だが、狩人としての冷静さが密かに囁く。これは、大きな異変の前触れに過ぎないと。