111 父と子
審判は涙を流していた。顔琉は天を仰いだまま、佇んでいた。まさか自分の父と母が、顔琉の一生を巻き込み、白狼山、黒山の変、白馬津の戦い。それら一連の悲劇の原因だったとは。顔琉が今まで黙っていたのは、その二人の子である審判を慮ってのことだったのだ。審判のすぐ傍で、何度も危機から救ってくれた顔琉の気持ちは如何ばかりであったか。
「黒山を追われた顔良が永のツテを頼って審配の食客になったのも偶然ではない。あ奴は儂の親族から永のことを聞かされておったのだろう。自分が将軍として立身を果たせば、儂に認められるとでも思うたのであろうか。今となっては分からんが。しかしあ奴が白馬津で関羽に討たれた後、永に呼ばれたときには天にも昇る気分であった。やはり永は儂のことが忘れられず、審配に嫌気が差したのだと。だが、永が顔良の件を侘びると共に、息子のお前を守ってくれと言われたときにはさすがに堪えた。もう永は儂など眼中にはなく、お前の身を案じるあまり、なりふり構わず儂を頼っただけであったのだ。頼りになれば、他の誰でも良かったのだ。儂は結局、永への未練からこの仕事を引き受けた。額彦命を助けるためだとごまかしてな。その実、永に儂のことが好きだった。後悔している。儂の妻になっておれば良かったと言って欲しかったのだ。袁家と審配の隆盛を耳にする度、妬んでおきながら勝手なものよの。儂はお前を豎子、豎子と散々罵ってきたが、何のことはない。儂こそが豎子よ。だが、お前を見ていると、そう言わずにはおれなかった。お前がもしや、永から儂の下心を聞かされているのではないかと、内心、びくびくしていたものだ。だが、永にそんな様子はなかったようだな。所詮、儂は永にとってその程度の、取るに足らぬ存在だったのだ」
「そんなことはありませんッ」
突如、審判が強い語気で言った。顔琉が振り向く。
「母は常々言っておりました。故郷を救うため、仕方なく父に嫁いだが、片時も忘れられぬ人がいたと。本来ならば、私の父になる人であったと。そのときは分かりませんでしたが、今、分かりました。顔琉殿だったのです。母はこうも言っていました。やはりあのとき、自分の気持ちに正直であれば良かったと」
嘘である。審判は母からそんな話を聞かされたことなどない。だが、嘘でも母は顔琉を慕っていたと思って欲しかった。審判はそうであって欲しかったのだ。
「そうか。嬉しく思うぞ。たとえ方便であってもな。こんな儂でも、誰かに慕って貰えるというのは、嬉しいものだな」
「方便などではありません。私も、粛も、額彦命も甄梅も、烏丸の人達も、青熊の皆も、この城の人達も皆、貴方を慕っているではありませんか。私は信じません。顔琉殿が非道な賊徒だったなどと信じません。貴方は袁尚が身内を手にかけたと聞いたとき、私を川に叩き込んだ。顔良殿の名を出したとき、貴方は怒りを隠さなかった。あれこそが顔琉殿の偽らざる姿でした。そうでなければ、これほど多くの人に慕われる筈がありません」
審判は両手を地面につき、涙ながらに訴えた。だが、言ってることが支離滅裂で、自分でも何を伝えたいのかよく分からない。
「泣く奴があるか。しゃんとせえ。そうか。儂は永と添い遂げることはできなんだが、多くの者に慕われておったのだな。人生とは良くしたものよ。儂はお前に、二度も救われた」
審判には何のことかよく分からなかった。
「曹操を暗殺するため、白狼山に行ったときだ。芝居ではあったが、お前は儂を親父殿と呼んでくれた。儂はあのとき救われたのだ。儂はお前の父になりたかった。だが、なれなかった。しかしあのひととき、儂はお前の父になれたのだよ」
「それは私も同じです。私は審正南よりも、貴方の息子に生まれたかった」
「だが豎子よ、儂はお前を我が息子と呼ぶことがどうしてもできん。それでは顔良の奴があまりに不憫だ。儂は義理でも、あ奴の父を辞める訳にはいかぬのだ」
顔琉は審判の手を取り、引き起こした。
「ほれ、明日は大変だぞ。お前は倭国へ、儂は曹操軍と一戦交えねばならん。名残惜しいが、明日で豎子とは本当にお別れだ。これで良かったのか悪かったのかは分からぬが、儂はいつでも、お前の幸せを願っておるよ」




