1 敗残の審判
敗走とは虚しいものである。
逃亡とは惨めなものである。
その両者は往々にして一致することが多い。
明日への展望があれば撤退という耳障りのよい言葉で表現することもできようが、ただ、負けて逃げるだけではそんな言葉も空しさを助長するばかりだ。
起死回生の策がある。
若者は城に残った父にそう諭され、友一人、護衛の兵士十数名と共に落城寸前の死地から脱出した。だが、その策とやらもとても策とは呼べそうな代物ではなかった。ただ、息子を殉じさせたくないがための親心と考えたほうがずっと理に適った。父は智謀の士として主君に仕えていたから。その父が迷信とも、妄信ともつかぬ手段で、一発逆転できると本気で考えていたとは到底考えられなかったのだ。父の名は、
審配 正南。
(なんで袁尚なんかのために、俺達が命を張らなきゃいけないんだ)
審判はそう言いたい気持ちをぐっと堪えて呑み込んだ。この逃亡集団を率いる、一応リーダーである自分がそんなことを言おうものならどうなるか、容易に想像がつくからだ。それでなくとも途中で逃げ出す者は後を絶たない。自分だって正直逃げたい。逃げているのに逃げるというのもおかしな話ではあるが、一応彼らは袁尚配下である。
袁尚が兄の袁譚を討つために鄴から大軍を率いて出陣したが袁尚は袁譚に大敗。手薄となった鄴の城も攻められ陥落した。鄴を攻め落とした男こそ、
曹操 孟徳。
四年前の建安五年の正月、官渡の戦いで袁尚の父、袁紹本初率いる十余万の大軍を僅か三万足らずの寡兵で打ち破った乱世の英雄である。
袁紹はこの戦いに勝利し、一気に天下人になるつもりであったろうし、縁者、臣下、兵卒に至るまで、自分達は官軍として栄達できるものだと信じていた。戦う前から彼らは勝利の美酒に酔いしれていた。
だが、負けた。
否、だから負けたというべきだろう。袁紹配下の謀臣達は戦後の論功を狙って派閥争いに明け暮れ、前線の将軍達の追い落としに腐心していた。更に袁紹には三人の息子がおり、長子の袁譚には青州という東の僻地を与え、次子の袁熙には幽州という北の僻地を与え、それぞれ、その地に赴かせた。そして第三子の袁尚を跡継ぎとすべく傍近くにおいていたのだ。