2 沈む太陽
何故、三男が跡継ぎなのか?
それは袁尚の母親、劉氏が兄の母達に比べて若く、器量が良かったからといわれている。また、袁尚自身も母親に似て器量がよかった。とはいえ兄二人に比べてまだマシ、という程度である。しかし馬鹿げた理由とはいえない。当時の中国において人間性は容姿に顕れるという考え方があり、人の上に立つ身分ともなれば一層顕著である。そうとなれば家臣達が黙っていない。長男につく者、次男につかざるを得なかった者、三男についた者達が勝手に派閥を作り、代理戦争を始めるのだ。
なお悪いことに父親である袁紹もまた相続を巡って族氏と諍いを起こしていた。だったら、我が子には同じ思いをさせたくはなかろうと考えそうなものだがいざ、自身の聖域となれば話は違うらしい。
袁紹は官渡の戦いに勝利し、天下をほぼ手中に収めてから磐石の三男後継体制を整える肚づもりだったのだろう。だが、思惑に反し官渡では敗れ、その後の倉亭の戦いでも惨敗し、その夢は泡と消えた。
袁紹は敗走の途中、陣中で没した。跡継ぎを決めぬままに。結局、袁紹の地盤は傍にいた袁尚が引き継ぐこととなった。その役割を果たした中心人物が袁尚派の最右翼、審配正南だったのだ。
だが、審判はその父に疑問を感じていた。確かに袁尚についたほうが目先には利を得るだろう。しかし、今は袁家自体が斜陽なのは誰の目にも明らかだ。いや、だからといって曹操に寝返るべしと言いたい訳ではない。むしろ袁家の忠臣たらんと殉じる覚悟があるならば、長子の袁譚を推すのが筋道ではないかと思うのだ。目先の利益を追って袁尚についたのなら、そんなものはさっさと見限って曹操に寝返るのが得策ではないか、と。
実際、官渡の敗戦以降、曹操軍に寝返る者は後を絶たない。それだけではない。長子の袁譚は曹操と手を組み袁尚と対立。鄴の攻略軍にも加わっていた。もう、審判には何が正義か、何を信じるべきなのか分からなくなっていた。鄴の城から脱出し、北の小城、丹を目指してはいたものの、審判自身、その行動にさえ何の意味も見出せなかった。周囲の護衛兵とて同じ気持ち、いや、更なる虚無感に覆われていた。