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Cの人格  作者: James N
9/11

凄く時間かかりました。

今まで過去と現在をチャプターごとに交互に展開していましたが、諸事情によりその形式を壊します。

なので今回は15年後の話です。

 使い古されたトイレとベッドだけがある拘置所の部屋で、神井零は仰向けで薄汚れたシーツに寝転んでいた。

 瞼は閉じられている。しかし呼吸は起きているときのそれだった。就寝時間にはまだ早いために天井一面が中途半端に発光している。おかげで眠りについて何もかもを後回しにすることもできない。

 電波が遮断されているわけではないが、端末の使用可能範囲に制限がかけられているため、通話はおろか文字データの送信も許可をもらう必要がある。送られてくるメッセージデータは検閲される。VRに接続はできるが、どの部屋のアクセスコードも受理されないようになっているためにホーム画面から一歩も動けない。

 こんな状況では、考えないようにしても思考は渦を巻いて深く深くに潜っていく。同じことを何度も。

零は昔からそういう人間であった。

ふ、と空虚な吐息が漏れた。

 ――そういう人間だって?

自分が何者であるか。

 一言で言い切れるほど人間は単純ではない。

 性別、年齢、体型、性格、社会的立場。

人間は自己と他者を相対的に認識し、その鏡の反射の中でようやく自分という人間の枠を捉えることができる。

幻のような存在。

 来る日も来る日も無意識にお互いを比較し合って、少しずつ変化する鏡の写り方に振り回され、引き摺られ、分析データを蓄積して適応していく。その積み重ねが小さすぎるから、今日も昨日と変わらない自分だと思い込む。

 幻想だ。

 一秒前の自分にも現実感を持てない癖に、なぜ変わっていないなんて自信が持てるのだろう。なぜ、自分なんてものを信用していたのだろう。一秒前の自分は既に過去の自分であって、この瞬間の自分ではない。

人間はただ、意識が連なっていると錯覚することによって生きている。それだけのことなのだ。

 意識が脆弱なものであると、知識としては理解していた。しかし、本能で理解していなかったからこうして改めて考えさせられている。

 記憶精神科医である自分が、まさか。

 ――馬鹿げているな。

あっけなく散らされた自我への信頼は、どこに落としてきたかもわからない記憶の中にある。

険しい顔の捜査官が訪ねてきて令状タブを目の前でポップアップされた数秒後には、自分の身に起こった可能性のある出来事の一つとして、記憶喪失を思い浮かべていた。

驚きがないと言えば噓になる。しかしパトカーで警視庁捜査本部の処置室に移送される間に、受けた衝撃によってぽかりと空いた胸の穴が、湧いてくるはずの色々な感情をブラックホールのように吸い込んですり潰してしまった。

記憶取調の結果は予想をはるかに上回る結果であった。十五年前から欠落のある記憶。ボロボロに崩された砂の城のような記憶で形作られているのが、今ものを考えている自分なのだと知ったとき、残ったのは完全なる虚無感と絶望だけだった。

 何も抵抗する気が起きない。記憶を奪った人間に腹を立てることもない。

 誰かの陰謀に巻き込まれたよりも、自分で記憶を消すように指示した可能性のほうがずっと高い。

 どうしろと言うのだ。

 自分の知らないところで――本当は知っていたのだろうが――勝手に判断されて脳を弄られていたなどと。

 弄られていたのでもない、弄ったのだ。

 過去の自分は、今の自分と同じではない。

――断じて違う、と零は急激に湧いた怒りで拳の内側にシーツを握りこんだ。

瞬く間に胸の穴に搔き消えていった怒りは行き場をなくして宇宙に漂うのだろうか。

 過去の自分は、記憶を奪った人間。

今の自分は、奪われた人間。

あるいは、記憶が完全な人間と不完全な人間。

 鏡の映し出す虚像の見てくれがいくら似通っていようとも、零自身がその二人を別人として認識していた。

 人格とは記憶によって構成される。エピソード記憶、つまり思い出が一つ消えただけでも同一人物とは言えなくなる。あらゆる記憶が無意識下で行動の判断材料とされているからである。

