15 額彦命
「おう、戻ったか、額彦命。逃げた連中は片付けたか?」
「はい、全員始末したヨ。でも、途中でこんな奴、見つけたネ」
額彦命と呼ばれた男が異国人らしいイントネーションで応じつつ、背後から一人の男を放り投げた。審判は唖然とした。後ろ手に縛られ、猿轡をかまされているのは粛だった。
「あんた、なんてことするんだ。こいつは俺の大事な友達だ」
審判が血相を変えるも、額彦命は表情も変えず、
「大丈夫。殺してないヨ、気絶させただけネ。私が連中を殺してたらこいつが出てきて、何か訳の分からないこと言ってたかラ」
そういう問題でもないのだが、まあ、確かにあの状況で殺されなかったのは幸運だった。審判は急いで粛の縛りを解いた。多少怪我もしていたが、審判より軽傷だった。
少しして粛は意識を取り戻したが、額彦命を見るなり座ったまま後じさった。
「お、おい、審判。こいつ目茶苦茶だ。護衛の連中を殺してたから、てっきり味方かと思って声をかけた俺にまで襲い掛かってきたんだ。俺は武器を捨てて抵抗しなかったのにだぞ」
粛の説明に審判も呆れたが、額彦命としては敵も味方も分からない状況下で当て身で済ませてくれたことに感謝するところだろう。だが、額彦命は深々と頭を下げた。
「それは悪かったネ。顔琉さんに審判さんを助けるように言われてたから友達のことまで考えてなかったヨ。ご免なさい」
どうやら悪い男ではなさそうだ。が、腕が立つのは間違いない。一体何者だろうかと審判が思っていると、
「まあまあ、勘弁してやってくれ。異国の者ゆえ、言葉もあまり分からんし、この国のこともよく知らんのだ。それに少々、気の毒な身の上なのじゃよ。此奴は」
顔琉の口ぶりから、二人はさほど長い付き合いでもなさそうである。
「顔琉殿、この御仁は何者なのです? 異国の方とは存じますが、匈奴や鮮卑の者にも見えませぬ」
審判が言う匈奴、鮮卑とは北方の騎馬民族のことである。彼らは度々、万里の長城を越えて、中華と争ったり国交を結んだりしていた。果たして審判の言うとおり、額彦命はどこの騎馬民族でもないと顔琉は言う。
「では遼東郡の更に東にあるという半島諸国の国の方ですか?」
それは現代の朝鮮半島のことなのだが、顔琉は腰を上げ、荷を担いで出発の準備を始めた。
「まあ、道々教えてやるわい。丹城に行けばよいのじゃろう。そこでお前さん達とはお別れじゃ。そう、仲良くする義理もないでな」
「ちょっと待ってくれよ、爺さん。もう夜だぜ。暗がりの山歩きなんかしたら迷うのは目に見えてる」
粛が顔琉を慌てて止める。審判は顔琉の武力を粛に教えそびれたままなのを思い出した。
「月や星が出ておるわい。夜に進んで昼間休むようにすれば追手も野伏せりもやり過ごせよう。最近の軍はそんなことも教えんのか」
天測の知識は確かにあったが、いざ、実践となると意識の埒外であった。このことからも顔琉の百戦錬磨ぶりが窺い知れた。審判は丹城までとはいえ、この二人が同行してくれることを頼もしく感じた。
かくして、審判、粛、そして顔琉、額彦命の四人の旅が始まった。だが、更にもう一人加わって、彼らの運命もまた乱世に翻弄されることになろうとは、彼らは知る由もなかった。建安九年、夏の終わりの頃だった。