□洋菓子と喫茶の店~ブレ・フルーレ~
「お客さん、もう付きますよ。ここからどうなさいますか?」
「ん? あ、すみません寝てました」
タクシーに乗ってすぐ、目薬を注して瞼を閉じて居たのだが、そのまま眠ってしまっていたらしい。どの道、対向車のヘッドライトや指示器の点滅は眼に痛いのでそれでよかったのかもしれない。
「お疲れのようでしたので、ここまでそのままにさせて頂きました。ですが、次の角を曲がるとご指定の駅前円形待機所になります」
「円形……あぁ、ロータリーね。そこでいいや。ロータリーで降ろしてくれる?」
「畏まりました」
運転手さんがメーターに手を伸ばす寸前、4,600の表示が4,680に変わるのだが。
「お会計は4,600円になります。円形待機所の中で停車するまでしばらくお待ちください」
「えっ、おぉ、ありがとうございます」
この運転手さんは客が「ここまで」と言った瞬間までを運賃としてくれたようだ。
ネットなんかでは停車するまでを計測して、中にはわざとワンメータ回るまで止まらない人もいるらしいと聞いたのにありがたい事だと思う。
車は滑るように降り場へと入り、振動を感じさせない滑らかさで停車する。
「じゃあここからお願いします」
ズボンのポケットから皺くちゃになった一万円札を取り出して渡した。
運転手さんが青いシガーソケットランプの下で少し皺をのばしてから運転席横の機械に入れると『日本国銀行券、壱、万、円。入金されました』と機械音声が返ってくる。
「お釣銭は日本円でよろしいですか?」
「いやいや、ドルとかユーロで払われても困るし! ぜひ日本円でお願いします」
「畏まりました」
機械から排出されたお釣りを受け取るとドアが自動で開く。
釣銭を持ったまま車から降りるとふわりと扉が閉まり、静かにタクシーは走り去っていった。
「お、これ全部ピン札だ、それも指が切れそうな程真っ新な奴だ」
ゲンキンなモノで新札だと気付くとそのままポケットに突っ込むのは躊躇われる。鞄から財布を取り出して札を収納する事にした。バリバリとは言わないけどそれと同様の材質な安物。お札を折りたたまないで入れておけるファスナー式の物だ。
「そうそう、そこでヨシノさんに……あ、あれ?」
なんだか見慣れた駅前より心持ち小奇麗な気がする。
横断歩道にヨシノさんが付けたスリップ痕や誰かが歩道の段差につけたタイヤ痕もない。
けれどおおよそいつも通り。時々立ち読みをする駅前のコンビニもいつも通り。少し離れた所に見える交番も目線の位置にスモークが張られているが中で人が動いている様子があり、駅前派出所と書かれた木製の看板が赤い光に照らされている。たぶんおおよそいつも通り。
小田ちゃんと話し込んだ公園……は見知らぬ恋人たちが肩を組んで語り合っている。じろじろ見ないでそっとしておこう。
公園の出入り口の横には自販機があって、すぐ隣には洋菓子と喫茶の店があって――洋菓子と喫茶?!
いやいや、待て待て。ここは居酒屋じゃなかったか?
改めて確認すると上質のバターと小麦と焦げた砂糖の甘ったるい香りが辺りを満している。醤油だれの臭いなんてどこにもない。
「どうかなさいましたか? 当店は間もなく閉店ですので店内でのお召し上がりはご遠慮頂いておりますが、お持ち帰りなら大丈夫ですよ?」
店先に吊るしていたカンテラを降ろしに来た店員さんが声をかけてきた。
「あ、いえ、このお店ってずっとここで?」
「おかげさまで5年のご愛顧を頂いております。もし宜しければご試食どうぞ」
店員さんがいくつものクッキーが入った籠を差し出して来たので、ついつられて一欠けらを摘んで口にする。
「うっ、うまっ! 何これ!? 今まで食った事ない!」
つい二つ目に手を伸ばしそうになるが辛うじて堪えると、店員さんはにっこり微笑んで「こちらもどうぞ」と別の種類を差し出してくれる。
「うわ、こっちも別次元! 今まで食ってたのはなんだったんだ!? これと比べると粉っぽかったり甘すぎたりだ! これ絶妙過ぎる!」
「そんなに喜んでもらえるなんて、新鮮で嬉しいわ。そうだ、これ持って帰ってご家族と分けて味わって」
「えっ、あ、おいくらですか?」
「お代は結構よ、気に入ってもらえたのなら常連になって頂戴な」
「ありがとうございます! きっと常連になります!」
誠一は気付くべきだった。
店員さんが手に持ったカンテラをどこにも置かず、クッキーの籠をどこからともなく取出し、それを持ち替える仕草もせず、持ち帰り用のクッキー缶を差し出してきたことに。
ただ、店員にとっては日常的な動作でありごく自然であった事と、今まで口にした事のない味覚に気を取られていた誠一に、それに気付けというのは酷な話なのかもしれない。
