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98 顔琉の叛意

 二人は陣中に忍び込んだ。松明の影に身を隠し、警戒する敵兵の間を縫いつつ目的の幕舎に接近。ここまで大したトラブルもなく来れたのは奇跡である。さすがに幕舎を守る衛兵は厄介だったが、四、五人ほどの息の根を音もなく止め、死体を物陰に隠すと発覚することなく幕舎に入ることができた。審判は成功を確信したが、曹操は眠っているのか、中は暗い。ここで焦ってはならぬと気を引き締め慎重に歩を進める。すると、闇の中から突如声がした。

「誰だ」

 審判はぎょっとしたが努めて冷静を装い、曹操軍の兵士になりすました。

「失礼致します。急ぎお伝えせねばならぬ事態が起きましたゆえ」

「伝令だと……?」

 闇に暫しの沈黙。審判は斬り掛かる機会を窺っていたが、闇の中の男は審判の正体を見抜いた。

「そうか。刺客か。よくここまで辿り着いたものだ。蹋頓、いや、冒頓の差し金か。よかろう。この勝負、貴様らの勝ちだ」

 高圧的な物言いは曹操との確信を抱かせるには充分だ。だが諦めが良すぎる。曹操とはそんな男かと疑念も湧いた。審判は意を決した。

「どちらでもない。袁紹配下、審正南が嫡子、審判。曹操、お前の首を貰いに来た」

 すると闇に、仄かな明かりが灯った。油壺の明かりに照らされたその男の顔を見て審判は愕然とした。

「違う」

 曹操は五十の坂を越えている筈だ。しかし目の前の男は三十半ば。失敗した。一体何者なのか。曹操がいると思しい幕舎で、多くの護衛に守られたこの若い男は。すると審判にある男の名が浮かんだ。

「お前は、曹丕か。曹操の嫡男の」

 だが男は巨大な扇子をば、と開き、名乗った。

「俺は郭嘉奉孝。三文文士だ。曹操を殺しにここまで来たのは見上げたものだが、天は貴様に味方しなかったな」

 審判は膝をついた。曹操軍の中でも最も信頼されているといわれる軍師である。この男を殺そうが殺すまいが、暗殺計画は陣中に知れ渡る。もう、曹操を殺すのは不可能である。かくなる上はと、審判は剣に手を掛けた。郭嘉が扇子をぱちんと畳む。すると顔琉が審判の肩を抑え、止めた。

「お前さん、病の臭いがするのお」

「ほお、俺の病が分かるのか。一体何処の仙人だ。いや、その鉄棍。そうか。貴様が噂の顔狼だな。それが審配の息子とつるんでいたとは、不覚だった。所詮、俺もその程度ということか」

「離して下さい。顔琉殿。せめてこの男の命だけでも取って、曹操に一矢報いるのです」

 だが顔琉は意に介さず郭嘉を見据える。

「のう。ひとつ取引せぬか。儂らは暗殺を諦め山を降りる。お前さんは夜が明けるまで黙ってくれる。悪い話ではないと思うが」

「面妖な爺いだ。そんなことをして双方に何の利がある」

「儂らは暗殺の成否に関わらず死にたくない。お前さんもここで痛い思いをして死なずに済む。どうせお前さん、もう長くはないのじゃろう」

「至極尤もだな。よし。それで手を打とう。些か貴様らに有利な取引ではあるが」

「話が早くて助かる。豎子よ、さっさと逃げるぞ。長居は無用だ」

 だが審判はもう立ち上がる気力も失せていた。一体、なんのために決死の覚悟でここまで来たのか。曹操の暗殺は叶わず、その軍師、郭嘉もまた病で余命いくばくもないという。だからこの男は医療班の近くにいたのだ。これが天の配剤かと思うとやりきれなかった。すると郭嘉が扇子を、ば、と開いた。

「俺を見逃してくれる礼と言ってはなんだが、そこの若いの、審配の息子と言ったな。ならば、奴の死にざまでも聞かせてやろう」

 審判は顔を上げた。父親、審配は鄴の陥落と共に曹操に捕らわれ処刑されたと聞いた。郭嘉がその場にいたとしても不思議はない。しかし何のために。相手は智謀をもって曹操に仕える男。油断はできない。だが、聞きたいという欲求を抑えることができなかった。

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