〜エピローグ 祖父の帰還〜
「おおーい! いま帰ったぞお!」
邸中に響き渡る音が聞こえる程、荒々しく門扉を開けた羊耳は家人が驚くのも構わず、ずかずかと中に踏み込む。一体どうなされたのですか、などと端女が声をかけるも、羊耳の耳には一切入っている様子はない。
「ああ、お帰りなさいませ、義父上。家人共々、首を長くして待っておりましたよ」
少し引きつった顔で出迎えた好青年を羊耳はぎろりと睨みつける。この儂の可愛い一人娘をたぶらかした女ったらしが何を吐かすか、と、娘婿の襟首を締めてやりたい衝動に駆られもしたが、大事の前の小事。ぐっと堪え、努めて平静を装う。
「ふん。この儂を誰と思うておる。丹城城主にして州境警備を長年務め上げてきた男ぞ。こ度の遠征など、儂にとっては豆腐でも買いに行くようなものよ。我が娘の手柄となれば、羽を生やしてでも飛んで参るわ」
などと強がる羊耳。正直、斥候の任から始まった今回の追跡劇は羊耳にしてみれば悪夢のような災難ではあったが、途中までは自身もムキになってあの鉄棍使いの年寄りを追いかけていたので、まさか配下や曹操軍に当たり散らすわけにもいかなかった。
羊耳は丹城での騒動から曹操に降伏したいきさつを、しばし回顧した。
田象は実に便利な男だった。腕っ節はかなりのものだが、根が単純で、酒さえ与えておけば多少面倒な荒事などはすべて片付けてくれた。計画性もなく、取り立てて野心もなかったので適当におだて上げておけば飲み代程度の給金で満足していた。まあ、多少飲み屋のツケで辟易することもあったが、腕利きの衛士を雇う骨を考えれば安いものだ。長年、安い給金でよく働いてくれた自慢の懐刀であった。
それが反乱のドサクサで、あろうことか流れ者の年寄りに殺されてしまったのだ。自身の顔にも泥を塗られた形だ。葬儀の席で羊耳は人目も憚らず、田象の棺に取りすがって、泣いた。
その後、攻めこんできた曹操軍に白旗を振ると簡単に降伏を認められ、しかも鉄棍使いが向かったと思しき并州への偵察を命じられた。渡りに船とばかりに曹操軍に傭兵として加わっていた蛇蹴を引き抜き、雪辱を果たすべく勇躍、并州へと向かった。あれがそもそもの失敗だった。
「長いお務めでさぞやお疲れでしょう。逸る気持ちも分かりますが、お体にも障りますし、まずは一服されてはいかがですか?」
お前の相手が一番疲れるがな、と、言いたい気持ちを大人の対応で飲み込む羊耳。考えてみれば、この憎き若造が一番の元凶だった。長い間さんざんやきもきさせた挙句、今頃になって鬼の首でも取ったかのように媚びへつらってくる。今まで何度、娘の目を盗んでこいつを殺してやろうと思ったか数知れない。そうだ、思い出したぞ。儂がこの邸に来るたび、こやつは小賢しくも仕事だ用事だと言って上手く席を外していた。思えばあれも、儂の矛先を躱すための方便だったに違いない、と、思い出すとますます腹が立ってくる羊耳なのであった。
もうお前の相手はうんざりだとばかりに娘婿を半ば突き飛ばすように奥の部屋に入ってゆく羊耳。端女が少し体をお拭きになって、とかなんとか言ってるようだが、委細構わず前進する。数カ月間風呂にも入らず、自身がどれほどの悪臭を放っているかなど、当の本人は気付かないものだ。
娘の名を大声で叫びながら部屋に入ると、そこにはすでに母親の顔をした、可愛い一人娘が一人の赤子を抱いていた。
可愛い娘とは言っても、もう三十の半ばを過ぎた、大年増である。この年齢での初産は母子ともに危険を伴う。それでなくても赤ん坊の死亡率は高いのである。
思えば婚期がすでに遅かった。自身が持ってきた見合いの話は全て断り、丹城から数里離れた集落の若者と結婚したいなどと言う。もちろん、そんな我儘を許す羊耳ではない。時には脅し、なだめすかしてりして、どうにか豪商の跡取りとくっつけようとした。が、それなら私は娼婦になります、という娘のひと言でいつもお流れになり、ついに婚期を逃しに逃した三十路手前で羊耳も折れ、どこの馬の骨とも分からぬ土百姓に嫁がせる羽目になったのだった。
