四話 デートもどきと忍び寄る影
須戸と名乗る女悪魔の愛弟子である一ノ瀬晃人が、日本皇国に戻って来た翌日。その日は朝から晴天に恵まれていた。三月の風は未だに少しばかり冷たかったが、日差しは暖かく平日でなければ絶好の行楽日和だったことだろう。
「桜の季節にはちと早いし、梅の季節にはちと遅いな……。もうちょっと時期を鑑みて帰ってこい」
「そう言われましても、仕事で戻った訳で……」
朝食を取りながら交わす会話の軽やかさは、久方ぶりだと須戸は口角を微かに上げながらも苦言めいた物言いを愛弟子に投げかける。恐縮したように言葉を返す晃人だが、箸の動きを止める事が無いのも、十年前から変わる事が無い。相変わらずの健啖ぶりを示す晃人の様子を、双眸を細めて須戸は眺めた。
朝食を終えてから、二人で急遽出かける事になったのは、朝食直後に二人で茶を飲んでいる時に、晃人から意外な申し出があったからだ。
「師匠、久方ぶりに周囲を見て回りたいのですが、お付き合い願えませんか?」
そんな申し出を受けるとは思っても居なかった須戸は、まずは鷹揚に頷きを返してから寿司ネタが漢字で書かれた湯呑を口元に近づけた。それから、言葉の意味に思い至り。
「わ、儂とか?」
「ええ。無理にとは申しませんが……」
「無理じゃないとも、ないともさ! そうか、儂とか。ああ、待て、待つんだ晃人。儂もアレだ。準備に時間を掛けてしまうが、その、良いか?」
「はい、急な申し出ですのでその辺は大丈夫です。ゲームでもして待ってます」
「――お前なぁ」
慌てふためき、湯呑から茶を溢しそうになりながらも、何とか堪えた須戸は、冷静を装いながら湯呑をテーブルに置いた。それから、晃人の服装をまじまじと見やった。白いワイシャツとベージュ色のスラックスと言うとカジュアルと呼ぶにはお堅い服装、年長者としてこれに釣り合いの取れる服装を心がけねばと決意した須戸は、椅子より降り立った。それが、午前七時半の事だった。
そのやり取りから既に二時間近くが経過しようとしているが、未だに須戸と晃人は彼らの家から外には出ていなかった。スマートフォンでソーシャルゲームをしていた晃人は、疲れたように肩を回して室内の枝を模したインテリアに掴まっている梟のラスに視線を投げかけた。
「師匠、遅いねぇ」
「もうすぐ、だと思う」
須戸に向ける言葉と違い砕けた物言いになるのは、晃人にとってはラスは気の置けない友人だからだ。そのラスは相棒を慮ってか、自信なさげに返答を返す。そして、須戸の部屋へと視線を向けてそっと溜息をついた。
(遅れれば遅れた分だけ、一緒にいる時間が減るのに)
そう呆れてしまうのだが、遅れている理由も察しが付けばラスはただ言葉少なに晃人に返答を返すのみにとどめた。それから、晃人の暇を潰してやろうと年長者ぶって彼に問いかける。
「何のゲーム?」
「銃の擬人化ゲーム。何か初期に配置されるキャラが師匠みたいで」
「姿が?」
「一人称と物言いが」
へぇと呟きながら、バサバサと翼をはためかせて晃人の斜め前のテーブルに降り立つ。晃人は両手に持って居たスマートフォンをテーブルに置いてラスに見せやすくする。音声をミュートにしている所為で声は聞こえなかったが、銃を持つ白いコートを着た少女の姿をしたキャラクターがそこには映し出されていた。
「一番レベル高いね」
「まあ」
再度、へぇと意味ありげに呟き、テーブルをちょこちょこ歩いてからばさりと翼をはためかせて、先程の場所へと戻る。
「如何も師匠に似ていると感じてしまうと育ってしまうんだよなぁ」
「お船のゲームでもそうなの?」
「そう」
何とも他愛のない会話だが、これだけでラスには晃人がどれだけ須戸を思っているのかが察せられる。互いが互いを好いている事は確定的なのに、その先に踏み込もうとしないのは何故なのか? それについてもラスは察してしまっているので、口を挟む事は無かった。
程なくして、須戸が自室から降りてくる。僅かに眉根を寄せて、少しばかり不機嫌そうな様子を見せているが、纏う衣服は随分と気合が入っているように、ラスには見えた。黒と赤を基調にしているレイヤード風のチェック柄ワンピースは、側面と腰までの背面を黒い布地で覆われている。スカート丈は膝下くらいで、普段の彼女の装いに比べればスカートの丈は短かった。赤いリボンのついた小さな帽子を被り、愛用のブーツを履いているその姿は、凛々しさよりも可愛げを出そうと努力している様だった。
(一応、頑張っているのね)
ラスがそんな事を考え、晃人に様子を見ると、彼はスマートフォンから視線を須戸に向けたまま固まっていた。
