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4 冀州州都

 生まれたときから審判は勝利者といえた。父の審配は冀州牧、韓馥の参謀の一人として采配を振るっていた。韓馥の謀臣には他に沮授、田豊という賢臣として名高い者がいた。審配の声名はその二人には及ばなかったが件の二人は沈着、保守的であるのに対し、急進的で積極策を好む審配は軍部に一目置かれ、やはり保守的な主君の韓馥幕下の中では民衆の人気が高かった。

 ちなみに牧という地位は州の行政官のようなもので、刺史という州の治安維持に当たる役職もあるが、牧はそれより上である。牧の印璽を受けた者は一州に属する郡、県の支配権を持ち、立法、人事を行う権限も持つ。この頃の牧は現代で言えば米国の州知事に近い。ちなみに当時の中国は県が現代日本の市にあたり、郡が現代日本で言えば県にあたる。少しややこしい。その郡が州に属しており、後漢末期、つまり三国志と呼ばれる時代には十三の州があった。

 冀州の州都、鄴は都、洛陽に近く、冀州も北方四州の中では領土も広く、北の異民族とも国境を接していないので安定しており、生産力も高く財政も豊か。牧の韓馥も温厚、篤実だったため冀州は国力、軍事力共に頭ひとつ抜きん出ていた。審判の父はその冀州の高官だったのだ。

 しかし保守的であることは臆病、愚鈍と映る場合も少なくない。韓馥は為政者として無能ではなかった。むしろ有能といえた。だからこそ冀州には人が集まり国庫は豊かだったのだ。だが、時は乱世であった。

 六年ほど前の光和七年には冀州から黄巾党の首領、張角が軍事蜂起している。鄴に近い広宗を本拠地とし、鉅鹿で大会戦が行われたものの、韓馥は軍を派遣しただけで軍事的な成果を挙げなかった。勿論、戦争は将軍、軍吏の領分であり、韓馥の行動は至極まっとうである。だが、民衆はそれでは物足りないと感じるものらしい。審配は当時、まだ刺史だった韓馥自らが軍を率い、黄巾賊を殲滅すべしと主張した。この主戦論になびく者は多数いたが容れられることはなかった。韓馥は自らの軍才の乏しさを自覚しており、分をわきまえているとも言えるが、傍からは逃げたように見えたことだろう。

 黄巾の乱は張角の病死と弟達の敗死によって一年ほどで鎮圧されたため、結果論ではあるが審配の主戦論は多くの人の支持を得た。

 物心ついた頃から審判は父が誇りだった。同年代の友人達も審配こそ真の忠臣であり、賢臣であると、その息子である審判をちやほやしていた。

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