106 間に合った男
見捨てられた侯成は助かる見込みはなさそうだった。一方、顔琉もその場に座り込んだ。
「大丈夫ですか。顔琉殿」
審判達が慌てて顔琉の傍に駆け寄る。
「ああ、と、言いたいところだが不覚を取ったわい。左手は暫く使えそうにないのお。儂も齢をとったものよ」
珍しく弱音を吐く顔琉を見ると審判はいたたまれなかった。
「いえ、侯成には鬼気迫るものがありました。あんな男に勝てるのは、天下広しといえど、そうはいないでしょう」
審判に慰められ、顔琉が苦笑した。すると額彦命が、
「あの男、どうするね。まだ息はあるみたいだけど、助けるか?」
大地に仰向けに倒れた侯成が五人に顔を向けた。
「構うな。敗者に言葉をかけてくれるな。止めを刺す気もないのなら、放っておいてくれ」
「お主は武人たらんとするか。ならば、そうさせて貰おう」
顔琉が立ち上がろうとしたが左手が使えないのか上手くいかない。審判に肩を貸して貰い、やっと立ち上がった。
「やれやれ。ここまで来てこの有様では、もう儂も役に立てそうもないのお」
冗談めかして言う顔琉に粛が応じる。
「心配すんなって。まだ審判と、この粛様がいるじゃねえかよ。喬の城はもう目の前なんだぜ。後は俺達二人でなんとかするさ」
「それもそうじゃな。お言葉に甘えるとするか」
だが顔琉なら右手一本でも自分と粛にも後れはとらないだろうと審判は思った。思いたかった。一行がその場を後にしようとすると侯成が一言、
「感謝する」
とだけ言った。五人が兵士達の元に戻ると、その表情には生気が戻っていた。皆、顔琉の戦いぶりを目の辺りにし、この老人が各地で噂になっている顔狼牙であることを知り、生きる気力が湧いてきたのだ。
審判達、とりわけ顔琉は英雄のように出迎えられ、決意も新たに審判達について行くと宣言した。また、一騎打ちのさ中、顔琉の馬はどこかへ逃げてしまったため、甄梅と共に流に乗ることにした。
「ほほう。こりゃええもんだ。若い娘と馬に乗れるとは。長生きはしてみるもんじゃ」
おどける顔琉に甄梅も照れつつ、
「もう、顔琉さんたら。変なことしたら突き落としますからね」
皆は笑いながら進路を南にとった。審判は侯成に目を遣った。恐ろしい男だった。改めて天下の広さ、曹操の巨大さを思い知らされた。喬に辿り着く前にまた、これほどの強敵に出会わぬことを祈らずにはいられなかった。
一行がその場から立ち去り、どれくらい経ったであろう。侯成の意識はまだあったが、激痛も次第に感じなくなり、死期が近いことを悟った。侯成は満足だった。だが、遠のく意識の中、耳の奥に騎馬が近付く音が響くと、かつて呂布と共に駆けた戦場を思い出した。そこには苦楽を共にした仲間の姿があった。彼らの顔を次々思い出していると、一人の男に抱き起こされるのが分かった。
「お主か。羊耳の報告を聞いてすっ飛んで来たといった所か」
「はい。鉄棍使いの男、拙者はまだ刃を交えておりませぬが、その一味に後れを取り申した。名は顔狼牙。拙者も幼少の頃、その名を幾度か耳にしたことがあり申す。侯成殿。貴方の不覚、必ず拙者が雪ぎ申す」
「ふ、ふ。八健将最年少であったお主が今では曹操軍の急先鋒とは。世は移ろい行くものよなあ。気をつけろ。あの男は呂布将軍、いや、あるいはそれ以上かもしれぬ。俺が左手を使えなくしてはやったがな」
「ご安心を。この張遼、手負いの相手の恐ろしさ、心得ておるつもりです」
「相変わらず糞真面目な奴だ。だが、それこそが、あの男に勝つ力になるのかもしれん」
「侯成殿の武は八健将随一であり、目標でした。拙者、必ずや顔狼を仕留め、貴方を、そして呂布将軍をも越えさせて頂く所存」
「そうか、ならば俺はそれを天上から見ていることにしよう」
すると二人の若武者が張遼の背後に駆け寄った。張遼の腹心、上官越と任来である。
「やはり奴らはこの先にあるという喬を目指しているようです。しかし妙な大所帯ですね。兵を掻き集めているのでしょうか」
訝る任来の横で上官越が、
「それより大将。侯成殿の様子は? 助かりそうなんですかい?」
張遼は首を振った。
「今すぐ顔狼を追いたいところだが、一旦、宿営する。済まぬが、侯成殿を本営に送り届けたい。お前達はここで待っておれ」
「しかし、喬は交易都市とのこと。船で逃げられる公算が高いかと」
張遼軍の参謀を自認する任来の指摘に上官越が苦言を呈す。
「血も涙もねえ野郎だな。侯成殿を放っておける訳ねえだろ。大将、行って下せえ。足の速い部隊で先行すりゃ、すぐ、追いつけますって」
「済まんな。二人共。侯成殿を送り届けたらすぐ戻る。それまで頼むぞ」
張遼は部隊を編成すると侯成を連れ、その場を後にした。




