なぜか同じマイナーな所を三日連続で訪れてしまった
『道の駅のトイレの怪を確認しに行った』と登場人物が同じです。
実際にあった出来事からほんの少し妄想を含めたら、こうなりました。
つい先日、幼なじみの連れと一緒に道の駅のトイレの怪を確認しに行ったのだが。
近頃また、こんななことがあったので話したいと思う。
この話を(全てではなく、一部分だけだったが)話して聞かせた数少ない知人の中には、
「それはアンタが単に方向音痴なせいだろう」
と言った奴もいたが、いや、俺は方向感覚だけは案外しっかりしている。
事のおこりは、営業中のこと。
いつも回っている会社においとまを告げていた時だった。
「キクチくん、ちょっと」物かげからそこの社長がくい、と手招きした。
思えばそれが一連の流れの始まりだったのだろう。
「はい?」
「今から、帰るんだろ? ちょっとばかし、お願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
嫌な予感がしつつ、俺は社長に連れられて玄関前ポーチに案内された。
呼んでおきながら社長、「ちょ、っと待っててくれよ」そう言い残し、姿を消す。
いつもこんな感じ、マイペースな人だ。
特に急いでもいなかったが、直帰なので早く帰りたかった。伸びあがるように彼が消えた方を見やっていたとき、急に、
「いや、すみませんアナタが?」
近寄っていた気配がなかったので、俺はたぶん、軽く飛び上がっただろう。
すぐ後ろに、人品卑しからぬ、小柄な年配の男性が立っていたのだ。
「小泉社長からうかがったんだが……ええとお名前は」
「キクチです」
「ああ、そうそうキクチさん。すみません、実はキクチさんとこの営業所近くに住んでいる者なんだが、良かったら、営業所までで良いので乗せて行って頂けないかと……遠くて悪いんだが」
「はあ……」
男性の笑顔は穏やかで、俺は何となく、つられて笑顔になっていた。
小泉社長は、俺にタクシーの代わりをさせようというわけか。以前にもここの社員を数人、ついでだからと頼まれ、近くの工場まで乗せていったことがあった。
「いいですが、ええと」
横目で社長の姿を探すが、どこかに行ったきりだ。まあ、いつもこんな感じなのだが。
目の前の男性も特に構っていないようで、ぴょこりと姿勢を正し、俺に向かって深々と一礼した。
「アオヤマと申します。よろしくお願いします」
その会社からだと、平坦な道をほぼまっすぐ六〇キロ南下すれば俺のアパートまですぐだった。
しかし、俺の所属する営業所は、アパートの場所とは大きな障害物に隔てられている。
アパートから営業所、距離にして約三十キロ程度なのだが、その間を、広大な台地に遮られているのだ。
雪のみえる北の山地から、南の海岸近くにまで南北に果てしなく伸びる台地に。
そのアオヤマ某氏を送るとなると、まず南下中のどこかで台地を越えて西進し、更に海の近くまで下っていく必要がある。
それからまた、どこかで台地を東向きに横切り、アパートに戻る手間がある。
ふだんの通勤には、家からほど近いバイパスを利用している。トンネルだらけだし、事故や渋滞は多い道路だが、流れが順調ならば三十分足らずで着く。高速道や一般道もいくつもある中、効率よい通勤には、台地をほぼ東西にまっすぐに横切るバイパスがダントツ一位の通路だった。
アオヤマさんは偉そうに後ろの席に乗りこんでくることもなく、横でもいいかい? と助手席を開けた。笑ってみせる顔にも好感がもてた。
「ひとつ、よろしくお願いいたします」
ばかに丁寧にそう言って頭を下げる様子にも嫌味はない。
しばらく走っていて気づいた。というか、それまで気にならなかったこと、それは。
アオヤマさんは、話し上手の前にまず聞き上手で、俺はいつの間にか、彼とは旧知の仲のように会話するまでになっていた。
彼が現在七十歳で、あの会社の取引先であった某会社の役員だったが、つい先日引退したこと。あそこの社長とはそれこそ『トンボを取っていた頃からの悪友』だとのこと。その日はあいさつにあそこに寄っていたこと。
孫が五人いて、一緒に暮らす二人の孫、上の娘が今高一で、ブラバン部のトロンボーンをやっていること。
唯一の趣味は、戦国時代の史跡めぐりだということ。巡った史跡の記録を、家族に教えてもらいながら、ブログに上げていること。
