8話 白ビーツ
「うーん、やっぱり難しいよなあ」
俺は教会の図書室で医学書と睨めっこをしていた。
俺が考えているのは公衆衛生の改善だ。
実はウイルスの発見されていないアモロス王国でも公衆衛生の概念はある。
あくまでも経験則としてだが、死体や病人、汚物などから病気が発生することは古くから知られているようだ。
死体や病人からは瘴気という悪い空気が発生し、これを病の原因とする学説があるのだ。
不衛生な場所に伝染病が発生しやすいのは事実であり『汚染された地域に行けば病気になる』という『原因と結果』だけをとれば正しい考え方である。
実は都市で豚を飼うのは冬季の食料とするだけでなく、豚が糞便や生ゴミを餌とし衛生を向上させるという側面もあるらしい。
……でも豚が歩き回ったら伝染病を運ぶのではなかろうか……?
俺は首を捻るが、顕微鏡の無い時代にウイルスの説明はし難い。
俺がいくら「清潔にしろ」と説いたところで納得できる説明ができなければ誰も従わないだろう。
……どうやれば皆の衛生観念を向上させることができるのか……
俺は頭を抱えていたが理由が説明できない以上、結論としては『無理矢理させる』ことしかできないだろうという考えに至った。
俺が領主とかになって「俺がこうしたいから言うことをきけ」くらいの強引さで始めるしかあるまい。
結果として病人が減れば皆も納得するはずだ。
ナイチンゲールみたいに統計学から衛生の大切さをアプローチをする方法もあるが、これは俺の能力もデータも不足している。
看護婦であり、統計学者であり、社会運動家であったナイチンゲールは偉人だったのだ……今になってその偉大さが良く分かる。
とても真似のできる事ではない。
……偉くならなくては……出世し、自らの領地を得なくては目標はままならないぞ……
この時、ぼんやりとしていた俺の目標に明確な道筋が生まれつつあった。
父であるルドルフは「強くなれ」と言ったが、武功で領地を得よと言いたかったのかも知れない。
……しかし、武功か……
俺はため息をついて分厚い医学書を閉じた。
すると人の気配が近くにあるのに気がついた……リンネル師とジローである。
……なんだか珍しい組み合わせだな……?
俺は2人の関係性を考え首を傾げた。
「ふふ、外で寒そうにしてましたのでお誘いしたのですよ」
リンネル師が説明すると、ジローは「たはは」と頭を掻いた。
「ごめんな、ジローも文字を覚えてくれれば……」
「若様、そいつは言わねえ約束ですぜ」
ジローは俺の言葉を遮り、鼻を擦った。
そんな約束は知らないが、本人が外で待つというのならば仕方が無い。
大人であるジローに強制するようなことでは無いのだ。
「今日も医学を学ばれていたのですか?」
リンネル師は俺の手元にある書物を見つめながら尋ねた。
「はい、瘴気説を少し……私は清潔な生活が病を退けると考えますが、師はいかがお考えですか?」
俺の質問にリンネル師は「ふむ」と少し考える。
「戒律に従って身を浄め、清潔を保っている僧院に疫病が生まれづらいのは事実です」
リンネル師は「ですが」と続ける。
「それが瘴気のためと決めつけることはできません。食事かも知れませんし、神の御加護かも知れません」
リンネル師の言葉は理論的だ。
確かに都市では疫病が生まれやすいが、原因が不明であるうちに決めつけるのは危険であろう。
善意から始まった間違った方法で被害が拡大することは、世の中にまま有ることだ。
ここでは俺の知識こそが異端なのだ。
「良く分かります、決めつけるなと言うことですね」
俺が頷くと師はニッコリと笑う。穏やかな笑みだ。
「さすがです。つくづく惜しい、あなたが僧になれば……」
「師よ、そいつは言わない約束で」
俺がリンネル師の言葉を遮り、ジローの口真似をすると師は大笑いした。俺も釣られて笑う。
ジローはキョトンとしていた。
………………
少し早めに家に帰ると、ロナが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「バリアン様、白ビーツが来ましたよ」
「本当に?」
俺が以前、白ビーツを「見てみたい」と言ったことをロナは覚えていてくれたのだ。
ジローが「へへ、あっしはこれで」と離れていく。
コイツはいつも変な気を回している……ひょっとしたら母親のリュシエンヌが俺とロナの仲を心配していたのはジローのせいなのではないだろうか?
