おまけ バリアン1世(リオンクール王)
後世評です。間違い探しみたいなものですね。
バリアン1世(リオンクール王)
バリアン1世(聖天歴917~951年)はリオンクール王国初代王(在位948~951年)である。
大アモロス王国の内乱に乗じて独立し、リオンクール王国を建国した。
軍人、政治家、文筆家、詩人、錬金術師、発明家、医学者。
通称は偉躯王、無爵王、悍馬王、串刺し王など。
《出自》
アモロス王国の貴族。
5代目リオンクール伯爵であるルドルフ・ド・リオンクールの次男とも三男とも伝わる。
母は賢母と名高いリュシエンヌ・ド・ドレーヌ。
《生涯》
『幼少期』
バリアン1世の幼少期については不明な点が多いが、大叔父に当たるリンネル・ド・ドレーヌ(後の東方聖天教会総主教)に神学を、『騎士の父』アルベール・ド・グロートに軍学を学んだとされる。
『軍人としての活躍』
弱冠14才にて初陣し、父ルドルフの留守を守り軍を率いた。
また、ベルジェ討伐でも頭角を現し、名高い騎士マルセル・ド・ギャレオを一騎討ちで討ち取り名を轟かせたとされる。
この戦いにおいて兄のロベールが戦死したことに怒り狂い『ベルジェの悲劇』と言われる虐殺を行った。
『王都でのトラブル』
アモロス王都にてジャマル善良王に才気を愛され寵臣として遇されるも、廷臣と決闘騒ぎを起こし出奔する。
後に決闘の遺恨によりヴァーブル侯爵(後のヴァーブル王)と戦争になるも和解。
『毒婦騒動、家督継承』
父ルドルフと兄の寡婦フロリーアが結託し、バリアン1世を廃し甥のトリスタンを擁立しようとしたためにこれと争い、ルドルフとフロリーア母子を追放する。
この家督争いはフロリーアによるバリアン1世の毒殺未遂事件により始まり『毒婦騒動』と呼ばれた。
『エルワーニェ討伐、リオンクール通商同盟』
内乱に悩まされていたエルワーニェの王ニアール・ド・パーソロンによる救援要請を受け、エルワーニェ支配地域に出兵。リオンクール北部山地を征服した。
バリアン1世はエルワーニェ地域の平定に伴い花嫁街道と呼ばれる新道を拓きアモロス北東部へ進出。
北東部ではベニュロ家、ドレーヌ家と協力し『リオンクール通商同盟』を形成した。
この同盟成立には東方聖天教会とリンネル・ド・ドレーヌの強い影響があったとされる。
『リオンクール独立』
ジャマル善良王の死後、アモロス王国はアンリ2世(無策王)とマティアス1世(大胆王)が王位を巡り内乱状態となる。
この混乱に乗じてバリアン1世はバシュラール地方を征服。
後にアモロス国王になったマティアス大胆王より派遣されたボードワン・ド・バシュラール率いる討伐軍を撃破。
この動きに乗じ、ヴァーブル王国、フーリエ王国、カステラ公国が次々に独立し大アモロス時代は終わりを告げた。
『肱川水路整備』
リオンクール王国建国後、バリアン1世は家督騒動が起きていたダルモン伯爵領に介入し、これを平定。
これにより肱川流域を支配下に置いたバリアン1世は肱川を整備した。
この工事により経済的にリオンクールとダルモンが直結し、鉄道の登場までリオンクールの交通・輸送の柱となった。
『カナール平原の戦い』
リオンクール王国とアモロス王国の境界を巡り紛争が勃発し、両者はカナール平原にて激突した。
バリアン1世は勇戦し、自らの手でアモロスの王孫ジェラールを討ち取ったとされる。
しかし、この戦いに勝利したもののバリアン1世は戦傷がもとで陣没した。
享年は34才、若き王の死はリオンクール王国に混乱を招き、後の内乱へと繋がる。
《人物像》
『容姿』
バリアン1世は大変な美男であり、およそ人の持ちうる中で完璧な肉体を備えていたとされる。
その美貌や体躯に関する逸話は多い。
・戦場では、その美貌を隠すために常に悪魔の仮面を着けていた。
・ベルジェ討伐では、敵方の貴婦人が一目で恋に落ち、バリアン1世を慕い駆け落ちをした(シモン1世の母とされる)。
・重臣であるコカース騎士家出身の妻スミナはバリアン1世の美貌に惚れ込んだ『押し掛け女房』だった。
