99 鄴の顛末
建安九年。鄴は陥落し、審配は縛につき、曹操の前に引き立てられたが、その姿は毅然としていた。
「貴様が審配か。貴様の下らぬ献策の数々のために韓馥は冀州を追われ、次に仕えた袁紹は凋落の一途を辿った。しかも冀州はこの有様だ。このことについて何か弁明はあるか」
曹操は審配に詰問した。が、審配は瞑目し、静かに答える。
「袁紹が敗れたるは私の進言の数々を退けたからであり、息子達が愚かな骨肉の争いを起こしたため、袁家は自滅したのです。が、それは私の才覚が及ばなかったことが主な原因であり、それを否定する気はありません。また、韓馥殿は自ら牧を退かれたのであり、それは私の関知するところではありません。そして冀州はおろか、河北一帯が惨状と化したるは兵家の常であり、敗軍を指揮した私の語るところではございません」
すると曹操の後ろに控えていた辛毘が叫んだ。
「詭弁を弄すな。貴様は私欲のために浅知恵をもって冀州を私し、袁家共々破滅に追いやったのであろうが。その君子面の皮の下には小人の卑しさを隠しておるのを儂は知っておるぞ。韓馥殿を唆し袁紹に冀州を売り飛ばした。民衆を唆し冀州を戦争に駆り立てた。袁紹を唆し沮授殿や田豊殿を死に追いやった。袁尚を唆し袁家のお家騒動を煽った。更には無知な兵士共を唆して儂をはじめ、貴様にとって目障りな者を悉く葬った。それだけではない。なんの罪もない親族まで巻き込んだ。貴様がやったのは軍師の謀ではない。ただの殺人教唆だ」
辛毘は怒り心頭に発し、涙を流して訴えた。辛毘の復讐の情念は古の伍子胥もかくや、というものがあった。なにがなんでも審配を処刑にしてやるという執念で曹操に降ったのだ。その辛毘の意中を知ってか知らずか、曹操は冷徹に聞いた。
「辛毘はこう申しているが、事実か」
「事実とは主観をもって語れるものではございませんので、どうぞご随意に」
審配はきわめて冷静であった。
「ならば、儂の配下にならぬか。貴様の酷薄な奸智、儂の元ならば存分に生かせよう」
この言葉に辛毘は堪らず絶叫した。
「おやめ下されッ。曹操殿。このような男、用いれば天下の信をなくしますぞ」
「天下の信をなくそうとも、有用であれば儂は使うつもりだ。どうだ。審配」
だが審配はこれを固辞した。
「有難きお言葉なれど、私には袁家に対する忠誠と責任がござりますれば、その儀はお断りし申す」
曹操は顎に手を当て暫し考えたが、
「よかろう。その覚悟や、良し。衛兵、この男の首を撥ねい」
審配がその場に座らされ、衛兵が剣を振りかぶった。すると、突然審配が叫んだ。
「お、お待ち下さい。私のような人材を、本当にこの程度で殺すおつもりか。必ず後悔致しますぞ」
「何だ。先刻までの悟りきったような顔はどうした」
「いえ、みどもは仕官の誘いを断ったまでで、処刑してくれと頼んだ訳ではございませぬ」
曹操は我が意を得たりと、辛毘に向いて言った。
「辛毘。お前の言うとおりであった。この男は儂が官渡で捕らえた沮授に何度も仕官の誘いを断られ、ついに沮授が自ら死を選んだのを知っておったのだ。また、下邳で陳宮を何度も口説いて断られたのも知っておるのだろう。だから此奴は儂の誘いを袖にして、少しでも自分を高く売りつけたかったのだろう。いかにも小人の考えそうなことよ」
審配が慌てて反論する。
「みどもはそんなこと、知り申さぬ。みどもが今、言った言葉をよく思い出してくだされ。袁家に対する責任があると。なれば死するより、生きて果たさねばならぬ責任の方が重いと考えるのでございます」
「責任ときたか。袁紹も好んでその言葉を使っていたな。真に責任の重さ、辛さを知る者は口が裂けても責任などとは言うまい。否。責任があるなどと、自分に向けて言っておる時点で思い違いをしておる。それだけで貴様がいかに無責任な男か知れようというものだ」
曹操はそう言い捨て、その場を後にした。審配は無様に命乞いした。
「お待ち下され、曹操殿。この城には甄氏という絶世の美女がおります。その女を貴方に差し上げましょう。ですから何卒、命だけはお助け下され」
尚も何か言おうとしたが、無情にも衛兵の剣が振り下ろされ、その首は辛毘をはじめ、鄴の民の無念と怒りを鎮めるのに一役買った。
「……以上が、鄴陥落の顛末だ。信じるか否かは貴様の自由だがな」
説明を終えた郭嘉の前で審判は項垂れるだけだった。顔琉が審判の手を取り体を引き起こす。
「ほれ、さっさと逃げるぞ。夜が明けるのは早い。この男が心変わりせぬうちに山を降りるのじゃ」
二人が連れ立って幕舎を後にしかけると、郭嘉が呼び止めた。
「待て。お前達を見て、詩が浮かんだ。詠んでやるから聞いて行け」
顔琉がその意を計りかねて疑問を呈す。
「こんな時に詩だと? 一体何を企んでおる」
「言ったであろう。三文文士だと。世間の奴らは俺を軍師か参謀のように思っているようだが、詩作に耽り、詠むのが生業だ。それでは食えぬから曹操に仕えておるまでだ。俺は詩とは、発想の対象に詠んで聞かせるのが礼であると考えている」
そう言うと郭嘉は扇を揺らし、有無を言わさず、今しがた浮かんだという詩を詠み始めた。
地は荒れ果てども天は澄み渡らん。
この世から争いが絶えることは久しくない。
空を見上げると地上の喧騒など気にもせず、
隊列を組み、空を行く者達が見えた。
雁よ、あの東の海を越えてゆけ。
お前達が次に戻ってくる頃には、
この大地にも草木が生えているだろう。
そんな内容の詩を郭嘉は詠んだ。審判には詩のことなど分からない。戦の虚しさを詠んだだけの駄作に思えた。だが顔琉は、
「ふうむ。郭嘉は策を詩に乗せるという訳か。いや、詠む詩が策となるのかな。それが曹操に愛される所以か」
「知らんな。俺は心の赴くままに詩を詠むだけだ。そこに何の意味を持たせるかは各々の自由であろう。曹操はいたく気に入っているようだがな」
「感謝する」
顔琉は一言、そう言うと審判を引っ張り幕舎を出た。外では殺した衛兵の死体が発見されたのか、陣中が騒がしくなりつつあった。二人はその場から急いで退散。顔琉に導かれるまま道なき道を走り、麓まで降りると共に、すぐ隣の山中に逃げ込んだ。もう空は白み始めていたが曹操軍が大規模な山狩りを行う様子もなく、二人はひと心地ついた。