しかし、それも悪いことばかりではなかった。大事な一人娘を嫁がせるとなると、自身が治める丹城では心もとない。猜疑心が強い上、人の恨みもそれなりに買ってる自覚もある羊耳にとって、この離れた集落は格好の隠遁先ではあった。
邸と使用人を世話し、娘には不自由ない生活をさせてやっていた自信はあった。が、どうにも子供が生まれないのは参った。
やっぱり、百姓のもとになど嫁がせなければよかった、と、何度言おうとしたか。当の娘などは天からの授かりものですから、などと悠長なことを言う始末。だが羊耳は気が気でない。そもそも自身に男児がいないのだ。そうなれば娘に元気な孫を産んでもらう他ない。そうしなければ血脈が絶えてしまう。
何度、先祖の墓に出産祈願のついでに家の断絶の詫びを入れに行ったことか。その度にあの不甲斐ない夫君を殺してしまおうかとさえ思ったものだ。娘に子供ができないのはあの情けない娘婿のせいだ。いや、そうに違いないない。そうに決まってる! と。
もはや跡継ぎの夢も諦め、家の断絶も覚悟しかけた頃に、ついに子が授かったという。その報せを受けたのは第一次鉄棍使いVS侯成戦の直後であった。
鉄棍使いの消息が掴めないので、李典、楽進軍の本営に一旦、報告に戻った。もちろん、侯成が敗北して取り逃がしたなどと馬鹿正直に報告する羊耳ではない。
が、そこへ丹城からの使者。何かと思えば娘が男児を出産したという。懐妊したなどとは聞いていなかったが、死産の率が高いので、報告は無事、生まれてから行うのが慣例ではあった。
「孫の顔が見たい!」
もう羊耳の頭の中は鉄棍使いなど欠片もない。いや、もう何度も負け続け、正直嫌気が差していたのだ。しかもどこへ行ったか皆目見当もつかない。下手に追っていたら遼東半島なんて僻地にまで行きかねない。そんな厳しい土地に行って落命でもしたらそれこそ目も当てられない。こんな馬鹿げたことがあろうか。
羊耳は早速曹操に手紙をしたためた。『支配地域の制圧ままならず、各地で激しい抵抗に遭い、例の一行の消息、甚だ掴めず。自身も病を得て任務に支障をきたすところ甚大なり。不本意なれど城への帰還をお許し願いたく、しかる後、改めて任に当たりたく候』
孫の顔を見るためなら、曹操にも仮病を使う羊耳であった。
意外にも返信は早かった。さっさと手勢をまとめあげ、任地の安堵に専念せよと言ってきた李典が仏様に見えた。
実は楽進、鉄棍使いが他の誰かに討たれては敵わぬと、羊耳の手紙を握り潰し、厄介払いとばかりに任地に送り返そうとした事情など羊耳はもちろん知らない。
かくて、両者の利害は一致し、羊耳はめでたく帰還できることとなった。
が、それを許さなかったのが侯成だった! なんでも侯成は病を得ており、痛み止めを服用しなければ戦えないため、どうしても一個連隊が必要なのだという。そんな事情知ったことかい、とも思ったが、こんな病人に兵を割く余裕などあるはずもなく、なし崩し的に羊耳の隊が侯成に同行させられる羽目になった。
「病人は家で寝とれッ!」と言いたかったが、血に飢えた侯成にそんな啖呵がきれるほど羊耳は無鉄砲ではない。初孫の顔を見るまで、いらぬ虎の尾など踏むわけにはいかないのである。
それからは地獄だった。鉄棍使いの消息が掴めないと侯成は目に見えて機嫌が悪い。焦っているのかよく分からないが、一刻も早く見つけろと羊耳に凄む。ご丁寧に「見つからなければ代わりにお前を殺す」などと、今の羊耳に最もキツい脅しを付け加えて。
こんなことになったのもあの鉄棍使いのせいだ、とも、ちょっとは思ったが、いつの頃からかその憎しみは侯成に向かうようになり、この男を誰か殺してくれやすまいか、と、ひたすら願うようになり、それはついに遼東半島まで引きずり回されたところで成就したのであった。
娘の腕に抱かれた赤子はまんまるな目で羊耳をじっと見ている。
「おお、おお、なんと可愛い赤子よのお。これが孫か。この儂の孫か」
抱き上げようと羊耳が手を伸ばすと孫が少し怯えた表情を見せたので思わず手が止まる。少し乱暴に扱っただけで壊れてしまいそうな孫に、気安く触れるのがためらわれた。娘も母親の顔で父である羊耳に注意を促す。
