□決意
バスを降りて徒歩5秒の玄関に飛び込むとそのまま浴室に向かい、着ていた物を洗濯曽にパッパと投げ込む。
洗濯機はジョギング前に分量を入れられていた洗剤を溶かしながら水を張っていく。
背丈は少女の物だが、露になったその四肢はおおよそ「女の子らしさ」といった物は感じられない。
過不足なく均整の取れた筋肉がその全身を包み、アスリートいや武術家としての肉体がそこにある。
ボディービルダーのような見せる為ではなく、ウェイトリフティングのパワー重視でもなく、機敏でかつ柔軟に動作し、かつ必要な打撃を与える為の力も損なわないバランス重視のそれだ。
蛇口のレバーを上げ、カラン側から水を捨てているとやがて湯気が立ち込める。
シャワーに切り替え噴き出す飛沫は、その肌の上で珠となり弾け、床で集まって排水口へと消えていく。
「私は何を暢気していたの!」
まだ戻ってないと聞いて、もっと慌てるべきだった。あの時に着の身着のまま飛び出すべきだった。そうすれば何かしら情報を掴めていたかもしれない。
だが自分の採った行動は「寝る」だった。
朝までファンシーな夢に包まれていた自分に無性に腹が立つ。
まだ戻っていないとか、ご家族が心配しているなんて考えもしなかった。
精々男の子の深夜徘徊なんて珍しくもないと考えた程度。午前になってからの帰宅なんて、門下生では珍しくもない。と。
優子さんはどう思うだろうか。
心配もせず暢気に惰眠を貪っていただなんて知ったら。
行方がわからない結城先輩の事よりも、帰省した優子さんに型をみてもらう事を考えて会いに行ったなんて知られたら。
シャワーを振り上げ投げつけようとした手を止めて、上段のフックに据え治し、勢いを全開にする。
挽回しないと。全力で心配していないと。
給湯器が水勢に出力負けし、辛うじて冷水ではない程度まで温度が下がる。
水温と同期するように頭も冷えてくる。
「あのヒト達も知らないよね」 優子さんが好きとか言っておきながら、舌の根も乾かぬうちに他の女の所にお泊まりするようなら見つけ次第に殺そう。
頭を振り上げ水勢の叱咤を顔に受け、強い圧が闘志を甦らせる。
……違う、そうじゃない。不実をしていると決め付けて罰を考えるなんて。どうかしてるよ、私。
探さなきゃ。自分にできる事をするんだ。
シャワーを止めて乾いたタオルを手に取ると、それで髪を挟み押さえる。軽く水気が抜けてから纏め上げ下着とシャツに袖を通す。
困っているに違いない。自分ではどうにもできない状態だから帰れない連絡も取れないに違いないんだ。
先輩のお父さんは警察に届けに行ったんだから、事故の類いならわかるはず。
近くは門下生仲間が探し回ってくれたんだから、何かあればすぐ連絡が来る。
……うん、学校だ。私のやるべき事は学校だ。結城先輩の友達に何かしら情報が無いかの確認だ。やっぱり優子さんは凄い。
先輩の友達なら私を送り出してくれた時間より後に電話やメールでのやり取りがあったかも知れない。
ドライヤーの温風を冷風に切り替えてから頭に巻いたタオルを外して髪に風を通す。こもった熱が追い出され、髪が指からサラサラと流れる。
胸ポケットに校章の刺繍されたカッターシャツに腕を通し髪を抜きスカートのファスナーを引き上げる。
「よし」
キッチンに向かうと両親が「おはよう」と声をかけてくる。
「おはよ、何か変わったニュースでもある?」
「いや、この間から迷子になったパンダの事ばかりさ」
「まだ見つかって無いの? 逃げたの日本橋でしょ?」
「あんな大きな生き物が見つからないなんておかしいですわねぇ。はい、目玉焼きとトースト」
「ありがとう、いたたきます」
帰宅した時からタイミングを計りちょうど焼き上がった食パンと、白身はしっかりだけど黄身はとろりの目玉焼きが運ばれてくる。
「あんなかわいい見た目でも熊だからな、うっかり出会したら危な……間違ってもお前は戦って倒そうなんて考えるんじゃないぞ?」
「やだなぁ、お父さんってばぁ。真剣持ってても、まだ熊には敵わないよ」
「できれば一生。」
「ん? なあに?」
熊になんて一生敵わないでいてほしい。人並みに健康なくらいで十分だ。
父親はその言葉をぐっとしまいこむ。
「あ、あぁ一所懸命に逃げてくれよ」
娘が小学生の時、教師の一言が呼び起こした思わぬ騒動を思い出したのだ。
その言葉とは「よく頑張ったわね、もうそれ以上何もしなくても充分よ」という何の問題もないはずの褒め言葉。
その日から娘は本当に『何もしなくなった』のだ。勉強も運動も食事や排泄すらも。
入院し点滴で命を繋ぐ状態になって数日した頃に桶場のお嬢さんが病室に乱入し、かなり強引に連れ出してから生きる気力を取り戻したのだ。
最初は何が原因でこうなったのか、なぜ戻ったのかさっぱりだったが、桶場のお嬢さんと娘とのやり取りを見ているうちに気付いた。
娘には何か目標を与え続けなければならないのだと。
クラスで一番を、クラスで一番になったら学年で一番を、校内で一番になったら市で一番を、日本で一番になったら世界で一番を。とにかく努力させ続ける必要がある……と。
熊に勝てないくらいでいいなんて言えばどうなるだろう?
