10 最期の一擲
「あんたら、正気か。そんなことしてもいいことないぞ。頼む。考え直してくれ」
粛が護衛達に何か訴えている。審判は嫌な汗を感じた。
「正気だからやるんだ。あんただって奴の横暴に振り回されて、憤懣やるかたないだろう。端から見てて気の毒だったぜ」
「だからって、そんなことしちゃいけない。皆、疲れてるんだ。冷静になれ」
「あんたは今まで、どれだけの冀州人が曹操に降ったか知らないのか。どうせ降るなら手ぶらより、手土産携えたほうがいいに決まってる」
「そうだ。奴の馬も手に入る」
護衛達の意図はもう明白だった。一人、二人の落伍は今まであったが、ここにきて、ついに皆の堪忍袋の緒が切れたのだ。もう、審判の眠気は吹っ飛んでいた。
「俺はやるぞ」
誰かがそう叫ぶとスラスラと剣を鞘から引き抜く音が聞こえた。
「審判、逃げろ!」
粛の叫びが響くか否や、審判は馬の元へ駆け出していた。後ろから粛をなじる声と審判に襲い掛かる声が聞こえる。馬を繋いだ縄を解く暇はなく、審判は馬を諦め走り出した。
何故、こんなことになってしまうのか。思い当たるフシはいくらもある。が、ことここに至っては後の祭りである。あれほど粛が忠告してくれたのに耳も貸さなかった。図らずも自身が袁紹親子と大差ない愚を犯していたことを思い知らされた。
「逃がすな。追え、追え」
追手と化した護衛兵が審判の首を狙って執拗に追ってくる。幸い夜の暗がりが単身逃げる審判に味方した。山中をがむしゃらに駆けて何とか距離をおくことができたが、そう遠くないところから追手の声がする。夜を徹しての逃亡だった。しかし、いつの間にか空が白みはじめた。明るくなればいよいよ審判に不利になる。茂みを夢中で掻き分け、大きな山道に出た。するとばったり、歩兵の一隊と遭遇した。審判はしまったと思った。今時分、こんなところを哨戒しているのは敵軍に違いないのだ。
「待て、貴様。冀州の兵か。こんな山中で何をしておる」
審判の一般歩兵よりも上等な鎧を認めた兗州訛りの彼らは色めき立って武器を構える。審判が返答に窮していると後ろから追手の声がした。万事休す。
「いたぞ。審判だ」
その声を聞いた彼らは一斉に殺気立った。審判は袋の鼠であった。
鉢合わせとなった歩兵と追手がお互いの素性を探りあう。
「貴様ら、この男の護衛か」
敵が問い質すと追手も事態を呑み込んだ。
「違う。さっきまではそうだったが俺達はもう曹操軍に降ると決めたんだ。手を組もう。そいつは袁家の参謀、あの審配正南の総領なんだ。そいつの首なら一軍の将くらいの手柄になるぞ」
これを聞いて敵兵達も嫌な笑みを浮かべた。
こんなところで死んでたまるか。
審判が佩いた剣を抜く。後ろの追手は十数人、前の敵は二十人前後。まともにやり合って勝てるとも思えない。が、幼少期から培われた性向が審判に無様な散りざまを許さなかった。
粛はどうしただろう。一人逃げた自分を軽蔑しただろうか。いや、それよりも無事だろうか。最後まで友は味方だった。子供の頃からただ、打算で自分の側にいただけだと思っていたがそうではなかった。審判は申し訳ない気持ちで一杯だった。自分自身、進退窮まり、やっと人並みの心を得るに至ったのだ。
敵と追手が一斉に襲い掛かってきた。もう審判に迷いはない。相手はここまでの強行軍で疲れている。そこに付け入れば五、六人を道連れくらいにはできるだろう。
自身が予想した以上に審判は善戦した。動機はどうあれ、幼少の頃より続けた努力の賜物がここにきて審判を助けた。結局、最後に縋れるのは己の体力である。いざ鎌倉で貯めた財産が審判の体を衝き動かし、七、八人を打ち倒した。が、それももう尽きてきた。多勢に無勢では余程の武人でなければ血路を開くのは難しい。審判も死に物狂いで戦ったが、ついに敵の薙いだ剣が腕を掠めた。致命傷でもなかったが、審判の動きを鈍らせるには充分だった。
「もうそいつは虫の息だ。怯むな」
審判はなんとか嵩に掛かる敵を片手で凌ぐが、それも限界があった。身に着けた鎧が敵の攻撃を防いでいたが、やがて力尽き、地面に倒れた。
ああ、ここで終わりか。子供の頃に思い描いた夢とはなんと儚いものだろう。いや、自分はどこか、死なないものだと思っていた。戦に出るときも、負けたときも、突如自分の命が失われるなど本気で考えたことなどなかった気がする。だからお気楽に、戦になれば活躍できるなどと思えたのだ。そうでなければ、人は戦争などしようと思わないのではないか。審判は薄れゆく意識の中で、そんなことを考えていた。
「なんだ。お前らは」
不意に、敵の誰かが叫んだ。