セキセイインコをすでに五年飼っていて、可愛くて仕方ないということ。
俺のこともずいぶん話したような気がする。結構共通項が多かったから。俺も中高と吹奏楽でトロンボーンをやっていたし、セキセイインコは代が替わりながらも二〇年以上飼っていた。戦国時代もほどほどに好きだ。
俺のどんな話にも、彼はうんうん、とうなずいてくれて、時には「それはすごいね!」「たいへんだったねえ」と心から感嘆してくれる。
久しぶりに共通項も多く、相性のよさを感じる人だった。
そして気づけばすでにバイパス経由ですんなりと大地の西側に出て、営業所近辺まで一〇キロ程度の場所に達していた。
そこにふと、アオヤマさんが言った。
「そう言えば、この近くの○○城跡、行ったことあるかい?」
会社からはそれほど遠くない場所なのだが、正直寄ったことはなかった。素直にそう告げると
「時間、大丈夫かい?」急に彼が身を乗り出した。
「キミならきっと、気に入ると思うんだ、少し、寄ってみないか?」
その時、つい「いいですね」と言ってしまった自分の声を、今でも何度か思い出す。
通勤と同じように西進していたバイパスの、いつも降りるよりもふたつ手前のインターチェンジを降りるよう、彼から指示された。雑木林の多い山中だったが、彼はためらいもなく道を告げられ、気づいたらその場所にたどり着いた。
かなり広々とした駐車場には、まだ新しそうなトイレと無人の管理小屋とが併設されており、横にはこじんまりとした池が山に寄り添うように眠っていた。
すでに傾いた日が、水面に白く反射している。
駐車場の入口あたりに、白地に黒々と『倉谷城址公園』とある。
駐車場から見上げる山は、それほど高くはない。しかし、登るとなったらそこそこ体力を使うだろう。そこを
「じゃあ、行ってみようか」
アオヤマさんは、軽々と登り始めた。仕方なく俺も後を追う。
二〇分ほど急な坂、しかしそれなりに整備された山道を登り、ようやく辿りついたのは、広々とした高台の公園と、そこに続く尾根道だった。
そこにある案内板には、室町時代初期に栄えた倉谷城なる城の詳しい由来説明があった。
頂上に近い小さな神社にお参りしてから、俺はアオヤマさんに案内されるまま、少し離れた二の丸跡、本丸跡、空掘跡などを見物して回った。
アオヤマさんは淡々と、しかし澱みなく隅々まで説明してくれる。お詳しいですね、と言うといや、一応地元だしね……と照れくさそうに薄くなった白髪頭を掻いた。
日はまだ赤みを帯びていなかったから、滞在時間は一時間もなかっただろう。
ツバキの赤い花が所どころ色を添える尾根道を歩いていた時。
いやー、本当にいい所ですね、会社から近いのに全然知りませんでした、と正直に俺は言って、礼を述べようとした時
「なら良かった」
アオヤマさんの、妙に静かな声にいっしゅん何か不思議な響きをおぼえ、俺はすぐにふり向くのをためらった。
一拍おいてそっと姿をうかがった時、その横顔は遠く、尾根からはるか下に見える駐車場近辺とその先にかすむ市街地の方を見やっていて、表情までは伺い知れなかった。
せっかくなのでご自宅まで送りますよ、と、俺はアオヤマさんの家まで車を走らせた。
さすが元社長宅。住宅地から少し隔たった田舎だとは言え、立派な門構えと広い庭の一部がのぞいていた。
何か礼をしたい、と言われたらなんと断ろう、そう考えたのは杞憂だった。彼はにっこりと
「本当に助かったよ、やれやれ」
そう言って車から降りた。しかしドアを閉めてから
「小泉社長には僕から伝えておくから、本当にありがとう」
そう深く頭を下げた様子に、俺はつい
「こちらこそありがとうございました」
と一礼して、では、と車を出した。
すっかりうす暗くなった門の脇で、アオヤマさんがずっと手を振って見送ってくれるのがミラー越しに見えた。
俺は結局そこから三キロほど離れた営業所に戻った。
「キクちゃん、直帰だったんじゃ?」
残業する気満々の係長がうれしそうな目を上げたが、
「連休前に報告書を上げとこっかなー、って」
そう言うと、「らしくねー」と野次られた。
だから近くの隠れ名所のことも係長には教えてやらないことにした。
小泉社長には以前から頭が上がらなかった。納入機器がトラブル続きで社員一同から白い目で見られながら対応に四苦八苦している間も、社長だけはおおらかに笑って