◇
「トーリス・カガーリノ・メンケッシャー……」
「ぷっくっ、か、かっこ、ひっ、いいおときょの子にぇ」
「変わった子だね。どこの子だって?」
駅の廊下、誠一の姿が見えなくなってから男性警官が二人やってくる。
そこに居るのは若い男性警官と年配の男性警官、そして笑いを無理に籠らせて痙攣気味の女性警官とその姿を冷めた目で見ている女性警官とフィパチカの計5人。
「はい、伊丹に住む17歳で名前は……」
「ハッ! 違うのでス! トーリスはこの世界の人じゃ無いのでス!」
「え? トーリス?」
「しゃ、先ほどの、少年の事でぶっ、くっくっくっ……。彼女に名を聞かれて、と、通りすがりのと。くっくっくっ」
「なるほど、それでその彼がこの世界の人ではないというのはどういう事ですか?」
「彼は、トーリスは、私が呼びかけた『声』に応じてくれたどこかの人なのでス。私には彼をРепатриация обязанностьがあるのでス!!」
「えーと、部長?」
「確か、帰国義務……送還義務だったかな? 魔術呪術等取締法 第二十四条の3……」
「そウ! 送還義務!! このデックの……ァ」
その時は怒りと疲れでボーっとしていたが、フィパチカは確かに目にしていた。
トーリス(誠一)がカルタ(カード)の表面を丁寧に拭ってケースに仕舞った事を。
「どうしました?」
「トーリスの世界、判らないなったでス。このカルタの表面に血で書いて呼んだでス。無作為ニ」
「あっちゃぁ……あ、すぐに少年を追いかけます!」
「頼んだ」
「っしゃあ!!」
誠一と話をした若い方の警官が気合いの声と共に駆け出して行ったのを見送り、部長と呼ばれた方の警官が顎をさする。
「しかし参ったねこりゃ、城戸君が見失っていたらすぐに非常線を張ろう。とりあえず少年の保護は必須、同時に総務省界務課に連絡だ」
「つ、捕まりまふかね?」
「保護と言いなさい、保護と。
伊丹と言ってたのだろう? 少なくとも城戸君がここの伊丹の事だと誤認する程自信を持ってな。
という事は地球型で日系国なのはほぼ間違いない。ならば大抵どの世界でも降りて地下鉄に乗った方が早い。
その階段を登っていったという事はまだ難波近辺での用事が済んでいないのだろう。この近くに居るはずだ」
「しかし、約20%の確率で主要幹線建造物の世界間誤差が存在する筈です」
「限られた手で手当たり次第探すしか無いのだ。確率の高い方から賭けてみようではないか。
しかし念の為に伊丹警察にも応援要請しておこう。こちらで見落としても元の世界の自宅周辺に現れるはずだ」
「すぐに手配します」
「頼んだよ、吉永君。ところで比嘉裏君」
「ひゃ、ひゃい」
「君はいつまでニヤついとるのかね?」
「す、すびまひぇん、れも笑いのツボにはいって……」
「たぶん、後から始末書ね。その笑いのツボとやらを論理的かつ客観的な文章に仕上げないと減俸待ったナシよ」
「えっ、ちょ、なんで!!」
察しの良い方はとうに気付かれていたかと思いますが、誠一が女子トイレに飛び込んだ所からが別世界です。
異世界と言い張りたい所ですが「なろうのガイドライン」では現実世界に該当します。
ここは我々の世界で言う所の魔法が一般人でも普通に使える技術として発展した世界の地球にある日本です。
地名は大阪ではなく大坂です。東京ではなく江戸だったりします。
運転手さんが利用していたランプは紫外線を発生させるいわゆるブラックライトです。
ブレ・フルーレは店長が趣味でやっている店なので採算などは考えていませんが売り物の値段設定は高く、誠一が試食したクッキー1枚で千円したりします。
店員さんは「店の雰囲気作り」でカンテラを利用し、竿で上げ下ろしをしていました。
カンテラを念動で店の中に置き、亜空間収納から試食の籠を取り出し、念動で店の陳列棚から贈答用の缶を持ちだしました。
誠一視点なので描写がありませんでしたが、店員さんが喜んでいる所では籠を空中に浮かせたまま、両手を顔の前で合わせていたりもします。
この店員さんは「この世界の普通の日本人」であり、特に凄い人ではありません。
部長さんは巡査部長です。
態度は大きいですが、こち亀の部長ほど貫禄がある人ではありませんしずっと若いです。
こんな世界ですから警察官は全員『嘘感知』の魔法が使えますが、犯罪容疑者でない者に使用する事は推奨されていません。こっそり使うのは禁止されています。誠一は「事件の協力者」なので城戸巡査は使用しませんでした。
比嘉裏巡査と吉永巡査は女性が絡んだ事件担当です。
基本的にこの国の警察は『暇』で管轄違いでも協力的です。
暇な理由はあるのですがそれはいずれ。