 笑えるのは、十五年も前から現在までの記憶を細切れにされたような状態にも関わらず、零のことを別人だと疑問に思う人が周囲にいなかったことだ。

 そう考えると、一体いつから現在の自分の人格が成立していたのかという問題も浮上してきて、顎が震えた。

 湧いてきた恐怖は止めどなく、胸の穴も簡単には消し去ってくれなかった。

――本当の私って、なんなんですか。

唐突に、一昨日診察した患者の言葉が思い出され歯を食いしばりながら目を開けた。

零はあの患者に、どちらも自分であると考えるべきだと始めに言った。なんと無責任な言葉だったのだろうか。

今の自分と記憶が消える前の自分を同じ人物だなどと、考えられるわけがないのだ。そう思うように努力しても実感が湧かないから、彼女ら患者は苦悩するのだ。

――たぶん、どっちかは偽物なんです。

偽物。現実に生きている神井零という肉体に宿っている精神が偽物だというのか。

彼女のように自分が本物であると叫ぶことができない。自信がない。

 ――誰か、誰でもいい、誰か助けてくれ。

「誰か」

 声が出た。少年のような音だった。

 拘置所の出入り口から人が入ってきた気配がした。零は身体を起こして膝を立てた。

「面会だ」

 現れた監視係はそれだけ言うと、部屋のアクセスコードを送り付けてから去っていった。

 この状況で面会に来るのは、母、父、それから――妻。

 人生の中で何度も間近で感じた彼女の顔を思い浮かべて、零はハッとした。

――覚えている。

 零はもう一度ベッドに倒れこむと、縋る思いでVRに接続した。遮光ゴーグルなんて拘置所には置いていない。夢へ落ちていくように仮想世界へと潜り込み、エントランスでコードを入力してアバターの身体が転送される。

 ふわりと感覚がほどけて、初めからそこに居たかのように、零は切り株の上に座っていた。湿度の高い設定の重い大気が辺りを流れ、陽の光が大樹の森を這うように降ってところどころ地面を煌めかせている。鼻の奥を刺激する苔の香りがした。

 立ち上がって素早く周囲を見回すと、陰陽の斑模様に紛れて、爽やかな青いカーディガンと白いロングスカート姿の女が背を向けて立っていた。この間VRモールで買ったばかりの服だ。

「流!」

 名を呼んで駆けだす。妻、神井流は振り返って両手を広げた。零は飛び込むように抱き着いて仮初の体温を感じた。セミロングの黒髪が孕んでいた女の芳香が顔の裏に広がり、胸の穴に暖かいものが流れ込んで満たしていった。妻の体温が嘘でも、妻の存在は現実だった。それだけで十分だった。

「覚えてる。君を覚えてるよ」

 流の首元に顔を埋めながら、零は彼女との思い出を一つ一つ確認していた。

 機械みたいに生きていた自分を初めて受け入れてくれた人。

 二人で出かけたレジャーランド。

 観覧車から見た遠い遠い地平線の景色は、現実かそれとも仮想世界か。

 結婚して、家に帰ればいつも彼女が居て、それで――

 大丈夫、覚えている。

 流に撫でられた背中がジワリと温もりを染み込ませて、零は抱きしめる力を強めた。

「見られてるんじゃないの?」

 耳元で囁かれ、零は抱擁を終えて肩を抱いたまま離れた。

「凄い顔」

 平均的な高さの鼻梁、一重で細い目元は眠そうで、左目の泣きぼくろが黄色人種にしては白い肌に浮かんでいる。薄い唇は吸い付くように尖り、誘惑した。零は監視の目を気にして、接吻をギリギリのところで踏みとどまってため息に衝動を混ぜた。この面会は一挙手一投足、一言一句全て記録されている。羞恥心を感じる余裕がまだあることに、零は驚いていた。

