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Cの人格  作者: James N
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 三十人以上の青い制服と白衣に囲まれた四角いテーブルの隅の席で、木戸真は口元をさりげなく抑えた。

 会議室に充満する空気が汚れているような気がしたからだ。アバターは実際には呼吸していないし空気もデータなのだから、閉塞的で無機的なこの部屋の中で二酸化炭素濃度が上昇することなどないのだが、気分の問題となると話は別だ。

 我々人類は現実からデータの世界に羽ばたいたとはいえ、思考や感じ方まで機械になったわけではない。人間は機械にはなれない。どんなに機械の真似をしようと、人間の腹の中から生まれてくるものは人間だ。そして人間である以上は、データの海でも人間らしい生理現象や習性を発揮する。

 その弊害の代表的なものが――VR酔いである。

 現実では無意識に行われる生理現象の数々をVRの中で意識的に行ってしまうことで起こると言われている。

 息を吸おうとする。しかしここはデータの世界で空気はない。では呼吸ができない。

 頭では呼吸の必要がない、振りだけでいいと分かっていても、肉体はその動作自体を求めている。呼吸をしなければ死ぬという当たり前の事実を真剣に考えてしまう。

 つまり、現実との区別がついていないのだ。

 だから汚れていない空気を汚れていると思い込み、勝手に吐き気を催している。否、汚れているもいないもない、空気などないのだから。

 そう考えた瞬間、途端に息苦しさが倍増した。自分はなぜ胸を上下させているのだろうか。ダメだ、これ以上深く考えてはいけない。

 一般的な意味でのVR酔いは、VR機能を一定時間以上過度に使用した場合に、接続を解除したあとで現実での生理現象が覚束なくなったりぎこちなくなったりするというものだ。

 これが重度になるとVRの中でも酔いを感じる。

 木戸は小学生の時に重度のVR適応障害だと診断され、可能な限りVRには接続しないで生活をしてきた。

 しかし警察機関に勤めるようになってからというもの、捜査会議や報告はすべてVRで行われる現実に成す術もなく呑み込まれていた。どの業界でも多かれ少なかれVRは使用されているので予想できていたこととはいえ、生きにくい世に慣れることは終ぞなかった。

VRはもはや人間の器官の一つと言っても過言ではないほど社会に浸透している。それが使えない身体に生まれたのは身体障碍者も同然である。腕や足がないとか、盲目だとか難聴だとか、現代ではとっくに機械で代替が可能になった身体障碍の全く新しい課題として、早急に解決をしてほしい。

そう常々思って生きてきたのだが、残念ながら三十年の人生の中でそのような技術は確立されていない。あと五年もこの状態が続けば精神が持たないだろうと木戸は心配している。

VR適応障害の最も憎らしいところは、仕事がままならないほど強い症状が出るわけではないということだ。じくじくと、薄い嘔吐感や頭痛に襲われ続ける。酷いときでも意識を失ったりはしない。接続を切って十分もすれば症状は落ち着いてしまう。

ずっと続くよりはいいと思うかもしれない。しかし、そのリカバリーの早さがゆえに、実はたいしたことがないのではないかと思われることもしばしばだった。女性の生理痛と同じで、なったことがない奴にはわからない辛さなのである。

口元を抑えていた右手を鼻の上へ持っていき、指で目元を押す。

「――汚染されたサーバー区域は、デルタ、シータの二つで――」

 東京都警察庁本部から接続している佐倉というふさふさ髪の中年男が、椅子に座った状態で上半身を何度も前後させ、現実なら汗でもかきそうな熱弁を披露している。狂言や落語でも嗜んでいるのか、木戸の耳には歌になり損ねたノイズのように聞こえ、ただ不快だった。

彼の説明は集まった記憶精神科医一同に対して行われている。ここにいる警察関係者はずっと今回の事件の捜査に携わってきた者が大半だから、改めて聞いているのは熱心な捜査官くらいだろう。

今日集められたのは十人の協力者たちで、誰もが目立った成果を上げている記憶系医療のエキスパートである。会議当日の招集にも関わらず全員参加を達成できたのは、佐倉の横に鎮座している本部のお偉いさんが強引に話を進めたからである。