「まあ、失敗なんて誰にでもあっから、気にしなくていいって」
そう肩を叩いてくれた。その後にもまさかの追加注文もいただいた。
「キクチくんがそう言うなら、ボクは信じてるから」
そう言って、すぐに判をくれたのだ。
五、六年前くらいにはかなり経営が苦しかったらしいのだが、苦労人らしい、人情味の篤いところがどうにも憎めなかった。だから社長の友人にも、何かと便宜をはかるのは当然のことだろう、と俺も腹をくくっていた。
それに、去り際にアオヤマさんが言ってくれた
「社長には僕から伝えておくから」
の言葉もイミシンだ。
いつになく軽やかに報告書を仕上げ(アッシーに使われたのは伏せておいた)、デスクに貼りついている数人に、じゃ、お先にー、と軽く手を振って、俺はさっさと家に帰った。いつものバイパスも順調な流れだった。
さて翌日から久々の二連休だ。
しかし初日にはいきなり用事が入っていた。
甥の『エレクトーン発表会』のために、近所に住む従姉から、ここから車で一時間半はかかる○○ホールまで送迎を頼まれていたのだ。ダンナは接待ゴルフだそうで。
結局またバイパスで、しかも営業所よりはるか西にあるホールまで出かけることになっていた。俺は便利なアッシーだ。
それでも、いつも「おじさん」とは呼ばずに「あったん」と呼んでくれる可愛い甥っ子のためだ。昼もおごりだしね。
退屈な演奏もなま欠伸をかみころしながら耐え、ようやく昼過ぎ、ホールを出て三人で回転寿しの店に寄った。飯がすっかり遅くなってしまったのと、発表も終わって緊張がほぐれたのとで、甥のカズキは喰うわ喰うわ……従姉いわく、ふだんの二倍近く食べている、と。
子どもは成長が早いからなあ、とひとり者の俺はのんきに構えていたが、さて、帰り道のこと。
いつものバイパスにようやく乗って二十分ほど行った頃、案の定、
「きもちわるい」
バックミラーでちらっと見た、カズキの顔は真っ白だった。
仕方なく、ちょうど見えてきたインターから一般道に出る。
ナビを確認する。ふだん使ったことのないインター、営業でも回ったことのない辺りだったが、国道や県道をうまく東へ東へとつないで行けば、案外遠くはなさそうだ。
カズキが調子よくなったら、すぐにバイパスに上がって帰ればいいか、と俺はハンドルを切って、できるだけバイパスに沿って走ることにした。
従姉が急に『止めて!』と言うたびに路肩に停車しては、カズキの様子をうかがい、吐き気がおさまるとまた走り出す……そんなくり返しだ。
一時間以上は下の道を走っていただろうか。
気になることがあった。
ナビの現在地と、道路脇に見かけた標識とが微妙に食い違っているのだ。
方位が不安定なようで、画面の地図がときおりぐるりと回転してしまう。
従姉に、助手席に乗ってもらえるか訊いたのだが「カズキが……」と息子の背中を撫でている。じゃあ、スマホでナビ見ていてくれない? と頼むが
「私、酔いやすいのよ~」と情けない声を出す。
こんな時に限って、ゆっくりと車を停めて休めそうなコンビニや空き地もない。
今どきならばどこか適当な場所を適当に一時間も走れば、コンビニの一軒くらいはみるだろう、しかし、わざと避けているのか? というくらい、売店のひとつすら見当たらない。
低い山やまの合間、のどかな田園風景が拡がり民家が点在し、 なだらかな坂とカーブの向こうに、更に似たような景色が拡がっている。
バイパスの高架もすでに見失い、それでも日射しだけを頼りに東に向かっていた。
せめて台地を越える前に、バイパスに復帰したかった。
微妙に焦りが出てきたようだ、アクセルを踏む足に力が入る。
かなり行ってから「あれ……」
電信柱の帯についている地名に『倉谷』とあった。
周りを見回すが、覚えがあるようなないような、山々と民家ばかり。
大きなカーブを曲がってトンネルを抜け、道なりに行った頃、急に見覚えのある池が目に飛び込んだ。
倉谷城址公園に、気づいたら到着していた。
「とめて」
今度はカズキが悲痛な声で叫んだ。車は公園の駐車場に滑りこんだ。
エンジンを止めると同時にカズキが車外に飛び出し、トイレへと駆け込む。
母親がドアもしめずにあわてて後を追った。
溜息をつきながら、俺も車外に出る。
そんなにここが気に入ってしまったのかな?