「抱いていただくのは結構ですけども、まずはお風呂にお入りになって下さい。そんな泥だらけの体では、怖くてとてもこの子を預けられません」
そうピシャリと言われてしまっては返す言葉もない。すっかり気落ちした羊耳は娘婿に背中を流してもらい、身ぎれいにしたところで改めて孫と対面。高く抱き上げるときゃっきゃと笑う顔が微笑ましい。もう、羊耳には侯成や、鉄棍使いへの恨みなど、綺麗さっぱりなくなっていた。
それからの時間はあっという間だった。腹が空いたのか、ぐずり始めると、母親の乳を飲んですぐに寝てしまった。今は羊耳の腕の中で眠っている。日が山に沈もうとしている。こんな人生の過ごし方があったとは夢にも思わなかった。自分の跡を継がせようと思っていた孫だったが、娘がただの農民にしたいというので、それでも良いような気になってきた。
「おお、そうじゃ。お前にひとつ、儂の武勇伝を聞かせてやろう。きっと子々孫々まで語り継ぐことになろうぞ。儂はつい、この間まで一人の武芸者を追って、はるか遼東半島まで行っておったのだ。それはもう恐るべき達人でな、黒山四霊獣の顔狼牙もかくや、と、言わしめるほどの鉄棍使いであった。ことの始まりは儂の治める丹城で……」
羊耳の自慢話はいつまでも続いた。
作者の厠です。まずは本作を最後まで読んでいただいた読者様に厚く御礼申し上げます。
本作を最後まで読んでいただいたということは、恐らく三国志ファン、もしくは歴史小説がそれなりに好きな方だと推察します。しかもかなり守備範囲の広い。
まず、普通の歴史小説好きな方なら歴史IFものはまず初見で拒否反応を示す方は少なくないと思います。さらに歴史上の人物でもない、架空のキャラクターが主要人物である時点でアウトという人もいるでしょう。それも理解できます。
また、三国志にしても諸葛亮、劉備三兄弟、曹操らが躍動しない作品など許せないという方もいるでしょう。それも分かります。でも、作者は昔から本筋から離れた、歴史の裏面史を描くような作品が好きだったのですね。それが歴史的におかしなものであっても、あればあるほど楽しいといった、歴史好きとしてはミーハーな部類です。
それはさておき、三国志通な方なら当然知っていると思いますが、本作は顔良最強説にインスパイアされて執筆を始めたという安直な経緯があります。にやりとする人も多いことでしょう。
ただこの説、最初こそ「おおっ!」と思ったものの、よく考えると武将の強さの比較法で単純に武力が計れるわけでもないので、可もなく不可もない実力だったのかな、と、冷静に考えてます。でも、この説はいつか使ってやろうと野望を抱いてはいました。
が、早々に退場した顔良を主人公にはちょっと使い辛い、そこでその父親を登場させることにしました。モデルはもちろん、三国志の黄忠です。60過ぎてなお、第一線に立つ武将はやはり魅力的です。他にも、黄蓋、張郃、趙雲などもそうなので、無理のある設定ではないはず。一方、主人公はゲーム、三國志ではそこそこ有能な審配の息子に決定しました。最初は沮授、田豊の息子あたりを想定してたのですが、割とマイナーな審配にしました。が、書き進めるうちにこの人物、そんなに有能とは思えなくなってゆき、散り際の潔さで面目を保っただけ、という疑惑が湧いてきました。 (作中の醜態は作劇の都合です)小説を書いてるうちに人物への印象が変わるなんて思いませんでした。感情移入することはあったとしても。その幻滅は本作にも反映されてます。
また、懸命な読者諸兄の方ならすでに見抜いておられると思いますが、本作には明らかにおかしな部分も散見します。時間を丁寧に検証すれば審判はどう若く見積もっても27〜29才くらいです。へたすると30代です。それでこの青臭さはどうなのか。名士の息子でその齢まで独身というのも不自然な話です。ヒロインの甄梅にしても19〜20代前半を想定してますが、三国時代なら婚期が過ぎたおばさんです。素人が歴史物を頑張って書くとこうなる、といういい見本ですね。
