エピローグ 偉躯王の墓
バリアンの死後、すぐさまリオンクールとアモロスで休戦協定が結ばれた。
条件は何もない「現状のまま」だ。
双方ともに軍を退いて戦争は終結した。
何の事はない、互いに継戦できない被害と事情を抱えていたからだ。
リオンクール軍は多数の死傷者を抱えた上に王が陣没し、アモロス王国軍は軍を動かしたことにより南方のヴァーブル・フーリエ連合軍に侵攻されていた。
特にアモロス王国軍はカナール平原の戦いで王太子シャルルの息子……すなわち王の嫡孫ジェラールをバリアンに討ち取られており、士気が維持できず最終的にはヴァーブル・フーリエ連合にかなり譲歩した和平条約を締結することとなる。
この『カナール平原の戦い』はアモロス地方におけるターニングポイントとなった。
結果としてはリオンクールとアモロスの痛み分け……日の出の勢いのリオンクール王国は王が陣没し勢力を弱め、アモロス王国はヴァーブル・フーリエ連合の介入を許し覇権国家としての地位から転落した。
その後、バリアンの遺体はバルカ城で防腐処理を受け、リオンクールに帰還し葬儀が営まれた。
遺言により遺体は要塞都市ポルトゥの城外に葬られ、それを知ったリオンクールの民は「王は死してなおリオンクールを守っているのだ」と涙を流した。
リオンクール人にとってバリアンはある種の信仰の対象となり『リオンクールの信仰を守り、エルワーニェに光を届けた』として、死後28年後に東方聖天教会により列福され、福者(徳を認められた信者の鑑。奇跡などを起こした聖人とは別)として敬われることとなる。
葬儀の後、バリアンの嫡子ロベールはリオンクール王国の2代王ロベール1世として即位するが、その治世は波乱含みであった。
ロベールの即位直後、バリアンの父であるリオンクール伯ルドルフが王位の継承権を主張しリオンクールに舞い戻ったのだ。
しかも、フーリエ・ヴァーブル両侯爵の支援を受け、軍を率いての堂々たる帰還である。
当然、このような主張が認められる筈はなく、新王に即位したロベールはジャン・ド・グロートとジョゼ・ド・ベニュロの補佐を受け討伐軍を興し、ルドルフの軍を撃破。
ルドルフは再びフーリエ侯爵領に戻り、歴史の表舞台から姿を消した。
しかし、このゴタゴタに乗じてロベールの庶兄シモンがゲ男爵やダルモン伯爵の支援を受けて挙兵。
宙に浮いていたバルカシシク領とクルージェ領を横領し、自らの新派に分配したのだ。
これにより、シモンの勢力は瞬く間に急拡大を見せた。
ロベールの軍は「新王ロベールの箔を付けるため」としてシモンを起用しなかったが、それが裏目にでた形となったのだ。
シモンからすれば、無視をされた上に新王の軍勢が側を通過するのだ。思う所もあっただろう。
ロベール軍の実質的な大将であるジャンはシモンへの攻撃を主張し、両者は交戦状態に突入した。
本格的な内乱の始まりである。
開戦当初はジャンの用兵がシモンを圧倒し、ロベール軍はシモンに対し常に優勢に戦いを進めた。
しかし、リオンクール王国にとって悪いことは続く。
領都にて政務を担っていたロドリグ・ド・リオンクールが病没し、ロベールが帰国せざるを得ない状況となったのだ。
ロベールは軍を退き、これによりシモンはバルカシシク・クルージェ領を実効支配する事となる。
このことは周囲に『シモンがロベールを退けた』と強い印象を与え、戦局の天秤は一気にシモンに傾いた。
バシュラール領はジョゼ・ド・ベニュロの城を残し、全てがシモンに帰順。
これにより、バシュラール、ボザ、バルカシシク、クルージェを掌握し、ゲ男爵領とダルモン伯爵領を配下に置く一大勢力が生まれることとなった。
勢いを得たシモンの勢力ではあるがジャンの守る要塞都市ポルトゥの攻略には至らず、戦局はここで停滞した。
特にこの時期には両軍の将帥たるシモンとジャンの実力は伯仲し、勝ったり負けたりを繰り返しながら散発的に戦い続け、1年半ほどが経過する。
膠着状態を打破したのは思わぬ事件であった……リオンクール領内に裏切り者が出たのだ。
ドミニク・ド・ドーミエである。
ドーミエは完成したばかりの肱川水路を利用し、シモンの軍勢をリオンクールに引き入れた。
要害たるポルトゥやコカース城を回避し、シモンの軍は直接領都に迫る。
折悪しく領都は拡大工事中であり、無防備であった。
