89 倭人の記憶
二人が宿舎に戻ると粛と甄梅が出迎えた。額彦命は肋骨を折っていたので安静にしている。冒頓の容態が芳しくないことを告げると心配したとおり甄梅が暗い顔をした。行く先々で戦禍に見舞われるのは、やはり自分に原因があると思っているのかもしれない。
「そっか。でもこれからどうする? 袁尚の行方も分からないままだし、俺達だって烏丸と運命を共にする義理はないぜ」
粛の言うことももっともである。こと、ここに至って袁尚などどうでも良いような気もするが、審判の頭の中には曹操暗殺の野望が黒雲のように立ちこめていた。
翌々日、冒頓は息を引き取った。彼らの慣わしでその遺体は簡素に埋葬されたが甄梅が葬儀を願い出た。異民族は道教を信仰しないが、これまで家族同然に迎えた甄梅の申し出を彼らは快く受け入れ、甄梅は冒頓の弔いを執り行った。その様子に烏丸の者達は心を打たれ、甄梅を巫女様、神女様と敬うようになった。
「どうだい? 額彦命。怪我の具合は」
審判が食事を持ってきて額彦命に経過を聞いた。
「烏丸の人達の手当ていいから、とても良好。でも暫く動けそうにない。足手まといなって申し訳ない」
「そんなことないさ。額彦命がいてくれなきゃ、今頃俺も冒頓殿と同じ運命だったよ」
「じゃあ、甄梅さんに弔われてたね」
生真面目な額彦命のブラックジョークに審判は思わず笑った。
「それも悪くないなあ。どうせ死ぬなら甄梅に看取られながら死にたいもんだ」
「それにしても甄梅さん凄いね。烏丸の人達、皆、甄梅さんに心服したみたい」
「ああ。道教の葬儀なんて彼らの神経を逆撫でしやすまいかと内心不安だったけど、死者を送る気持ちは皆、一緒なんだな」
「それよ。私の国、そういう事できる人いない。私の国には甄梅さんの持つ力、必要」
一瞬、額彦命の表情に暗いものを感じた。審判は不審に思ったが、それ以上は踏み込まなかった。
「ところで、額彦命に家族はいるのか?」
「勿論。父に母にお婆ちゃん。生きていればだけど。それから妻に娘。今頃、甄梅さんくらいになっているかも」
嬉しそうに目を細める額彦命だったが意外だった。まさか妻帯して娘もいたとは。まあ、不惑を過ぎているので当然といえば当然なのだが、腰が低く若々しい男なので勝手に天涯孤独だと思っていた。
「でも私の国、ヤマイ国にもう滅ぼされているかもしれない。家族、助けたくてもこの有様じゃどうしようもないね」
額彦命は自嘲気味に笑った。聞けば彼らはいわゆる奴隷階級で、上の命令は絶対なのだという。そんな国でもやはり行く末を案じてしまうのは祖国ゆえか望郷か。
「そいつは心配だなあ。国滅びても、せめて家族さえ無事ならなあ。それじゃ、額彦命も早く国に帰りたいだろう」
「はい。でもこの国の助けを借りる役目は果たせず仕舞い。それで帰ってもただじゃ済まない思う」
ではいっそのこと、国など滅びた方がよいのではと審判は思ったが、それは他人事だからである。本人にしてみれば切実であろう。