また、顔琉の年齢設定も無理があります。審判の母親と恋仲だったとすれば相当なロリコンです。いや、18、9がおばさん扱いなら正常の範囲内かも。と、言い訳しておきます。話は逸れますが曹操、郭嘉が人妻、年増好きで有名ですが、当時の年増も20代から3、40代なので、現代の感覚からすれば普通なのかなと。そんな世の中だと作者も充分、熟女スキーです。
また本作は従来の三国志の定説を大胆な解釈、と言えば聞こえはいいのですが、都合よく改変してます。
袁尚は確かに残酷な一面を持ってましたが、父親、袁紹没後もしぶとく抵抗し、曹操に北伐を決意させ、実に七年の時をかけてこれを攻め滅ぼしています。曹操はこの袁尚に意外にも手こずったために、天下を一気に支配できなかったと思えなくもありません。
高幹も少ない兵力で李典、楽進コンビをよく防いだとも言われてます。隠れた実力者説もありますが、急に援軍を請うために城を空け、匈奴に捕まったというのもおかしな話です。この謎な部分も作中で生かしきれなかったという悔いはあります。
あと、エピローグは蛇足かなとも思いましたが、作中では羊耳の心変わりが説明つかないので、あのような後日談を加えました。それと甄梅が審判に惹かれた理由もイマイチ分かりませんが、これはもう甄梅がどうしようもないメンクイだったから、と、解釈していただく他ありません。
他におかしな点を挙げれば、張飛燕が顔琉をして「老いてますます盛ん」と評してることでしょうか。これは三国志の名将、黄忠を後世の人が称えた言葉であり、この時代にはないはずです。でも、小説なんだから、ニュアンスとして伝われば良いかなって思ってます。それにこのセリフは三国志好きならやっぱり使いたいので。まあ、羊耳などは平気でポンコツとか言い放ってるんですけどね。これも基本、ギャグ担当キャラですから。なんなら登場人物にカタカナ語とか喋らせたいとさえ思ってるくらいです。いつかやるかもしれません。
他にも、作中の時間軸での移動距離は妥当かとか、建安十一年に日食なんかあったのかとか追求していけばキリがありません。ま、小説ですから。けしからんと言われても、作者はこういうスタンスなのです。歴史的に正しいか否かより、楽しいか否かを重視してしまうのです。
でも、作中で無理のあった部分は今後、外伝的な作品で補足していこうかな、なんて野望も温めたりしてます。
「架空の登場人物を史実の人物並みに強くするな」と、お怒りの向きもあるかと思います。作者も執筆時にかなりの葛藤がありました。正直、本作はずっと胸の内にしまっておこうかと思ってたくらいなのです。読者様にはそこのところを勘案していただき、大目に見ていただきたいな、と、厚かましいことしきりなのです。
もうひとつ、気付いて気付かないフリをされてる方も多いと思われますが、本作のタイトル、「遼かに」となってますが、これは誤りです。一般的な用法では「遥かに」で、タイトルのような表記はまずしません。遼を「はるか」と読むのは名前ならありうる、という程度のものです。この部分は作者も頭を抱えました。一般的に言えば間違い。でも、作者はどうしてもこの字を使いたい。
主人公、審判が目指すゴールの暗示としてミスディレクションになります。またラスボス、張遼文遠ともかかっているのです。クライマックスの舞台となった遼東半島は近代では関東軍が激戦をやらかした場所でもあり、物語の基点でもあります。こんな字がタイトルに入れられないのは実にもったいない。しかし辞書で調べてもそのような用法はないようです。
でも、本作はフリーの小説なんだし、いいか、と、軽いノリで誤用をタイトルにしました。幸いなことにそこを指摘されたことはありませんでした。小説ですから。こちらも歴史的事実と同様、文法よりも楽しさや気持ちよさを重視したいのは誰しも同じなのでしょうか。
この場を借りて、そんなおおらかな読者様に重ねて御礼申し上げます。最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。




