5 戦いへの渇望
そして初平元年の正月である。
この年、各地の群雄は洛陽で専横と暴虐の限りを尽くす、
董卓。
の、打倒を目指し挙兵。彼ら反董卓連合は十七鎮諸侯と呼ばれ、韓馥はその第二位だった。冀州人の鼻は高かったに違いない。十歳の審判は高揚した。冀州という天下の要地にありながら、保守的な君主の為に無聊をかこっていた父がいよいよ天下に名を知らしめるときがきたのだと。
鄴で軍事教練を受けていた少年部隊の隊長、審判は友人達と冀州や天下の情勢を熱っぽく語らっていた。
「十七鎮諸侯の筆頭は袁術だけど、実質的な盟主は袁紹らしいぜ」
「さすが、四世三公の袁氏だよな。前の宦官誅滅の義兵を挙げたのもあの二人だからな。今回もやると俺は思ったね」
「あの袁氏なら董卓が大軍を率いても蹴散らしてくれるさ」
世の動向を見る少年達の目は無邪気だ。
「審配殿も冀州軍の軍師として従軍してるんだよな。一体、何万の軍を指揮するんだ?」
粛が聞くと皆が審判に注目する。
「知るわけないだろ。軍事に関することは機密事項なんだ。父上がそんなことを教えてくれるもんか」
そう言いながらも審判はまんざらでもない。
韓馥幕下の二巨頭、沮授、田豊が今回の出兵には難色を示したものの、審配が主戦派の急先鋒として強硬に出兵を主張し、韓馥は半ば押し切られる形で大軍を催した。
黄巾の乱では中央の官軍や地方の義勇軍の活躍ばかりが目立ち、州の治安維持に専念していた冀州軍の影は薄かった。それでも、乱が一年足らずで鎮圧された事実を鑑みれば冀州軍は地道な活動をしていたといえる。しかし大衆はそんなことを評価しない。
冀州人が望んでいたのは戦果と名誉。
都、洛陽では天下を揺るがす大事件が毎年のように起きているのに、すぐ隣の冀州にはそれに関わることが殆どない。保守的な韓馥とその臣下の方針に原因があるのだが、冀州人はフラストレーションが溜まっていた。戦国七雄の時代、冀州は天下に覇を唱えた中心地でもあったから尚更である。
折りしも時の皇帝は十歳前後。漢は事実上、董卓の傀儡政権と化していた。即ち、今回、反董卓連合が勝利し洛陽を押さえれば、その活躍如何によっては再び冀州が天下の中心地として返り咲けるのでは。多くの冀州人はそう、夢想していた。