俺は苦笑しつつ、昨日登ったばかりの尾根付近をぼんやりと眺めて母子を待っていた。
すでに日が傾きかかり、初春の風は冷たく池に細かいさざ波を立てていた。
そこからの道は昨日通ったばかりなので、もうひと安心だった。
いくぶん西に戻るような形ではあったが、どうにか俺たちは無事にバイパスのインターチェンジにたどり着いた。
翌日はまるっきり自由な一日、となるはずだったが、タイトルを見ていただいた人には、続きが何となく読めたのではないだろうか。
日曜の昼を回った頃、珍しく、係長の携帯から電話があった。前置きもなく彼は言った。
「カイシャの下が火事だって、すぐに来られる?」
「えっ?」
まだパジャマだったのを急いで着替え、車に飛び乗った。
営業所の入っているのはごく小さな三階建て集合ビルで、俺達の営業所は二階の二室を使っている。倉庫に使っていた部屋の方の真下、ラーメン店から火が出たのだと言う。
駆けつけた時には消防車やパトカー、それに野次馬であたりはごった返し、火は収まったものの、建物の東側一階、俺も贔屓にしていた麺屋の窓枠がぽっかりと口を開け、痛々しい姿をさらしていた。
カイシャの数人が寄り集まってあまり深刻な顔でもなく二階を見上げている。
俺に気づいた所長が手招きした。
「まだ中には入れないんだが……うちも上も留守だったし、とりあえず下も軽いケガと火傷で済んだらしい」
許可が出たら中に入って被害の状況を確認するとのこと。俺は写真を撮るよう命じられ、ずっと待機していた。
管理会社の連中が来て、ガス屋が来て、電気屋が来て、あっという間に一日が過ぎる。
結局、その日のうちに進展はなく、俺達はまた明日とりあえず出勤と相成った。
どうせ中に入れなかったのならば、明日集合でも良かったんじゃないの? とぶつくさひとり文句をたれながら俺は空しく家へと向かう。
バイパスの入口、赤いランプが点滅している。LEDの文字も赤い。
『事故 ××トンネル ○○~△△間 通行止め』
厄日とはまさにこのことか。トンネルは、台地を横切るど真ん中あたりの一番長いやつだ。
バイパスがまれに使えない時に通る、海に近い国道に引き返そうとした。
が、はたと気づいた。平日とは違い、日曜は行楽帰りの車で大渋滞となる。
台地には数本の国道とともに、細い県道や農道に近い道路が網の目のように走っている。うまく選んで登り降りすれば、そこそこの時間で帰れるだろう。
昨日のナビの頼りなさも忘れ、俺はいつもは通らない横道に入っていった。
気づいた時には、そしてまた『倉谷城址公園』の看板前で呆然と佇む俺がいた。
どうして三日も続けて同じ所にいるんだ、俺。
煙草はずっと以前に止めていたにも関わらず、俺の手は思わず上着胸ポケットの辺りを探っていた。その手が、かすかに震えていたのはすっかり暮れなずんだ空気の冷たさだけでは、なかったような気がする。
翌日からは火事のせいもあってとにかく忙しく、例の小泉社長の会社に回れたのは、前回からひと月以上も後だった。
早いうちに火事見舞いをいただいていたのに御礼が遅くなったことを詫びると、いつもと同じように、いやっ、いいんだって、タイヘンだったねー、と額の汗を拭きながら俺の二の腕を大げさに何度も叩いた。
「ちょうど来てもらった日の、次の日だったって? 火事」
「あれは金曜だったんで……翌々日です、日曜の昼前ですね」
おお、とため息をついた社長、すぐに思い出したように顔を上げた。
「そう言えばあの金曜にさ」
「ああ……」送っていったアオヤマさんのことだろう、とやや期待をこめて顔を上げた俺は、社長の次のことばに固まった。
「びっくりしたよ、いつの間にかいなくなってるからさあ。折角ね、女房の実家からリンゴを山ほど貰ったんで、おたくン所で分けてもらおうと思ったのにさ、ひと箱分」
「……」
俺の動揺には気づかなかった様子で社長は朗らかに続ける。
「でもあの日に持って帰ってそのまま会社に置いといたら、ヤキリンゴになっちまっただろうねぇ」
「……あの」ようやく俺は声に出した。「友だちを……送ってくれ、ってのは?」
