30 官渡の戦い その3
郭嘉は謀臣としてだけでなく、人としてもその才を愛されていた。他の者が言えば難色を示すようなことでも郭嘉が言えば曹操は納得したという。何故曹操がそこまで郭嘉を特別視したのかは定かではない。性格的にウマが合ったとしか考えようがないだろう。
曹操は自ら出陣し、烏巣への奇襲を決断。総大将自らの出陣は勝敗を大きく左右するときだ。総大将が討たれればどんなに有利な展開でも負けである。逆に、勝てばその戦いに参加した者の功は大きい。落命しても無駄死にとは言えないほどの恩賞が約束される。この曹操自身の出陣により軍の士気は大いに上がり、許攸からもたらされた情報のおかげで烏巣の兵糧庫を的確に攻撃できたのである。
しかし、烏巣はすぐに落ちた訳ではない。ことの重要性を知る淳干瓊は寡兵でよく守り、曹操自らの奇襲を報せると共に、救援を袁紹に要請した。
曹操奇襲の報せを受け、張郃、高覧という袁紹軍の二将が直ちに袁紹も自ら軍を率い、烏巣を救援すべしと進言したが、参謀達が冷や水を浴びせた。曹操が城から出た今こそ好機。官渡の城を攻めるべきと主張したのだ。この主張にさしたる根拠はない。将軍達が右と言ったので左と言ったに過ぎない。戦後の権力闘争を見越して、文官達は武官達に戦の主導権を握らせたくなかったのである。全ては袁紹の決断に委ねられた。
「張郃将軍は一軍を率いて烏巣の救援へ。高覧将軍は一万の兵を率い官渡を攻略して下さい。本陣は私が責任を持って死守します」
二将は呆れ果てた。敵が必殺の一撃を放った今こそ勝敗決する分岐点であるのに、この主君にはそれが見えていない。袁紹は両方の意見を採用したように見せて、実は何も決めていない。要は自分が危険な場所に行きたくないがために、選択責任から逃れたのだ。
「責任とは便利な言葉だ。俺は初めて知ったぞ」
「そうではない、高覧。真に責任の重さ知る者は、自分から責任などと口にしないものだ」
元々、韓馥配下であった張郃、高覧はそんな話をし、お互い決意を固めた。
事態を静観するばかりだった袁紹軍本陣。その中にいた審判にも曹操による烏巣の奇襲、その陥落、張郃、高覧が曹操に降った報せが入った。だが、審判はまだ楽観していた。少々腹が減っても戦はできる、と。それは飢えたことのない者の発想だ。過去に失敗している袁紹さえ、そう考えているフシがあった。この期に及んでも袁紹はまだ戦を続け、悪戯に犠牲者を出し続けた。やがて本陣の食料まで尽きてきて、やっと袁紹は退却を決めた。曹操軍に寝返る者が後を絶たなくなったからだ。ここまで先送りにし続けた事態が臨界を越えたのである。真っ先に逃げたのは袁紹だった。
総大将が討たれれば負けなのだから当然なのだが、満足に兵糧もまわされず、過酷な前線に立たされ続けた兵士達は続々と曹操に降った。
国を守りたい。親を、子を、祖父母を守る責任が自分にはあると袁紹は言った。治世ならそんな嘘も罷り通るのだろうが、袁紹は自ら戦争を招いのだ。
一方、曹操はどうか。各地で戦に明け暮れ、徐州では大虐殺も行った。その名文は父親の仇討ちである。動機はどうあれ正直である。天子を奉戴し、天下を取る意思も示した。袁紹のように美辞麗句を並べ立て、野心を隠し、周囲に推される形を根回しで整え、仕方なしに天下を取るのだという姿勢を見せる回りくどさがない。それが乱世を勝ち抜く資質のひとつでもあった。その資質を袁紹は欠く。そう、人民に見抜かれ、次々と人が去ったのだ。
袁紹と共に息子の袁尚も逃げた。結局、この親子は勇ましい言葉を吐きつつ、一度たりとて危険な戦場に身を投じることはなかった。公孫瓚を討った時、袁尚の武功が殊更強調されたが何のことはない。戦の大勢が決した後の掃討戦で死者に鞭を打ったに過ぎなかったことを、袁尚軍に組み込まれていた審判は知った。尤も、そのおかげで審判は官渡で命拾いしたのだけれど。
袁紹には勝てる好機も、大敗を避ける余裕も何度かあった。だが、重要な決断を迫られると自らは動かず、動きたくないが為に決断を先送りし、現状維持に努めた。曹操に機先を制されたのは必然といえる。
だが、そう断じることができるのは歴史を知る者の特権で、明日の運命も見えぬ歴史の当事者が同じ選択を迫られたなら、袁紹のような判断を多分にするのではないだろうか。
官渡の敗北以降、袁家は急速に衰退してゆく。袁紹は天下を臨める位置にまでつけながら、勝ちきる資質を欠いた。ために、人臣に見限られ淘汰された。官渡の戦いとは、歴史の転換期に起きた適者生存の戦いだった。