・王都では王妃に美貌と詩才を愛され、手ずから酒杯を受け取った(恐らく愛人関係の隠喩であろう)。
・戦傷により片目を失った折りには母リュシエンヌはバリアン1世の顔の傷を見るや嘆きのあまり気を失った。
・幼少の頃よりずば抜けた長身偉躯であり、10才にしてレスリングの大会で優勝した。
・巨大な鉄王笏はバリアン1世の体格に合わせた戦棍であり、軽々と振り回していた。
・その勇姿を見たダルモン伯爵は「とても敵う相手ではない」と察し、交戦を諦めた。
・その体格から『偉躯王』と呼ばれる。
『性格』
バリアン1世の人格は非常に複雑で難解である。
リオンクール王国の資料とそれ以外の資料では正反対の内容が記されており、味方には慈悲深く、敵には残酷な性格だったようだ。
また、幼少期に病を得て記憶を無くし人変わりしたとの逸話があるが真相は不明。
・非常に狡猾で、残忍な刑罰を好み、多くの女性と関係を持った。
・騎士道を軽んじ、戦争では姑息、卑怯な手段も躊躇わなかった。
・味方であれば奴隷出身の兵士であっても手ずから治療した。
・清貧を好み、職人に混ざり汗を流すこともあった。
・兵士と同じものを食べ、常に陣頭で戦った。
・たとえ奴隷出身者であろうと能力があれば登用し、身分で人を隔てなかった。
・大変な合理主義者で無意味な慣習を嫌い、革新的な技術を多く取り入れた。
・潔癖症で爪や髪を常に石鹸で洗い、周囲にも強制した。
・信心深く、東方聖天教会に深く帰依した。
・奇抜な服装を好み、悪魔を模した軍装で知られていた。真っ赤な眼帯を用いたとも伝わる。
・奇矯な振る舞いが多く、全裸で群臣の前に現れて衆目を驚かせた。
《業績》
バリアン1世は『万能の天才』と言われる程に多方面に優れた業績を残した。
『軍事』
非常な戦上手であり、大きな戦いで負けたことは1度たりとも無いと伝わる。
バリアン1世はアルベール・ド・グロートに幼少期より厳しく訓練され、軍事方面の才能を開花させた。
その武勇は絶倫であり、常に陣頭で兵を鼓舞し、負け知らずの戦術家として活躍。
奇襲戦も非常に得意であり、ベルジェ討伐では全軍を伏兵として5倍の敵を打ち破った。
また、バリアン1世は当時としては異例の経済感覚を有しており『敵の経済』に打撃を与えるなどの戦略を用いたことは著書である『老騎士の教え』に詳しい。
『農業』
バリアン1世は優れた民政家であり、有用と思えば慣習を無視してでも新しい技術を採用したと伝わる。
三圃式農業の普及と新たな農具の開発は『リオンクール政治問答』に詳しく記されている。
『経済』
バリアン1世は道を繋げ、新たな土地との交易を行うことの利を十分に理解していた。
花嫁街道の開通による北東部との通商同盟締結や、肱川水路の整備により、リオンクールの経済は発展した。
また、実現はしなかったが、東方山脈にも交易路を通す計画があったとされる。
バリアン1世がガエタン・タンカレーと共に建設した交易都市ベイスンは大いに発展し、リオンクール経済を支えた。
『詩作』
バリアン1世は文化人の側面もあり、多くの詩作を行った。
特に『ロナに捧げる詩』は名作とされ、広く民衆に広まったとされる。
『著作』
文筆家としての活動としては『老騎士の教え』『賢母の言葉』『リオンクール政治問答』の3作品が後世に伝わっている。
特に『老騎士の教え』はリオンクール初の軍学書として有名。
リンネル・ド・ドレーヌの著作『リンネル説話集』の古い記録にて共著としてバリアン・ド・リオンクールの名が散見される。
しかし、説話集の成立時期にはバリアン1世はまだ10才前後であり、同名の親族であるとする説が根強い。
これを根拠としてバリアン1世の事跡は『同名のバリアン・ド・リオンクールの功績が合わさった複数人によるもの』とする異説も存在する。
『リオンクール文字体』
リオンクール独自のカリグラムとして『リオンクール文字体』があるが、起源はバリアン1世だとする説がある。
