90 審判の懇願
「俺もさ、祖国の冀州が攻め落とされて、父と母を亡くしたよ。でも、それは俺の父が為政者だったから仕方ない。国が滅びたって、為政者や国の呼び名が変わるだけで、民衆の生活には大差ないんだよな。程度の差はあれ、重税や悪法なんてどこの国にもあるだろう。国のために民があるんじゃない。民がいるから、そこに国があるんだ。国なんか滅びたって、民は生き続けるし、そこにある風習とか、文化とか、思想とかいったものは残り続けるだろう。そうして、滅ぼした国も、滅ぼされた国もひとつになって、また新しい国の形が民の力で作り出される。俺はそう思うんだ」
嘘である。審判自身、ついこの間まで冀州が天下を統一する事を熱望していた。祖国が滅び、自身が寄る辺ない身分に落ちることを恐れていた。その自分がまさにその状態となり、何度も負け戦を味わい、額彦命を励ます内、知らず言葉が勝手に口をついて出てきたのだ。
「審判さんの言う事、よく分かる。国なくなっても、大地なくならない。戦争で人、殺し合うより、ヤマイ国に降服した方がずっといいのかもね。冀州や并州や青熊のように。でもここの人達、そういう訳にもいきそうにない」
額彦命に言われ、現実に引き戻される。彼らは蹋頓単于の首を差し出さない限り攻め続けられるのだ。降服したくても、簡単にはできない事情がある。二人は沈黙し、いつとはなく審判は部屋を後にした。審判が意を決して顔琉を連れ出したのはその日の晩であった。
「こんなところに呼び出した理由は大体分かっておるぞ。だがまあ、聞くだけ聞いてやろう」
砦から少し離れた場所で二人は向かい合った。
「はい。やはり冒頓殿の願いを聞き入れ、曹操の暗殺に向かうべきかと」
「よいか。豎子よ。世の中にはできる事とできない事がある。お前さんが言うのは明らかに無理な話だ。少し考えれば分かろうが」
審判はその場にひれ伏した。
「願わくば私一人で行いたい所ですが、貴方の力なくしては叶いません。何卒、力をお貸し下され」
顔琉は嘆息した。
「買い被りすぎだ。それにだ、万に一つ上手くいったとして、曹操一人を殺った所で何が変わる。何も変わりゃせん。時間稼ぎくらいにはなるかも知れぬが。大体、袁尚を張り倒す話はどうなった。お前がここで命を張る理由はあるまい」
「理由ならございます」
「何だそれは」
「甄梅のことにございます」
それを聞いて顔琉は思い出した。審判が袁尚の元に辿り着いたとしても、甄梅は渡さぬと、皆の前で決意表明した時のことを。




