32 壺関前哨戦
「貴様は田象を殺してくれた鉄棍使いの爺いではないか。うぬ。ここで会ったが百年目だ。 覚悟せよ」
「ひと月ほどしか経っとらんのに百年目もなかろう。年寄りを敬う気もないのか」
顔琉の話には聞く耳もたず、羊耳は大声で呼ばわった。
「蛇蹴! 出番だ」
すると後ろから異様な風体の大男がぬっと出てきた。
「わっはっは。この男はな、大枚はたいて雇った騎馬民族の傭兵よ。田象とは訳が違うぞ。思い知れ」
「俺、お前殺す。銭、たっぷり」
田象よりも輪をかけて頭の悪そうな男はそう言って馬上で大槌を構えた。
「やれやれ、儂の相手はこんなのばっかりかい。一体どこで道を踏み外したのやら」
そう言いながら顔琉は審判達に目配せした。一騎打ちの最中に血路を開けと言いたいらしい。
「やれ。蛇蹴。その爺いを血祭りに上げろ」
羊耳の叫びに呼応して、蛇蹴が顔琉に打ち掛かる。馬上から大槌が力任せに振り下ろされた。顔琉は両手で構えた鉄棍で受け止めるも、一撃の重さゆえか、地面に転がされた。田象より大きな体躯だけあり、腕力も規格外である。
「どうだッ。儂の恨みを思い知ったか。だが油断はするなよ、蛇蹴。その爺いの突きには気をつけろ。どこで飛んでくるか分からんぞ」
セコンドよろしく羊耳が蛇蹴にアドバイスを送る。言葉をどこまで理解しているかは定かではないが。
堪りかねて額彦命が助太刀に入るべく動いた。
「貴様、男の一騎打ちに乱入とは卑怯だぞ。これだから夷は困る。者共、あの蛮人を召し取れ。爺いに近付けさせるな」
口角泡を飛ばす羊耳の命令で手下の数騎が割って入る。が、顔琉、すぐ様体勢を立て直し、瞬く間に手下を叩き落し、掌で額彦命を制した。
「心配するな。わざと体を浮かして力を逃がしただけだ。癪だが、この親分の言う通り、これは一騎打ちでのお、助太刀は許されんのだ」
ひと度一騎打ちになれば残存兵力がどうであれ、負け方が兵を退くのが不文律だ。顔琉に止められ、額彦命が戸惑いの色を見せる。
「とはいえ、お前さんの気持ちは有難く頂戴しておくぞ。多勢に無勢の中、助けに入るなど、誰にでもできることではあるまいて」
顔琉の言葉に悪意はなかったろうが、隙あらば逃げ出そうとしている審判、粛は後ろめたかった。それが正しい判断ではあるのだが。
「ええい、何をしておる。爺い一人に情けない奴らめ。蛇蹴、さっさと勝負を決めてしまえ」
顔琉に叩き落され、呻き声を上げる手下達を一瞥し羊耳が炊きつける。だが、蛇蹴は動かない。
「羊耳、この爺い強い。銭、もっとくれ」
一合打ち合って顔琉の力量を見切ったのか、ただの欲か、蛇蹴はふっかけてきた。
「ここまで来てなにを眠たいこと言ってる。分かった、二百出す。それで爺いを殺ってくれ」
「駄目。倍の四百」
「なにが倍だ。前金でもう百銭支払っておるではないか。二百五十にまけろ」
頭の悪い交渉が暫く続き、顔琉の首は三百に落ち着いた。額彦命は粛に質問した。
「粛さん、こんな戦い方がこの国のやり方か?」
「ええと、勘違いしないでくれ。あの主従の方がどっかおかしいんだ。何も金目で戦をする訳じゃない」
「それは私も分かる。そうじゃなくて、一騎打ちで戦を決める話よ」
「ああ、そっちか。まあ、戦場ではままあるらしいけど、それで戦を終わらすってのは聞いたことないなあ。負け方が兵を退くことはあるんだろうけど」
「顔琉さんが勝てば羊耳は退くか?」
「多分退かないだろうなあ。これは戦じゃないし、あの親分も頭悪そうだし」
「じゃあ、何で顔琉さん戦うか?」
「知るもんか。爺さんに聞いてくれ。まあ、強いて言うなら武人の倣い性なんじゃないの?」
「そう。でも一騎打ち、とてもいいこと。それで戦終われば大勢の人、無駄に死ななくて済む」
余りにも素朴な額彦命の感想に審判は呆れたが、真理とも思った。袁紹など冀州人を煽っただけで前線に出る事などついになかった。戦争の狂気から目を逸らす者が戦争を主導する不条理は身に染みていた。