もう既に達成している目標で充分過ぎるなんて言えばどうなるか。父は恐ろしかった。
「でも熊って逃げると追いかけて来るからなぁ。きっとパンダも一緒だよ?」
「出会わないのが一番です。はい、ホットミルク。貴方にはコーヒーね」
そっと差し出されるカップを受けとる。温かくて、けれど熱すぎない。
こくりと飲み込むと暖かさが伝わり胃に収まる。
「もしかしたら……」
「ん? どうした?」
「この辺りに来ているのかも知れない」
「どういう事だ?」
「結城先輩が昨日突然居なくなったの。今朝警察に届け出を出したって」
「結城先輩って、あれか、お前が憧れてるっていう」
「学校の帰り、駅まで一緒だったの。私は塾に行ったけど、先輩は帰ったはずなのに帰ってないって。もしかしたらパンダに……」
父親が両手でカップを持ってコーヒーを口にする。母親は水道を出しっぱなしで固まっている。
「その先輩って前に言ってた人かい?」
黙って頷く。
「そうか、遭ってないといいな。母さん、何か武器になりそうな……」
「そんな、熊に勝てるような物、うちにはありませんよ。そうね……」
持ってきたのはキッチンの隅に置いてあったAMポケットラジオ。
「ほら、いきなり遭遇するから襲われるって言うじゃない? 熊避けの鈴なんてうちにはないし、AMしか聞けない簡単な安物だけど電池は長持ちするわよ?」
「ラジオ鳴らしながら歩くって、マナーとしてどうなのかなぁ?」
「じゃあイヤホンをすれば……」
「「意味がない!」」
女性陣の声が重なり、父親は「そうか」としょげる。
「とにかく、熊だかパンダかに出逢ったらどうするのがイチバンなのか、お父さん調べておいてよ。
人通りが少ない所だけお母さんのラジオ使うよ」
「よし、わかった!」
「調べ物なら電車に乗ってからにしてください。熱中すると会社に遅刻しますよ」
「いや、今日は休む」
「あなた! パンダがこっちに来ているなんて、ただの想像でしょ! そんな事で休んでどうするんですか!」
「わ、わかったよ。もう……、必ずメールするからな? 絶対に無茶をするんじゃないぞ?」
「うん、大丈夫。メール待ってるね」
最後の一口を飲み込むと「お弁当いれておいたわよ」と声がかかる。
ティッシュで手と口と拭ってから制服の上着を着て、まるでどこかの学校指定のようにも見えるコートを羽織る。
指定のように見えるが指定のではない。そもそも今の学校には防寒着の規定がない。在校生では経験がない程度の前には制服すらなく「自由な校風」を謳って制服はなかったが“生徒からの要望”で制服が導入された。
しかし少し前まではPTAからは財布事情的に反発され、帽子・靴や鞄・防寒着などは外されていた。
一式揃いの制服に見えるそれは個人が自主的にそれっぽく揃えているだけ。そして防寒着まで“ぽく”しているのは珍しい。
現在は生徒会により、規定されていなかった部分のデザイン選抜が進められている最中で、本人の預かり知らぬ所で候補に挙げられていたりするのだが。
鞄を手にとり、玄関先でランニングシューズを下駄箱に入れて登校用にしている靴を取り出す。
外装は可愛らしい革靴。だが中身は工事現場の作業員が履くような強固な“安全靴”は床に置くとゴトリと鈍い音を立てる。
そしてしかし、持ち主の少女が足を納めるとまるで重さなど無いかのようなコンコンと軽い音を奏でる。
「それじゃ、行ってきまぁす」
「気をつけて行ってらっしゃい」
「はーい」
玄関を抜け、扉は自然と閉じるに任せる。
すぐ目と鼻の先にある停留所には横断歩道を渡る為、すこしの迂回をしなければいけない。
「あら、おはよう。今日はバス?」
「おはようございます。ちょっと用事がありまして」
いつも犬を抱いて散歩している近所のおばさんが声をかけてくる。いつもと言うのは毎日の意味ではない。常時の方だ。
「ほら、いつものおねえちゃんよ、リリちゃんもおはようって」
抱かれていた犬は眠そうに顔を持ち上げたが、突然ビクリとしてから暴れだし飼い主の腕を振り払って走り去る。
「あ、あらあら、リリちゃん今日はどうしたの? ちょっと待って……。あの、ごめんなさいね」
「いえ、はやくリリちゃん追いかけてあげてください」
「そうね、リリちゃ~ん、待って~」
無駄な時間を取らずに済んだ。今日はいつもより早く駅につけるだろう。
東京の日本橋は「にほんばし」 大阪の日本橋は「にっぽんばし」
漢字で書くと同じなのに読みだけ違うのは厄介ですね(笑)
「ドナウ河近くの動物園ではライオンがヒョウの檻に入り出られなくなっています」
これは漫画「MASTER KEATON」(浦沢直樹/勝鹿北星) 第8巻1話の冒頭であったものです。
なぜこんな所でこの話をするか?
「パンダが迷子になった」というのは「そういう事」だからです。
まあ本家様ほどカッコよく決まって無いですが。
この「パンダ」が登場するのは暫く後……じゃなかった。ちょっとだけもう触れてますね。物語として本筋に関わってくるのは最終章に入ってからです。
犬が逃げ出すくだりは、実体験の誇張です。
さすがに普段気にせず接してくる犬が逃げ出す程のプレッシャーを出す事なんて私にゃできません。
常時犬を抱いて散歩してるおばちゃん? 全く誇張せず普通に実在しますが何か?