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88 冒頓の懇請

 部屋に入ると痛々しい姿の冒頓が床に伏せっていた。

「顔狼牙。こんな格好で申し訳ない。体を起こすのもままなりませぬゆえ」

「要らぬ気を遣うな。怪我人が礼もへったくれもあるか」

「面目ない。こんな負け戦に顔狼牙をつき合わせておきながら、我らは何も報いることができ申さぬ。あまつさえ託された白狼山を曹操めに奪われたままでは、何とお詫びをして良いやら。儂はそれが無念でなりませぬ」

 冒頓は落涙した。

「やめてくれ。あれは賊が根城にしていただけのただの山だ。確かに山を降りる時、お前さん達に任せるとは言ったが、命を懸けて守れと言ったつもりはない。そんなことを気に病むでない」

 冒頓の目から更に涙が溢れた。

「貴方は昔からそうでしたな。見えるものと戦うな。真に戦うべき敵は見えざるものだと。そしてそれは己の内にあるのだと」

 冒頓はひと呼吸おき、力を振り絞って話し始めた。

「こんなことを頼める筋合いはござらぬ。しかし、敢えてお頼み申す。白狼山に陣取る曹操を討っては頂けぬでしょうか。白狼山は貴方の庭。曹操の陣容も大方、我らの手の内に入っております。我らでやりたいところですが、それができそうなのは顔狼牙、そして審判殿しか考えられませぬ」

 おいおいと審判は思った。顔琉はともかく、何故自分なのかと。張遼の関節を極めたのはフロックに過ぎず、それとて張遼に撥ね返された。冒頓に買い被られる理由が分からない。しかし顔琉は、

「よし、分かった。前向きに考えようではないか。だから安心しろ」

 意外にも顔琉は了承し、冒頓が礼を述べ、二人は部屋を辞した。

「顔琉殿、驚きました。まさか貴方が曹操暗殺の依頼を受けるとは」

 道すがら審判が顔琉に言った。だが顔琉の答えはそっけない。

「そんな訳なかろう。ああでも言わねば冒頓は引き退がるまい。あの男ももう長くない。城に籠る蹋頓単于が心配で、死んでも死にきれぬのであろうよ」

「ではあれは方便ですか」

「無論だ。いくら情報があっても曹操の暗殺など火中の栗だ」

 審判は何故冒頓が自分にも頼んだのか考えてみた。顔琉は今、自分の護衛の仕事をしている。ならば顔琉を動かせるのは現時点では自分だ。だから顔琉と共に自分も巻き込んだのではないかと。とはいえ、自分は烏丸とは大した縁もない。そんな自分にまで頼らねばならぬほど彼らは追い詰められているのだ。浪花節と言ってしまえばそれまでなのだが。しかしと審判は思う。曹操暗殺の発想は以前から審判の頭の片隅にあった。ただ、現実味がないからそれを打ち消していたのだ。だが曹操は今、目の前にいる。顔琉の武力、白狼山の土地勘、烏丸の持つ情報。これらを総合すれば確率は悪くないのではないか。曹操はここまで連戦連勝で油断をしている可能性もある。審判の体がぶると震えた。

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