 未だかつて、彼女をこれほど愛しいと思ったことはない。もしこの愛ですら偽りの記憶だとしたら、二度と立ち直ることができない。

「僕は、本当に君を愛してるのかな」

聞かずにはいられなかった。

「何言ってるのよ」

「僕が君を愛しているっていう記憶は、今も昔も変わらずにあったものなのかな。そうじゃないとしたら、僕は」

 ニューロンの発火をアバターへダイレクトで送信され、涙は抑えようもなく次々と流れた。崩れ落ちそうになり、流の肩と胸元の間に額を押し付けた。

少し暖かくて刹那で冷たくなる涙の流れを感じながら、キスは我慢できたのに涙は止められないなんて――そんなことを一部の冷静な僕は考えていた。

 大丈夫、と流が子供をあやすように零の後頭部に手を当てた。

「私はずっとあなたを見てきた。安心して。あなたの愛は本物よ。そうじゃなきゃ、今まで一緒に暮らせるわけないでしょ?」

――ああ、君の言うとおりだ、そうだ。

「あなたがどんなあなたでも、私を忘れても、私はあなたを愛します。だからもっとしっかりするの、零。あなたにはまだやることがある」

 不思議と懐かしい響きがした。彼女のシャープな声で運ばれてきた零という名は、心地よく身体に馴染んでいった。

 不安が消えていく。頬を流れていた絶望も乾き始めた。

「それに偽物の記憶を作り出すことなんて一部のおっきな研究機関でもない限りできないんだから。あなたが一番わかってるはずよ」

 彼女の言う通りである。零は徐々に奥底に沈んでいた冷静な人格を呼び起こしていった。額を離して、まだ震えている声でありがとうと言った。

 とにかく座りましょう、と流に促されて倒れている太い樹木に腰かけた。手を付くと柔らかい苔とチクチクした樹皮が掌を刺激してくる。もはやVRは現実と遜色のないところまで進化している。

「酷いことされてない?」

「部屋に閉じ込められてるけど不便はない。そうだ、診療所、今どうなってるか分かるかい?」

「甲斐田さんが何とかしてくれるわ。あなたが集めたスタッフを信じて」

 流の手が零の手に被さって優しく揺すった。

「そうだな。あとは放っておけば警察が真実を突き止める。あれだけの人員に警察AIまで動員しているなら時間の問題だ。記憶データの管理責任を問われれば言い逃れできないんだから、あとは余罪が出てくるかどうかでしかない。短い医師人生だったなあ」

 生乾きの頬を手の甲で擦りながら諦めたように言うと、流は掌に力を込めた。

「大丈夫よ。私が何とかする。それに今、警察はあなたに構っている暇はないわ」

 どういうことだ、と流を見遣る。

「ついさっき凄く大きなデータ領域の汚染があったの。被害者は分かってるだけでも千人以上いるって。下手したら今世紀最大のデータ災害になるかもしれないわ。警察はそっちに付きっきりよ」