俺がジローを見て苦笑いすると、ロナは俺の手を引いて台所に向かった。
固くて荒れた手のひらだった。
台所に着くと、ロナの母親とロロがいた。
「バリアン様、この子ったら、失礼なことをしまして」
ロナの母は俺とロナの繋いだ手を見て少し顔をしかめた。
ロナは「あっ」と気がつき慌てて手を離した。可愛らしく、もじもじとしている。
「いや、気にしないで欲しい。嬉しかったくらいだよ」
俺が「はは」と笑いながら冗談を言うと、ロナの耳は真っ赤に染まった。
「もう、お母さんはあっちに行っててよ!」
ロナは母親に八つ当たりして、母親をグイグイと台所から追い出してしまった。
少女の照れ隠しだろう。
ロロも「ひひ」と笑ってニヤニヤとしていたが、ロナから屹と睨まれて顔を逸らした。
真っ赤な顔をしたロナが「これです」と、ドンと台の上に白ビーツを置いた。
「え、これが?」
俺はまじまじとそれを観察した。
それは俺の知る「ダイコン」にそっくりであった。
少し歪な形をしているが、わりと大きい。
子供の手のひら2つぶんくらいはある。
「葉っぱを食べるんだよな?」
「そうですよ」
俺の質問にロナが答える。
その葉は強いて言うなら「ホウレン草」だろうか?
油で炒めたら美味そうだが、この世界では油は貴重品らしく無駄遣いはできない。
「ちょっと食べてみたいな」
「ふふ、そう言うと思って」
俺の呟きを聞いたロナが「これがスープです」と鍋を見せてくれた。
白ビーツだけを塩ゆでしたらしい。
「へえ、どれどれ」
俺が鍋を覗き込むと強烈な臭みがある。
俺は一欠片だけスプーンで掬い、口に含むと強烈な土臭さを感じた。雨の日の畑の臭いだ。
……うぐっ、これは……
俺は鼻から息を出してモゴモゴと咀嚼する。
……む、甘いな……
俺は白ビーツから甘味を感じた。
しかし、とにかく臭いが邪魔して美味とは言いがたい。
「臭いがキツいな、しかし甘い」
俺が呟くと、ロロが「僕もあんまり好きじゃないんだ」と笑った。
……うーん、甘いダイコンか……どこかで聞いたことある気がするが……辛味ダイコンは知ってるが……甘い、甘味ダイコン?
俺は「うーん」と唸る。
次は煮汁だけを口に含んだ。
「やはり甘い、けど臭いが独特だな……」
「そうですね、やはり葉っぱを食べる方が無難です」
よほど俺が変な顔をしていたのか、ロナが笑っていた。
「ちょっと先っぽを噛じらせてくれ」
俺は白ビーツの根を先の方だけ折り、噛んだ。
「あっ、生はだめだよ」
「お腹が痛くなりますよ」
ロナとロロが心配気な顔をする。
アモロス地方には生野菜を食べる習慣は無い。
これは鮮度の問題であろうか?
俺は白ビーツをジャリジャリと咀嚼すると、やはり臭いがキツい。
「ありがとう、勉強になったよ」
俺が礼を述べると2人は「お安い御用だ」と笑っていた。
………………
夕食時
家族で食事をしていると、ルドルフが声を掛けてきた。
「バリアン、厨房で何かしていたようだな」
どうやら見られていたか、誰かが告げ口をしたのだろう。
別に悪いことをした訳ではないので狼狽える必要は無い。
「はい、白ビーツの根を見せてもらいました」
ちなみに今日のスープには白ビーツの葉っぱが入っている。
ロナやロロは「葉っぱが旨い」と言っていたが固くてジャリ感がある。
「ほう、何故だ? 腹が減ったのか? 旨いものでは無かろうに」
ルドルフは俺の奇行に興味を持ったようだ。
リュシエンヌは「つまみ食いなんて」と小言を言っている。
「可食部が大きいと聞いたので興味がありまして……新しい兵糧でも思い付けば良かったんですが」
「兵糧? バリアンが?」
俺の言葉に反応したのは兄のロベールだ。
「ええ、保存食は興味があります」
兵糧の研究とは咎められた時の方便だが、保存食が充実すれば冬季の食料事情も改善するかもしれない。
「ほう、何か思い付いたか?」
「はい、キャベツの千切りを塩漬けにすれば長持ちすると書物にありました」
これは嘘だ。そんな書物は読んでいない。
ビタミン補給の為のザワークラウトを普及させるには軍需品にすれば良いのではと思い付いたのだ。
日本でも軍需品を退役後の軍人が持ち帰り普及した例は多い。
「む……悪くないが漬け物を運ぶには割れやすい壺を運ばねばならぬし、塩は高価だ……難しいな」
なるほど、コスト面で難しいようだ。
しかし、ルドルフは真剣に俺の提案を検討してくれた。
それが嬉しい。
「バリアンの書物狂いは食いしん坊だからか!」
ロベールが大袈裟に驚くと皆が笑った。
俺の書庫通いは一種の奇行と見られているようだ。
俺も「ばれましたか」とおどけて見せる。
良い家族だ。
ルドルフもリュシエンヌも俺の奇行を個性と認めてくれつつあるし、ロベールは兄として頼れる存在だ。
「父上、僕は弟が欲しい。兄上のようになりたいから」
俺が無邪気なふりをしてルドルフをからかうと「ブハッ」と噎せたルドルフがスープを吐き出した。
「あらあら、どうしましょうか」
満更でも無さそうにリュシエンヌが喜んでいた。
実は、後に白ビーツがアモロス王国にある種の革命をもたらすのだが、これはまだ先の話である。