バリアン1世は非常に能筆家で筆マメであったため、その書体が模倣され普及したと言われているが、真相は不明。
『リオンクール式レスリング』
独特の投げ技や関節技が発展したリオンクール式レスリングはバリアン1世の技術を伝えていると言われている。
バリアン1世はレスリングの名手であり無敵のチャンピオンだった。
『錬金術』
バリアン1世は優れた錬金術師であった。
白ビーツから砂糖を精製する技術や、施釉陶を発明した。
これらの発明はリオンクールの地に伝わり、後の世に地域の基幹産業に発展した。
『医学』
バリアン1世は医学者としても優れた見識を持ち、経験則から当時流行していた冬場の疾病が栄養失調(当時にビタミンの概念は無い)が原因であると突き止めた。
そしてキャベツやカブを塩漬けにして保存する方法を考案し、ビタミン不足による病を劇的に改善したと言われている。
瘴気説を支持し、町を清潔に保つように厳命し、領内に石鹸による手洗いを奨励した。
これらの違反者に対しては厳罰を処したと言われ、市民からは大いに恐れられた。バリアン1世自身が潔癖症であったとも伝わる。
しかし、リオンクール領内は当時としては素晴らしく清潔な状態で保たれ、その治世中に疫病が起こることは無かった。
外科治療を得意としており、兵士たちを自ら治療したと伝わる。
《評価》
バリアン1世はリオンクール初の王であり、最も偉大な王の1人とされる。
リオンクール地方での人気は高く、彼の後に『バリアン』と名乗る王は多い(バリアン13世まで)。
その在位は僅かに3年ほどであったが、その治世によりリオンクール地方の生活水準は劇的に向上した。
花嫁街道や肱川水路を整備したことはリオンクールの物流を大きく変え、これらを『バリアン1世の最も偉大な功績』とする評価も根強い。
東方山脈の街道整備が実現していれば歴史は大きく変化しただろうと言われている。
武勇に優れ勇敢であったことは疑い無いが、そうした気質がカナール平原の戦いでの負傷に繋がり、死を迎えた。
優れた王の早すぎる死は次代の混乱を招いたとされる。
バリアン1世の統治がリオンクール王国の礎を築き、シモン1世の征服行を支えたのは疑いない。
反面でリオンクール領外では悪鬼の如くに恐れられ、特にベルジェ領内においてはバリアン1世の人形を火にくべる習慣が今もなお残る。
実兄ロベールを暗殺したとも伝わり、父であるルドルフを追放するなど『親族に対して極めて無慈悲』との悪評が残る。
《妻・愛人関係》
スミナ・ド・コカース
コカース騎士家女。
ロベール1世、エマ1世(豪毅王)の母。その他にも娘がいた。
バリアン1世の美貌に惚れ込み、押し掛けるように妻になったと言う逸話がある。
カスタ家女
本名不明、シモン1世(征服王)、バリアンの三男レイモンの母とされる。
ベルジェ伯爵の支流出身であったが、バリアン1世と恋に落ち出奔したと伝わる。
バリアン1世が最も愛したとも言われるが、信頼できる資料が少なく詳細は不明。
名をアルベルティーヌとするのは後世の創作。
キアラ・ド・パーソロン
エルワーニェ王ニアールの娘。
バリアン1世との間に娘を儲けたが、後にシモン1世に略奪され愛人となる。
絶世の美女であったと伝わる。
クロティルド・ド・ベルタン
アモロス国王ジャマル善良王の妻。
バリアン1世と愛人関係であったとされる。
ロナ
詳細不明。幼少期のバリアン1世と恋仲であったとされる。
後に弟のロロと共にバリアン1世の墓を守り続けた。
『ロナに捧げる詩』のモデルとして知られる。
ネリー・アビリ
バリアンの愛人で男の双子を産んだとされる。
子孫はバシュラール地方に残る。
騎士ポンセロの妻
本名不明、バリアンの愛人であったが、後に騎士ポンセロの妻となる。
バリアン1世の子を産んだとされる。
《バリアン1世を描いた作品》
アラン・ビノシュ『英雄伝』民明書籍、他
『リオンクールとエルワーニェ』太公望書倫
お付き合いいただき、ありがとうございました。





