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68 故郷は遠く

「粛、ちょっといいか?」

「ん、何だよ。珍しいな」

 審判は人気のない所へ粛を連れ出し、腰を下ろした。

「近いうちに出発するんだろ。俺、こう見えて結構忙しいんだけどなあ」

 居心地の悪そうな粛が早く話を切り上げようとする。

「そのことなんだがな、お前、もう鄴に帰れ」

 えっ、と粛は声を上げた。一瞬、その表情には笑みが混じっていたが、すぐ顔色を変えた。

「なに言ってんだ。悪い冗談だぜ。粛様なしでこれからの旅、やってけるのかよ」

「正直、自信がない。でもお前、たった一人の身内のお袋さんを養うために軍人になったんだよな。だから俺に擦り寄っていた」

「嘘だろ。俺は友達だぜ。お前、俺のこと、そんな風に見てたのかよ」

「事実だろ。でも、俺の父は死んだ。鄴も落ちた。袁家の再興も、多分ありえない。つまり、このまま俺の腰巾着を続けても栄達の目はないんだ。期待に応えられなくて悪かったな」

「冗談きついぜ。俺を脱落させるためでも、そんなこと言うの、やめろよな」

「どうとでもとれ。でも、お前だけは連れて行けない。お前は鄴に戻っても命を狙われることはない。なんだったら、曹操軍でもやっていけるだろう。そんな奴をこの先、連れて行くのは危険なんだ。分かったな。お前は鄴に帰るんだ」

 審判は立ち上がり、その場を後にしようとした。すると後ろから粛が怒鳴った。

「ふざけんじゃねえっ。手前、一体何様のつもりだ」

 審判は瞑目して粛の叱責を背で受ける。

「今まで、俺がどんな思いで、手前にペコペコ、ペコペコ頭下げてたと思ってやがる。ああ、故郷に残した母ちゃんが心配で、気にならない日なんて一日だってあるもんか。それもこれも皆、手前のせいじゃねえか。手前の糞親父のせいじゃねえか。それでも俺は、ずっと我慢してたんだ。今までの我慢を無駄にしないために。偉くなって、故郷に錦を飾って、母ちゃんを喜ばせるために、泣きたいのも、逃げ出したいのも、助けて欲しいのも我慢して、ずっとなあ」

 粛は泣いていた。

「それを今になって帰れだと? 今までの苦労をご破算にして、また一からやり直せってか。馬鹿馬鹿しくって、やってらんねえよ」

「そうだな。勝手だよな。すまん」

「謝ってんじゃねえ。糞馬鹿野郎。手前は俺の大事な金蔓だ。俺は離れねえぞ。袁尚だろうが何だろうが、利用できるものは何でもかんでも利用して、手前には何が何でも出世して貰うからな。そしてその暁にはこう言って貰うからな。粛こそ俺の張良であり、鮑叔牙でありましたってなあ」

 その言い草に審判は悪いと思いつつ、つい、吹き出してしまった。

「な、何笑ってやがる。何がおかしい」

 いや、と審判は慌てて首を振って顔を引き締めたが、徐々に笑いがこみ上げて、とうとう笑い出してしまった。粛が呆気にとられている。

「いや、すまん。笑って悪い。でも、随分小さい野望だなあ。我慢して頭下げて、張良、鮑叔牙って何だよ。一体誰に言うんだ。他にないのか、他に」

「あ、あるに決まってんじゃねえか。お金くれたり、豪勢な晩飯ご馳走してくれたり」

 この返答が更に審判に追い討ちをかけた。

「何だ。お金くれるって。結局最後は金かよ。お前、悪党には向いてないなあ」

 審判が大笑いしているのを見て、粛も自分の言っていることのおかしさに気付き、赤面して黙り込んでしまった。審判がひとしきり笑い、落ち着きを取り戻すと粛は改めて審判と向かい合った。

「なあ、審判。お前は今までよくやったよ。もういいじゃねえか。袁尚のところに行くのなんかもうよせ。曹操に甄梅を送り込むなんて、まるで悪党のやることじゃねえか。一緒に鄴に帰ろう。お前達は俺が匿ってやるからさあ」

「何だよ。さっきは何でも利用して出世しろとか言ってたくせに」

「それはもういいよ。俺より、お前の方がずっと辛い立場なのにな。正直言って、袁尚なんかじゃ、曹操に勝てる訳ねえって」

 それは審判にも分かっている。だが、審判にはもう袁尚をアテにする気は毛頭ない。ただ、ここまで来たものを途中で投げ出す気に、どうしてもなれなかった。

「それに、甄梅はお前のことが好きなんだよ。多分」

 そう言われると審判は嬉しかったが、甄梅は自分に限らず、顔琉も、額彦命も粛も、同じように好きという程度であろうと思った。

「悪いが、俺は袁尚に会う。会ってケリだけはつける。だから粛。もう、ついて来なくていいんだ。ついて来たっていいことないし、命の保証も俺にはできない。勝手を言ってすまないけど」

 粛は暫く逡巡したようだったが、

「粛様を甘く見るな。ここまで来て引き下がれないのは俺も同じだ。お前が行くってところまで、とことんまでついて行ってやる」

 かつて審判は似たような台詞を聞いたと思った。それを言ったのは誰だったか、暫し記憶を辿った。この旅の終着点まで諦めがつかないのも、その言葉に衝き動かされてのことなのだろうかと思えた。

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