87 剛能く柔を断つ
一騎打ちに水を差された張遼が怒気も露に容赦ない鉄拳を審判に浴びせる。審判は両腕でガードしつつ上半身を左右に振って身を守る。冷静さを欠いた張遼の左拳が狙いを外して地面を打った瞬間を見逃さなかった。審判が張遼の手首を取り捻じ上げると、激痛を感じた張遼の体がわずかに浮く。すかさず審判、両足で張遼の脇を挟み込んで肘を極めた。現代で言うところの腕ひしぎ十字だ。関節の取り合いは子供の頃から何度も雷天とやった。張遼は頭に血が昇っており、審判は最初からこの展開をイメージしていたので奇跡的に極まったのだ。左腕を極められた張遼の表情に呑まれる前に、
(折る!)
審判が全体重を張遼の左肘に集約しかけたその時だった。張遼が大声で吠え、左手一本で審判を体ごと持ち上げた。規格外の腕力である。
そのまま張遼、審判の体を地面に叩きつける。瞬間、歯を食いしばり耐えたものの、また持ち上げられる。咆哮と共に二発、三発と叩きつけられる内、審判の意識も遠のいてきた。掴んだ張遼の左腕は命綱。離すものかと必死にしがみつくが、次第に両手の感覚も麻痺してきた。何度目かの地面の激突で審判が観念しかけたその時、遠くで鬨の声が上がるのが聞こえた。眼前の張遼が忌々しげに見る方向に審判も目を遣ると、そこには粛と顔琉が烏丸と共に救援に駆けつけた姿があった。すると今までの休戦も解け、再び烏丸、曹操軍の戦いが再開される。張遼の配下が駆けつけると審判は堪らず技を解いてその場からの離脱を試みるが、蓄積したダメージでそれも適わない。だが張遼もまた、左腕を押さえ肩で息をしていた。そうこうする内に張遼の配下が審判に襲い掛かる。しかし同時に粛と顔琉が乱入。混戦状態の中、粛が馬を引いて審判の元に馳せ参じた。
「何とか間に合ったようだな。すぐに退却するぞ」
「遅いよ! もう駄目かと思ったんだぞ。額彦命と冒頓殿がやられた。二人とも助けないと」
「悪い! でもこっちだって大変だったんだ。上官越だか任来だか名乗る張遼配下が手強い上に、顔琉の爺さんは目の前の敵を叩くことしか頭になくて、戦の機敏も何もあったもんじゃない」
すると顔琉も遅れて現れた。
「それは済まなんだのお。だが前に言った筈だぞ。儂は戦をよく知らんと。それより、額彦命と冒頓は烏丸が回収したぞ。儂らもさっさと引き上げじゃ」
審判は張遼の行方を目で追ったが既に騎乗し、配下と共に砂塵の中に消えていったが、右手一本で馬を操っていた。思いの外、左腕に与えたダメージは大きかったようだ。
審判達はすぐさま囲みを突破すべく行動を開始。群がる敵は顔琉の武力の前に打ち払われ、やがて曹操軍全体が彼らを遠巻きにし始め、深追いはしてこなかった。張遼にどんな思惑があったかは知れなかったが、命からがら逃げ出すことに成功したのである。
戦場から離脱した烏丸は戦後処理にかかった。軍としての被害は敗戦の割にはたいしたことはなかったものの、冒頓が危険な状態だったため砦への撤退を余儀なくされた。額彦命も深手を負っていたが命に別状はなかった。一方、審判はといえば見た目こそボロボロではあったが軽傷であった。
烏丸の士気は完全に挫かれていた。被害は小さくとも張遼は彼らに致命的な打撃を与えたのだ。砦に帰還を果たすものの、それを喜ぶ者など一人もおらず、最早抵抗する気力も失せていた。
リーダーの冒頓は意識不明の重体。残る者達が幾日も会議を重ねるが結論など出よう筈もない。審判と顔琉が呼び出されたのはそんなある夜のことだった。冒頓の意識が戻ったのだという。