38 倉亭の戦い 前編
建安六年正月。
前年の官渡での敗戦で袁紹軍の士気が上がることはなかったが、兵力で言えばまだ、曹操と戦う充分な数を残していた。袁紹の筆頭軍師の座を得た審配はその軍権をほぼ、手中に収めた。しかも袁紹は余程自信を失ったのか、軍事にもあまり口を出さなくなり、爪を噛んだり、鬚を抜いたり、自傷行動が目立つようになっていた。
官渡勝利の余勢を駆って、次々と冀州の城を攻落し、鄴に向けて驀進する曹操軍を審配は倉亭津に迎え撃つこととした。そこはかつて官軍が黄巾の大軍を打ち破った地であり、古来より幾度となく会戦が行われた場所でもある。
その倉亭に審配は必勝の陣を張り、官渡の雪辱を果たす構えであった。
「この陣容なら戦巧者の曹操も、今回ばかりは辛酸舐めることになるだろうぜ」
審判の副官になった粛は誇らしげに言った。官渡では袁尚軍に組み込まれたため、二人とも命からがら鄴に逃げ帰ることができた。官渡戦の後、曹操の追撃を止めるべく黎陽の地でも戦闘があったが、ここでも袁紹は大敗。多くの死者を出した。鄴に戻った審配は投獄されていた田豊を袁紹に処刑させた。その理由がなんと、官渡での敗北を受けて田豊が獄中で笑っていたという根も葉もない噂だった。まともな心理状態ならそんな理由で処刑などしないし、できない。こんな判断を下す時点で、袁紹は既に死神に魅入られていたのだろう。官渡では多くの将兵が曹操に降った。軟禁されていた沮授も曹操に捕らえられたという。袁紹はもう誰も信じられなくなっていた。しかし独裁を振るう気概も、もうない。袁紹軍から一番逃げ出したかったのは、実は袁紹自身だったのかもしれない。
だが、審判や粛はじめ、官渡で後方に配置された若年兵は手柄を立てんと意気込んでいた。白馬津、官渡攻略戦に出陣はしたが、戦場を駆け回ることもなく、訳も分からぬうちに敗戦、退却となった。事実上、この倉亭津の戦いが彼らの初陣と言えた。逆に言えば、それだけ袁紹軍の台所事情が逼迫したのだ。かつて袁紹軍には顔良、文醜、張郃、高覧、そして麹義といった優秀な将が数多くいた。が、官渡戦以降の袁紹軍は二線級の将がせいぜいの、寂しい陣容だった。それでも審判は父が軍師として采配を振るえば将が小粒でも戦えると思っていた。戦場を知らなかったといえばそれまでである。
「俺達もこの戦で麹利将軍の元で戦える。思う存分暴れて、ここから逆転の狼煙を上げてやろうぜ」
粛は不安を振り払いたのか、興奮気味に語る。が、それは審判とて同様である。
「当然だ。主だった将軍がいなくなった今こそ、俺達がのし上がれる好機なんだ。ここで勝って、袁紹軍に兵ありを見せつける」