28 官渡の戦い
「やあ、審判。久しぶりだね」
声をかけてきたのは従兄弟の審栄だった。審配の兄は凡庸で閑職に甘んじていたため、彼らはコンプレックスを抱いていた。
建安五年、先の白馬津、延津の戦いで顔良、文醜の二将が討たれ、序盤で躓きはしたものの、物量で勝る袁紹軍に対し、曹操は官渡の城に立て籠もり、これを防いでいた。
「曹操も粘るね。官渡は確かに堅城だけど、肝心の兵糧がもたないだろう。落ちるのは時間の問題だろうねえ。誰が軍師であろうと」
審栄が湾曲して審配を貶めるのはいつものことだ。審判もまた、この従兄弟が嫌いだった。
曹操が籠城を始めて三ヶ月。従兄弟が言うほど現実は甘くない。審配の見立てではもう曹操軍の兵糧は底を尽いてもおかしくない筈なのに、後方からどんどん補給されているらしい。曹操が治める兗州の生産力では考えられないことだ。
「まあ、近く僕達の部隊が地突の計で官渡に突破口を開くから、審配殿には安心して見ているよう伝えておいてくれ」
審栄はそう言って去っていった。易京で公孫瓚を破った田豊の策ではあるが、今回は袁紹の立案である。この戦に田豊は参加していない。出兵に反対したため投獄されたのだ。沮授も反対していたが、田豊が投獄されたので袁紹を諫めるために従軍した。そんな沮授を袁紹は疎んじ、審配、郭図、逢紀といった面々は権力闘争に血道をあげていた。その影響は前線で戦う武官にも及び、袁紹軍の足並みは揃っているとは言い難かった。
ひと月ほど経って目処の立ってきた地下道だったが、曹操軍は塹壕を掘りこれを無力化。多くの死者を出した。袁紹が二匹目の泥鰌を狙う性格だと、曹操に看破されていたのかもしれない。作戦を実行したのは袁紹だったが、味方の脱落に安堵する者さえいた。審判も心の中でせせら笑った。この作戦失敗を受け、沮授は撤退を主張するも退けられた。
李典。
という将軍が官渡の守備戦に抜擢されていた。墨者の末裔を自称し、剃髪し、黒い衣服に身を包み、伝えられる墨者の姿を体現している。
墨者とは約四百年前に現れた諸子百家のひとつで、攻めず、専守防衛で国家を維持しようという思想集団である。現代でも頑なに守ることを墨守というのはこれに由来する。墨家は突如、歴史から姿を消すが、その優れた防衛戦術やユニークな思想は残っている。墨者の末裔を称する者は各地に散り、傭兵として戦ったり、反乱の指導者になったりした者もいた。
李典もまた守備戦の巧みさから「守り李典」の異名をとり、曹操軍でも重きを成す将の一人だった。この男が官渡の守りを指揮し、袁紹軍の攻撃を悉く撥ね返していたのだ。
「墨者の戦術だ。あの城を落とすのは容易ではない」
対陣しただけで敵の正体を看破した父に審判は感嘆したが、何のことはない。墨者の戦術は彼らの時代にも充分通用する。歴史を紐解けばそれを見破るのはさして大したことではない。問題はそれをどう打破するかだ。