「トモダチ? 送ってくれ、って?」今度黙ってしまったのは社長の方だ。俺はあの日に送ったアオヤマさんの名を出した。
「アオヤマだって?」
静かにその名を口に出した社長は、話を聞くうちに、表情を硬くしていく。
「あの」
いまだかつてこんな怖い顔をした小泉社長を見たことがなかった。
「何か、まずかったですか? 俺、てっきり」
「青山くんに、確かに、ここで会ったのか?」
「はい」
「自宅に送ってほしい、と」
「はあ」
「服装は」
何だか警察の尋問のようだが、真剣な社長の口調に押されるように、俺は宙をみながら思いだそうとした。「こげ茶のジャケットで、黒っぽいスラックスで……鞄に可愛いマスコットがついてました。柴犬みたいな」
あの日と同じだ、と社長はつぶやき、また俺を見た。
「その後、倉谷の城跡に寄ったのか」
「はい、まあ。いえ、ご自宅に寄る前に」
「キクチくん」
社長が重々しく告げた。「確かに、青山も私もあの近所の出身だし、倉谷にもよく行った。だがな」
青山さんが自宅から失踪して、すでに五年近く経っているのだと言う。
会社の資金繰りに弱り果て、幼馴染でもある小泉社長の元に訪れて間もなくのことだったらしい。
「その頃、ボクはね」社長が苦しげにつぶやいた。
「ヤツを助けてやることが、できなかったんだ」
自身の会社も、いつ潰れてもおかしくはない、逆に青山さんに頭を下げに行こうと思っていた矢先だったのだそうだ。
その時、社長はとっさに自分の財布から現金をすべて抜いて、急ぎ用意した茶封筒に入れて旧友に渡してしまった。
「しかし、ヤツがほんとうに必要だったのとは全然、桁が違ったんだよ」
それでも青山さんは、封筒を額に押しつけるようにして何度も頭を下げたのだという。
「その時、かけてやる言葉もなくて、ふと目についたのが、鞄についていた人形でね……『らしくないな』って言ってやったら」
孫からお土産にもらったんだ、いいだろう、とにこやかに笑ったのだそうだ。
社長は眼鏡を取ってうつむいた。ハンカチがないのか、素手で目頭をぬぐっている。
しばらく何かを堪えていたようだが、社長はようやく顔を上げた。
「もしかしたら、あそこにいるのかも知れないなあ、まだ」
倉谷城址の下にある池で、ふたりしてよくトンボを獲ったんだ。
社長の声がどこか遠くに響いた。
何かと気になることばかりだったが、それから俺は一度も城跡に近づいていない。
青山さんの捜索が再開されたことだとか、その後地方紙の片隅にあった、公園の薮から発見されたものの記事とかも、あえて気づかないフリをしていた。
幼馴染の奈津実が、バイト先のセブンの豆大福を手土産に訪ねてきたのは、ちょうどそんな頃だった。
俺が「あのさ」と、くだんの一件を話し出す前に、彼女はそっと片手で制した。
相変わらず、ネイルが丁寧だ。春にふさわしいそれは、ほんのりと桜色をしていた。
「いやだなあ、その話、詳しくは聴きたくない」
「……そうか」
僅かばかり、声に落胆の色をにじませていたのか、彼女は仕方なくというふうに言った。
「少しだけなら、話聞こうか」
つい、すがるような目になった俺に、ナツが言う。
「たぶんさ……近頃、呼ばれてたんじゃないかな? って。何だか気になってね」
何か予感があったらしい。それでわざわざ、恋人でもない俺を訪ねてきてくれたようだ。
ぽつりぽつりと話しながら今でも、城跡の様子がまざまざと目に浮かんでくるのは確かだった。彼の立ち居振る舞いは日に日に記憶から薄れているのに。声までも。
しかし、なぜかあの場所だけは深い傷のように、俺の心に残されているようだった。
枯葉の合間に落ちていた赤い椿の花、木漏れ日、白く光る池……
「……手を合わせに、一度行った方がいいのかな」
ぽつりと言った俺のひとことに、ナツがはげしくかぶりを振った。
「お願いだからやめてよ」
誰かの恨みとか、悪意とかは全く感じられないんだ、と彼女は続ける。
「でもね」
彼女は長い爪で丁寧に包みを開けながらさらりと言った。
「良かれと思う『情』でも、人はあんがい簡単に穴に落ちることもあるから」
あえて近づかない場所があっても、いいのかも知れない。
そんな場所が、これから増え続けなければいいのだが。
了