振り回されるのはごめんだと木戸は思っている。協力者たちも佐倉の説明を神妙な顔つきで聞いているが、本当のところは巻き込まれて災難だと愚痴を漏らしたいはずだ。

そもそも木戸も巻き込まれたようなものなのである。デルタ地区記憶技術監査課監査長などという仰々しい肩書がついてはいるものの、業務内容はAIを使用してネット上の記憶関連データの不正利用を取り締まるだけという暇な仕事だ。

三年前に左遷のような形で移動になったが、VR適応障害を加味されての配属だろう。それとなく移動願を仄めかしていたのが利いたようだ。多少給料は落ちたが、毎日のようにVRに接続しなければならない生活とおさらば出来たのは僥倖だった。

 ――だというのに。

 こうして久しぶりに捜査会議に駆り出されることになったかと思えば、耐性が薄れていたVR酔いが以前よりも強烈に襲ってくる上に、進行役の佐倉の鬱陶しい話し方を事件が起きた六日前から毎日聞かされている。

 帰りたい。

 木戸は再び息苦しさを感じて胸に手を当てた。

「――汚染データ拡散の出どころは今のところ不明でして、警察AIと連動して捜査員が痕跡を辿っておりますが、一週間以内に判明する確率は約三パーセントという数値を提示しておりまして、その間にも被害者は増え続けているという――」

 木戸は気を紛らわすために佐倉の公開プロフィールデータを警察のサーバーから引っ張ってきて視覚共有オフで開いた。

 佐倉剛輔。西暦二千二十二年生まれ。警部補。現在が二千六十七年だから、四十四歳だ。

 やはり大震災前生まれか――と納得した。

 二千二十五年に東京大震災が起こってから、日本だけでなく世界は激動の時代を迎えた。初めにVR技術が確立し社会へ浸透。三十年代から四十年代は記憶技術や学習装置の実験がしきりに行われた。それらが一般に普及していったのは五十年代後半であった。ナノマシンやAI産業も隆盛を迎え、世界はそれまでの在り方を早すぎる技術の進歩に合わせて変えざるを得なくなり、先進国と後進国の格差はより大きくなった。

 震災前に生まれた世代は、この激動の時代についていけず価値観が下の世代とずれているのだ。二十年代と三十年代生まれでは、五十年代から六十年代生まれよりも考え方に大きな開きがある。

 そして奴らが決まって言うセリフが――俺の世代はもっと大変だった。

 震災を経験していることがそんなに偉いのか。VR適応障害を軽く見ている奴らも大抵は震災前世代だったように思う。

腹だたしい、なぜ時代遅れの奴らに指図されなければならないのだ。

本当は愚鈍なくせに見せかけだけは下の世代を真似して取り繕っている、自覚のない老害ども。反吐が出る。

木戸はVR酔いのせいでいつもより攻撃的な思考をしていることを自覚しつつも、精神のバランスのために身を任せることにした。

時刻表示を見ると、会議が始まってまだ十五分しか経っていない。佐倉は少なくとも十分以上は話し続けていることになる。そろそろ協力者たちも、彼がどうしようもない人間だということを理解しただろう。

ここまで佐倉が話したことを、自分が任されれば一分で終わらせられる自信が木戸にはあった。なぜなら気分が悪いから。一刻も早く会議を終わらせたい。今回の捜査は最悪だな、とこめかみを揉んだ。

六日前。学習装置を使用したあとに体調不良を訴える事例がデルタとシータ区域で続出した。警察はすぐさまネット上を監視し、続く犯行を警戒した。木戸もこのときから監視員として選出されデルタ区を受け持っていた。ほとんど通常業務と変わらない簡単な仕事に初めは拍子抜けをしたものだ。

しかし、どうやら汚染データを正常なものとして誤認させるウイルスを犯人がばら撒いたということらしい。しかもそのウイルスは学習装置で使用されるような、国の厳重な審査を通過した信頼あるデータすら犯してしまった。ウイルスが広範囲に拡散する前に除去することに成功したものの、すでに汚染されてしまったデータを特定することは困難を極め、被害者が出てからそのデータを凍結するので精一杯だった。

両区域サーバー内の汚染規模の見積もりを甘く見ていたのか被害者が後を絶たず、二日前になって警察から正式に学習装置の使用を控えるようにと通達を出した。はっきり言って遅すぎる。警察の怠慢だと批判されても仕方がない。