一ノ瀬晃人は、動転していた。魔神狩人と呼ばれるようになってから既に五年、数多の数多の戦いを乗り越えてきた若き狩人は――動転しているのだ。この画像が通信アプリで出回ってきたら、彼は即座に保存した後にグッドを押して、拡散した事だろう。夢にだって何度となく見ている師の愛らしい姿を見たのだ、スマートフォンで撮影したいと言う感想を抱いても、誰も責められないだろう。
だが、晃人は鋼の――否、ヒヒイロカネの如き堅い意思を持ってその衝動を抑え込んだ。ゆっくりとした動作でゲームのアプリを停止させ、スマートフォンを胸ポケットにしまい込んだ。それから、師の方へと歩みより。
「また、師匠の作られた味噌汁が飲めて嬉しかったです」
と、まったく場違いな事を告げていた。
結局、ラスは気を利かせて外出せず、須戸と晃人だけで出かける事になった。最寄りのバス停に赴き、バスを待っている間、幾人かの顔見知りに晃人は声を掛けられた。いつ帰って来たの? いつまで居るの? ちゃんと、ご飯食べている? と、年配の方々に声を掛けられ、彼は恐縮したように頭を下げながら答えていた。この近隣の住人は殆どの者が年配者で、彼等は去り際に一様にちゃんと言わなきゃ駄目だよとか、言葉にしないと伝わらないよとか助言を残して去っていくのだ。須戸は彼等の言葉に、自分の思いが見透かされているように感じながらも、それは出来ないのだとしみじみ思い。晃人もまた、同様に自分の思いが見透かされているように感じながらも、それは出来ないのだと内心唇を噛んだ。
この様に互いの内心の決意とは裏腹に、駄々洩れになっている好意に互いが気付かずにいる二人は、今日は一緒に過ごすはずだった。だが、既に自体は動き出していたのだ。
やって来たバスに乗り込んだ二人がまず感じたのは、違和感だった。何処となく淀んだ空気がバスの中に漂い、まだ午前十時を回ったばかりで明るい筈の外から入り込む太陽の輝きは何処か、くすんでみえた。ブザーが鳴り、バスのドアが閉じていく。完全にドアが閉まれば、バスは動き出すが大型車とは思えぬスムーズな走りに晃人は微かに目を見開いた。一方の須戸は後部座席に座る二人の人影を見据えて、眉間にしわを寄せていた。バスの最奥に、後部座席には喪服を纏い、黒いベールで顔を覆った女と、燃え盛る炎のように赤い髪をポニーテイルに結わえた若い娘が座っていた。赤い髪の女の指には力ある指輪が嵌められている事に須戸は気付いていた。
「……「地獄の少将」閣下が何故ここに?」
須戸は露骨に眉根を寄せて喪服の女に問いかけると、ベールの向こうから微かな笑い声と共に優美な声が返ってくる。
「地獄の軍勢を見張るのはわたくしの使命。今は軍勢指揮の少将としてではなく、総監督官として顕現していると思ってくださいな「梟の賢者」」
「――つまり、その女が新たな王だと?」
「そう言う事だ。己の名はアリシア。副王を母に持つ人と悪魔の相の子さ」
副王を母にとアリシアは言った。悪魔にとって副王と言えばただ一人、「蝿の王」を示す言葉だ。総監督官を名乗る喪服の女ネビロスが彼女の傍にいると言う事は、彼女は軍勢指揮の正当な権限を有していると思われる。それは、彼女が指に嵌めている指輪からも容易に想像がついた。その指輪の存在に気付いて以降、須戸は体が震えだしている事に気付いていなかった。
喉の渇きに今更ながら気付き、唾を飲み込んだ須戸が言葉を発しようとした瞬間、アリシアの紫色の双眸と、ネビロスの喪服姿が不意に視界から消えた。晃人の広い背中が須戸の視界をふさいだのだ。
「……立ち塞がるか、狩人。お前個人に思う所は無いが……己の悲願を成就させるためには、背後の女が必要だ」
「貴様の悲願など知らん。師を怯えさせる輩に等、用はない」
「ははっ、言ってくれるな!」
強烈な殺意を浴びせられても、晃人は身じろぎもせずに須戸を護る様にアリシアに相対した。武器はない。相手は高位の悪魔と人のハーフ。ここが死に場所かも知れないと晃人は思い、微かに笑う。
「――アリシア、わたくしが愚考しますに、アキヒト・イチノセは強敵。既に佇まいからしてそう感じます。撤退を示唆しますが?」
「障害があるからとおいそれと逃げる訳には行かない」
アリシアが立ち上がる。右手の中指に嵌められた指輪が淡く光を放つ。その光を起点に魔力を練り上がっていく。瘴気のように揺らめくアリシアの魔力は淡い青色に輝き、彼女の右拳を覆った。
「悲願成就の為に、砕け散れ、狩人!」
まるで猫科の肉食動物の様な驚くほど俊敏な身のこなしで、アリシアは前傾気味に車中を駆け、恐るべき速度で晃人に迫った。