17 徐福奇譚
「この額彦命はな、東の海の向こうの国、倭からはるばる渡ってきたのじゃ」
顔琉に説明され、審判、粛は驚いた。二百年前、光武帝劉秀の時代から朝貢が度々あったのは聞いたことがあるが、まさか現実に会うとは思わなかった。四百年前、秦の始皇帝の命で徐福なる方士が不老不死の仙薬を求めて渡った蓬莱島も実は倭のことなのでは、という説もあった。また、島国なのに黄河や長江に匹敵し、かつ美しい大河もあるという。だがそれは瀬戸内海のことであり、徐福も海など渡らず現代のベトナムに行ったという説が有力である。とまれ、そんな噂があるだけに倭は神秘的なイメージを持って中華の人々に認識されていた。
二人は何故そんな人物が顔琉と共に放浪生活のような真似をしているのか理解できなかったが、額彦命は紳士的に教えてくれた。
「はい、私、倭はヌ国の戦士でした。でも、南に興ったヤマイ国が周辺諸国を併呑していったね。私の国も攻められて大変なった。そこで漢の国と交渉して停戦させてくれるよう頼みに来たね。でも、使者は船旅の途中、病で死んだ。他の仲間も病や野盗に殺されて私一人になったよ」
右も左も分からない、遠い異国で一人になり、そんな大命を負った額彦命の心境は察するに余りある。更に、倭の国は牧歌的な島国だと勝手に思っていたが、古代中国同様、国が勃興したり争ったりしていると知り、目から鱗が落ちた。では倭もいつか王朝が開かれ、皇帝のような者が起ち、統一国家となるのだろうかと審判は思いを馳せた。
「じゃ、さぞかし祖国が心配だろう。あんた、こんなところをうろついてる場合じゃないんじゃないの?」
粛が聞くと額彦命は首肯した。
「無論、此奴は一人でも任務を果たそうとした。しかし、来た時期と場所が悪かったのお」
顔琉の説明に二人は納得した。いま、漢は乱世。正直、他国の紛争に介入する余裕はない。尚悪いことに、額彦命が中華の主と思って接見したのが袁紹だった。袁紹は額彦命、つまりヌ国の申し出を快諾したものの、袁紹の敗北、そして死を帰路の途中で知り、帰るに帰れなくなったという。
「ツイてなかったのお。大方、袁紹は天下を取った後、倭も支配下におく肚づもりであったのであろうよ。他国のイザコザに乗じて国を乗っ取る。ま、袁紹に限らず、乱世の奸雄の常套手段じゃな」
「聞き捨てなりません。何故そう決めつけるのです。袁紹殿は純粋に倭を、いや、ヌ国を援けたかったのかもしれないではありませんか」
審判が思わず反論する。父の審配まで悪く言われた気がしたのだ。だが顔琉は一顧だにしない。
「呆れた豎子だ。袁紹がそんな善人なものか。韓馥から冀州を乗っ取ったのを見て、どうすればそんなめでたい考えが出るのだ。それだけではない。身内の袁術とも相続を巡って醜い争いをしておった。しらぬのは異国の人間くらいだ」
審判は一言もない。自分もあの乗っ取り劇に喝采を送った一人だ。今にして思えばあれが全ての元凶だった。顔琉は続ける。
「確かに都の宦官誅滅を行った袁紹、袁術は見事だった。だが、その後がいけなかった。董卓の入洛を許したのは天の時だから仕方ないにせよ、自分は諸侯に決起を呼びかけただけで何もしなかった。あれで宦官誅滅も、実は自分が宦官に取って替わりたいだけだと天下にバレてしもうた。その後も董卓なぞ放っぽり出して袁術と跡目を争って悪戯に天下を乱した。冀州を乗っ取った後もそうじゃ。牧の印璽を授けた韓馥に礼も尽くさず僻地に追いやりおった。内紛を恐れたのかもしれぬが、君子のやることではない」
顔琉の指摘はいちいち尤もである。一時ではあれ、袁紹に心酔していた者としては耳に痛いことばかりだ。
「なあ、爺さん。袁紹殿に何か恨みでもあるのかい?」
粛が助け舟を出した。
「何も。ただ、息子が袁紹に心酔して無駄に命を散らしたがな。だが、それはあ奴が豎子であったが為じゃ。儂が袁紹を恨むは筋違いであろうよ」
二人は思わず、えっと声を上げた。まさか顔琉が自分達の知る将軍の父親とは思ってもみなかった。
「顔良という名の豎子よ。聞くところによると白馬津で関羽に成す術なく討たれたらしいが、お前達、何か知らぬか?」
二人は顔を見合わせた。何かどころか、一部始終を目の当たりにしていたのだ。が、とても事実を話す気にはなれなかった。
「まあ、同じ袁紹軍でも、同じ戦場に立つとは限らんわな。つまらんことを聞いた。忘れてくれ」
二人が困惑していると、
「顔琉さん、息子の仇を討つ気か」
額彦命が聞いた。審判と粛も返答に耳を傾ける。
「どうであろうな。ただ、武人として関羽と戦ってみたいという気ではあるな。まあ、奴は今、曹操に仕えておるから、縁があれば会うこともあるかもしれんのお」
だが、それはあり得ない。少なくとも、審判が知る情報では関羽は今後、曹操の戦に出陣する可能性は低いということだったからだ。しかし、これで自分と顔琉の繋がりが見えた気がした。かつて顔良は審配の食客だった頃があり、そのツテで顔良は袁紹に武力を買われ、将に取り立てられた経緯があったからなのだが、これは審判の見込み違いであることを後に知ることになる。
「さて、日も高くなってきた。そろそろ寝るか」
四人の昼夜逆転生活はもう、ひと月になろうとしていた。途中、顔琉に命じられて集めた強い臭いの草の汁を体に塗れば虫から身を守れる。彼らは木陰に入り、それぞれ眠りについた。
審判はといえばこの後、どうするべきか明確な目標がある訳でもない。父に託された、曹操を破滅させうるという人物に会って、どうやればその策を実行できるかが分からない。いや、それよりも今更曹操を斃したところで、袁尚の天下が訪れるとは思えなかったし、審判自身、袁尚が好きではなかった。自分と大して齢も違わぬ、あの尊大な二代目と会ったのは建安四年、初夏の頃であったろうかと審判は回想した。