 人為的に引き起こされた事件を災害と呼びたくなるほどの事態らしい。

「そんな状態でよく面会が許可されたな」

「木戸っていう人が手引きしてくれたの」

 そうか、と零は木戸の精悍な顔つきを思い浮かべた。災害の対応に追われている間隙を縫って流を引き合わせてくれたこと、その礼は必ず返さなければならない。

 汚染事件について、零の思考は瞬時に何通りもの推測を思いついた。自由にネット接続ができないだけで処理能力はそのままなのだ。

「共犯者、か」

 自分と何の繋がりもない新しい事件だという発想は、残念ながら論外であった。

 零は割り切れない思いから額に手を当てて大きく呼吸した。爽やかな空気が憎たらしい。

「誰なんだ」

 甲斐田の顔が脳裏に点いたが、彼は精神汚染の被害者という過去を持ち、人一倍汚染事故・事件に対して敏感な人間だ。零はすぐに彼への疑いを振り払った。

「もし私が犯人なら、あなたの記憶には一切の情報を残さないから思い出せないと思う」

「だろうな」

「考えても仕方ないよ。それよりも記憶を取り戻す方法を見つけましょう」

 無理だ、と零は力なく答えた。

「個々の記憶はニューロンごとに別々に記録されていて、それぞれのニューロンを刺激してピンポイントで記憶を消去してるんだ。防衛本能で忘れているなら潜在的には記憶されたままだけど、装置で消した記憶はニューロン自体に何の記録も残されていないから、ないものは思い出せない」

「本当に装置で消されたの?」

「忘れているだけなら記憶の密度が減ることはない」

「犯人が何か見落として消し忘れているかもしれないじゃない」

「あり得なくはない。でもその犯人に僕自身が含まれているとすれば、消去の成否をチェックする方法なんていくらでもある」

 沈黙が下りた。自分の専門分野だからこそ、記憶を取り戻すことが果てしなく難しいと確信していた。

 最も困難にしているのは、失った記憶が何に関することなのか見当もつかないことである。

 もの、人、経験、場所、などなど。どういったことに関係しているのかさえ分かれば、時間をかけてその部分の現実と記憶の整合性を総当たりすることで炙りだせる。

通常、記憶を失った場合は周囲の人間が言動や行動から察知することが多い。零が常日頃診察していた記憶精神患者たちは記憶を抜かれた後、家族や友人が患者のズレた行動を許容し話を合わせることで患者は自分に違和感を覚えることなく健全な精神を育んでいく。

しかし零の場合は、記憶が消えているのに周囲の人間が変化を察知できていない。もしかすると、気づいていながら誰も指摘してこなかったのかもしれないが、そうだとするならば指摘しなくて済むほど影響力の小さな事柄を忘れていることになる。果たして十五年前から断続的に記憶が途切れた状態でそのような小さな影響で済むような事象の忘却はあり得るのか。

推測を立てようにも手持ちの情報が少なすぎて同じ結論に行きつく。

「ここを出られない限り、自力で解決策を見つけるのは難しい」

 流は二人の数歩前に生えている雑草の方向へ視線を固定し、口を開いて浅く息を吸った。

「ねえ、交渉できないかな?」

 零が顔を向けると、流もアイコンタクトを返して言った。

「これだけ大きな災害が起こっているのに、あなたみたいに有能な医者を拘留しているのはどう考えてもナンセンスよ。だって、記憶精神科医って今でこそ増えてきてるけれど、あまり多くないんでしょ?」

 開業をするときに甲斐田を引き抜くだけでも一苦労だった。その時の零の話を踏まえて言っているのだろう。

「特例措置で医者としての活動だけは認められないかしら。そうすれば情報を集めるチャンスはあると思うの」

「そうか、僕はまだ医者なのか」

「肩書なんてどうでもいい。困ってる人を助ける人が医者かどうかなんて、助けられる人は気にしないわ」

 災害が起こったことを聞いたとき、零の頭に被害者のことは微塵もなかった。会いに来てくれた流のことで一杯だったのだ。それ以前に、自分の人生が閉ざされたという感覚が心に重く蓋をして、他人のことを気にする余裕などなかった。

 今までも、医者だから診察していたのであって、学者として興味をそそられることはあれど、人を助けたいという衝動に突き動かされたことはない、と零は思い返した。

 そんな薄情な医者でも必要とされるなら、利用価値を示せるなら――

「……木戸さん、聞こえていますか。もし上に打診して下さるなら、私にはその意志があるとお伝えください」

 零は大樹に覆い隠された先に見える光の空を見上げて言った。

 静かな風は二人の髪を揺らしたが、返事が運ばれてくることはなかった。



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