突如として領内に現れた敵に対し、ロベールは伯父アンドレ・ド・コカースと共に迎撃に出るも敗死。
アンドレも戦死を遂げた。
ポルトゥを守備していたジャンも孤立無援となり降参。
ジャン・ド・グロートは以後、シモンの軍事顧問のような立場として各地を転戦することとなる。
かくして、バリアンが開いたリオンクール朝は僅か5年ほどで終わりを迎え、シモン・ド・カスタはリオンクール王国の3代王シモン1世となり、カスタ朝リオンクール王国が成立した。
当初、リオンクールの民はシモンの姿を見、バリアンの再来だと喜びこの簒奪を受け入れた。
しかし、シモンは故郷の統治と言うものに全く興味を示さず、父の妻の1人であったキアラ・ド・パーソロンを我が物としたのみでリオンクールを去る。
シモンはリオンクールには執着せずに、居城をバルカ城へ移したのだ。
始めこそ喜んだ民衆だが、シモンがリオンクールを去ることで一気に失望し、リオンクール内でのシモンの評価は地に落ちた。
弟を殺し、義理とは言えど母を犯し、故郷を捨てたシモンに対して民は『バリアンとは似ても似つかぬ愚王だ』と噂した。
東方聖天教会の記録ではシモンは『悪魔王』と記されている。
………………
王となったシモンは政治と言うものに全く興味を示さず、父の鍛えた軍を率いて外征を繰り返した。
その軍事行動は何かのビジョンに基づいて起こしたものではなく『征服のための征服』であった。
彼には『征服欲』以外の我欲は乏しく、攻め取った地は惜し気もなく家臣に与え、次から次へと攻め続ける。
シモンにとって、新しく得た領土は兵の供給地以外の何物でも無かった。
遂にシモンは四方を攻め、その悉くに勝利し、アモロスの全てを支配した。
征服地の統治などせず征服のみの行動であり、それが奇跡のようなスピードでの侵略に繋がったのだ。
その勢いは止まる所を知らず、即位より僅か13年でアモロスを征服し、アモロスの枠を超え、さらに南へと進み続けた。
征服行の途上、遥か遠くの外国を攻める意義を見出だせない部下たちの離反に悩まされながらもシモンは戦い続けた。
彼を動かしていた衝動は『見えるもの全てを征服する』と言う子供じみた欲望である。
不幸なことに類い稀な肉体と、ジャンに鍛えられ続けた軍事的なセンス、そして父王バリアンの鍛え上げたリオンクール兵は子供じみた征服行を可能にした。
シモンは勝利を重ね、部下に裏切られ続ける。
20年も続く軍事行動に不満を溜め続けた諸公はシモンの実弟レイモンを担ぎ上げて反乱を起こしたが、これはすぐに引き返したジャンに鎮圧された。
その後、レイモンは拘束され、不審の死を迎える。
兎に角、シモンは強かった。
遂にアモロスに倍する地域を征服したシモンは、42才で暗殺された。
犯人は親友であり腹心だったジルベール・ド・クーとされる。
シモンは『征服王』と呼ばれ、後の世に大きな影響を与えこそしたが、同時代の評価は『暴君』であった。
シモンの死後、その王国は瓦解し、不満を溜めていた家臣たちは一斉に叛旗を翻した。
しかし、征服のたびに分配していた家臣の封土はモザイクのように入り乱れ、各地は収拾のつかない混乱に陥り、アモロス地方は小国が乱立した。
これ以後、アモロスの地が統一されることは二度と無かったのである。
………………
その後、リオンクール王国はリオンクール盆地とその周辺地域のみを版図とする地方政権として長く存続する。
シモンは実子がおらず、弟のレイモンも死していたため、妹のエマ・ド・リオンクールが王位を継承した。
エマは共同統治者である夫アルベール・ド・ベニュロと共に無難にリオンクール地方を治め、他の地域は王国から切り離した。
この大胆な行動により、混乱の極みにあったリオンクール王国は安定する。
そして、エマの子がベニュロ朝を開くこととなったのだ。
リオンクール王国は以後ベニュロ朝が8代ほど続き、領地を減らし続けながらも次の次の王朝で王政が廃止されるまで存続した。
最後の王はバリアンから数えて44人目の王であった。
………………
バリアンの墓はポルトゥの門外にあったが、後の世に城域の拡がりと共にポルトゥ市内に取り込まれた。
心あるものは皆、バリアンの墓前では馬を下り、敬意を示したと言われる。
エマの息子、バリアン2世の時代まで、この墓はとある姉弟が守り続けた。
この姉弟、元は奴隷であったとのことだ。