9 野営と護衛
あの頃の鄴は、冀州は平和だった。いや、平和と言うには語弊がある。天下の騒乱から距離を置いていたため束の間平穏だったに過ぎない。審判は、そして雷天も、冀州の民も、その平穏が堪らなかった。早く天下の紛争地帯に討って出たかった。一刻も早く乱に乗じて天下盗りレースに加わらなければ落伍するのではと焦燥感に駆られていた。
平和呆け。
当時の中国にそんな言葉はなかったであろうが、あの頃の自分はまさにそれだっただろうと審判は感覚でそう認識した。
冀州牧の韓馥はじめ、配下の沮授や田豊がどれほどの外交努力を積み重ね、冀州一国をやっと安定させていたのか、そんな事実は見向きもせず、軍人として着実に地歩を固めるほどに戦争への憧れは募った。武力でもって冀州が再び天下に覇を唱えるのだという審配ら主戦論者達の勇ましい言葉にほだされ、いっそのこと、自分達若き武官がクーデターを起こしてやろうかなどと思ったものだ。過去の自分の愚かしさを思い返すと、つい、馬の歩みを速めてしまう。
「お、おい、審判。もう少しゆっくり行ってくれ。俺達、歩くのもやっとなんだ」
得物を杖代わりにして歩く粛が皆を代表して言った。審判以外、皆、歩きなのだ。
「ぐずぐずするな。曹操軍に追いつかれたらただじゃ済まないんだぞ」
審判は冷たく言い放った。半ば八つ当たりである。お前らも軍人だろう。戦になれば当然、負けた時の覚悟もできてる筈だ。だったら歩きくらいで泣き言ぬかすな、と。自分のことは棚上げして心の中で毒づいた。だが、それによって粛は兎も角、護衛達にどんな感情が芽生えるか、考える余裕など審判にはない。
すみません、一刻も早く丹城に入らなきゃいけないんで焦ってるんです。普段はあんな奴じゃないんですけど、などというようなことを言って粛が皆を宥めている。
(放っておけよ)
再び審判は心の中で言った。愚かしい自分と五十歩百歩の冀州の軍人など、戦争の虚しさ、悲愴さを思う存分味わえばよいのだ。護衛兵に責任転嫁することで、審判は過去の自分の愚かしさをごまかそうとした。それがどんな事態を引き起こすのか考えもしないで。審判はとても一軍の将足りえる器ではなかった。やはり親の七光りを一身に受けて育ったお坊っちゃまだったのだ。そのような性向が表出するのは、えてしてこういう状況下なのだろう。皮肉である。
やがて日も沈みはじめ、一行は野宿することとなった。歩きの皆はヘトヘトだ。審判が歩みを止めると皆が地べたに転がった。当然、食べ物などない。季節は七月の暑い盛り。ただ休息を得ただけでも彼らには甘露だっただろう。審判の乗った馬もすぐその場に座り込んだ。
野宿するなら火ぐらい欲しい。だが、当然そんな自分達の居所を教えるような真似などできない。追っ手は敵だけではない。褒賞目当ての落ち武者狩りもいないとは限らないのだ。
「明日は一番に出立するぞ。今のうちに英気を養っておけ」
英気など養いようがあるかと審判自身そう思ったが、軍人とはこういう物言いをしてしまうものなのだろう。離れた場所で横になった審判の元に粛がやってきた。
「おい、いくらなんでも昨日からの態度はまずい。ここまでついてきた護衛の気持ちも少し考えてやってくれ」
「ああ、そうするよ」
審判は粛に背を向ける形で寝返りをうち、ぶっきらぼうに応えた。そんな気はさらさらないと言わんばかりだ。
無事、丹城に辿り着いた暁には素直に感謝し、恩賞も与えればよかろう。その間に落伍する者はすればいい。それが敗戦で荒んだ審判の今の心境だった。落人はこうやって、どんどん落ちていくものなのだろう。
やがて夜も更け、まどろんでいた審判は異様な気配を察して夢と現の狭間から抜け出した。