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34 甄梅の声


 羊耳に一騎打ちの作法など求めるのは野暮のようだ。堪りかねた粛が野次を飛ばす。

「汚えぞ。金を持ち逃げされた腹いせだ。手下ばっかり使ってないで、自分が出たらどうなんだ」

 だが、ムキになった羊耳も負けてない。

「へんっ。生憎こちとらな、曹操に降って壺関攻略の先鋒を仰せつかった身の上なんだ。貴様らごとき浮浪者に関ずらわっていられるか」

 自分のことは棚上げして屁理屈で有無を言わせない。こんな手合いに何を言っても無駄である。

「まあ、こうなる事は織り込み済みじゃ。しかしな、親分。手下はおろか、自分の命もここで散らすことになるかもしれんぞ。戦はよくよく考えてするのじゃな」

 顔琉が鉄棍を構えると、額彦命が抜刀して脇についた。つられて粛も渋々、剣を構えて反対側に侍る。顔琉が審判に目配せした。早く逃げろと。二人乗りでは決して逃げ切れない。顔琉は敵を食い止めるつもりなのだ。

 無論、そのことについては審判も了解している。どの道、顔琉とは途中で別れるつもりだった。壺関城に袁尚がいれば絶好の機会である。しかしこの後ろめたさは何なのか。顔琉、額彦命、そして粛まで置いて逃げることに罪悪感を禁じえない。

「顔琉殿」

 審判が逡巡しながら馬上で叫んだ。すると顔琉がちらと審判に目を遣り、小さく頷いた。

「申し訳ありませぬ。何とか持ち堪えて下され。私が必ず、壺関の城から助けを寄越して参りますゆえ」

「要らぬ心配するな。儂とて真面目にやり合うつもりはない。適当なところで切り上げてすぐに追いつく。さっさと行け」

 顔琉に促されるも審判は後ろ髪引かれる思いだった。敵は百は下らない。羊耳の言う通り、顔琉、額彦命の腕が立つとはいえ、どうにかなるものではない。審判が一刻も早く高幹の元へ赴き、助けを請うくらいしか他に方法も思いつかない。かなり非現実的だが、それに賭けるしかない。


審判が馬を飛ばすべく手綱を引きかけると、前に座る甄梅が何かを察知している様子に気付いた。

「どうした?」

 思わず声をかけた。すると甄梅が応えた。

「囲まれてる。沢山の人。でも、悪意は感じない」 

 初めて甄梅が喋るのを聞いて驚いてしまった。いつか見た夢の声との落差にも違和感を覚えた。容姿とは不釣合いな、ひどくしゃがれた声と、たどたどしい口調に。

 そして甄梅の言葉。一体何者に囲まれているというのか。審判が改めて周囲の高台に目を遣る。岩陰に目を凝らすと確かに、何者かの気配。さっきまで全く気付かなった。それもかなりの数だ。偶然居合わせたとは思えない。どうやらここは彼らのテリトリーであり、この地に足を踏み入れたとき、すでに自分達は監視されていたと考えるのが妥当だ。

「来ます」

 再び甄梅が言った。

「顔琉殿、何者かが周囲からこちらを窺っています」

 慌てて審判が叫んだ。甄梅の言葉に不吉な予言のような響きを感じた。

「愚か者め。そんな古臭い手に乗るものか。この羊耳様を甘く見るなよ」

 顔琉しか眼中にない羊耳がお気楽な深読みをする。が、そう言うが早いか、謎の一団が一斉にその姿を現し、奇声を上げながら殺到してきた。その風貌、武装から賊徒の類なのは明らかだ。

「何だ、こいつらは。くそう。儂に勝てぬと見て仲間を呼んだな。卑怯者め」

 またも羊耳が的外れな深読みをする。もう、この男は何が起こっても顔琉の仕業だと考えるのだろう。

「儂は全く身に覚えがないのじゃが、そう思いたければ勝手に思え。おい、お前達、こいつは天の助けかも知れんぞ。このドサクサを利用させて貰おう」

 顔琉が両脇の粛と額彦命にそう言うと、改めて審判に向かって、

「豎子。儂らは何とかなりそうじゃ。お前は娘を連れて逃げろ。あんな連中に捕まっては目も当てられんからのお」

「分かりました。顔琉殿もどうかご無事で」

 言わずもがなの台詞ではあったが、審判は心から顔琉の無事を祈っていた。自分を相変わらず豎子と呼び、ときに耳に痛い言葉を平気で浴びせるこの年寄りが何故こうも気に掛かるのか不思議だった。

「粛、それに額彦命殿。二人も無事で」

「お、おう。任せとけ。何しろ俺は、悪運だけは人一倍強いからな」

 粛が虚勢を張って胸を叩くと額彦命も、

「私達、顔琉さんついてるから大丈夫。審判さんこそ、甄梅さん守ってあげてね」

「承り申した」

 審判は拱手して応じ、すぐさま離脱。奇声を上げながら斜面を駆け下りてくる黒い集団は目前まで迫っていた。


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