焦った警察は事件の早急な解決のためにこうして協力者を集めたわけだ。

それが連続精神汚染事件の概要。たったそれだけのことを伝えるのに佐倉は一体何分を費やしているのだろうか。木戸は佐倉のプロフィールデータのタブを弾き飛ばすイメージで閉じた。

 連続精神汚染事件という名称は、犯行が何度も行われていると考えられていたからであるが、実際の犯行は一度で残りすべてがウイルスによるものだと分かった今、この名称も変更したほうがいいだろう。的外れな名称が警察の無能を証明しているとは思わないのだろうか。全くもって愚鈍だ。

などと考えていると、佐倉の演説が本題に入ったようだった。

「――汚染データを解析した結果ですが、ウイルスはゼロからプログラムされたものではなく、抽出された記憶を基に作られたことが判明したとのことです。それも、人格に甚大な被害をもたらす可能性のある精神異常者の記憶です」

 佐倉は最後の精神異常者の記憶という部分を大袈裟に言った。その抑揚の付け方は本当に頭が悪そうで、木戸は思わず失笑してしまいそうになった。

 協力者たちは今頃になって招集された理由を悟ったようだ。こうも回りくどくては無理もない、結論は先に言うべきだった。

「皆様に説明する必要はないとは思いますので、むしろ我々の側からの確認ということになりますが、記憶抽出処置は国の許可を得た組織によってのみ行われている、この認識は正しいでしょうか?」

 スキンヘッドの四十代の男が白衣に包まれた腕を上げる。

「それはその通りなんですが、穴がないわけでもないんですわ。今は難しいでしょうが、記憶抽出が確立されてから二年くらいは法整備ができてなかったんで、許可がなくても装置を持っている人なら使用することはできましたよ。使用履歴は自動で管理機関に送信される仕組みになってたはずなんで、一応お宅のAIなら整理して洗い出せるんじゃないですかね」

「貴重なご意見、ありがとうございます。我々もそれに関しては既に対策を講じておりまして、法整備前から現在までのすべての履歴データをデータ庁に請求しております」

 スキンヘッドの医師の、先に言え、という声が端末を通して聞こえてくるようだった。

「警察があなた方にお願いしたいのはですね、あなた方の持つ精神異常者から抽出したデータを我々に提供していただきたい、ということでして」

 医師たちがどよめく。怒りの表情を浮かべたり、あからさまに困った顔をしたりしている。皺の深い医師が、まだ若々しい瞳で佐倉を睨んで言った。

「出来るわけがないだろう。そんなことをすれば私たちは患者に訴えられてしまう。いかなる個人の記憶でも記憶保護法によって守られていることを知らないわけではないだろう。話にならん。帰らせてもらう」

 老医師はそう言って接続を切ってしまった。他の医師たちも同調する空気が出来上がっている。このまま会議が終わってくれればいいと木戸は心底期待したが、佐倉の横でこれまで腕を組んだまま動かなかった指揮官が手を挙げると、どよめきは収まっていった。

「ここからは私が」

 佐倉は安心と満足を堪えたような顔で会釈した。

「本事件の総指揮を任されております、警視庁本部の柏原です。どうか、最後までお話を聞いていただきたい」

 また長くなりそうだ。木戸はめまいを覚えた。

「まず初めに、皆様をお呼びした理由を整理します。デルタ、シータ両区域内で記憶抽出処置が行える立場にある医師、尚且つ記憶装置を実際に所持している病院、診療所の責任者は、ここにいるあなた方のみです。法整備前のデータが使用された可能性は高いですが、皆様の管理する記憶データが流出していないという保証はありません。汚染元の記憶データとそれらを照合してみないことには――」

「流出などしませんよ。抽出したデータはチップに保存して物理的に管理しています。抽出後、すぐにです。データをアップロードする暇などないですし、処置を行った関係者以外には触れることもできない」

 我々の中に犯人がいるなら別ですが、と若い短髪の女性医師が嘲るように言った。

「無論、その可能性も視野に入れています」

「なんだと」

 再び医師たちがどよめく。

「当方のAIの算出によれば、先ほど退出されてしまった新座氏も含めた十人の中に犯人がいる確率は十八パーセント。これは無視できない数値です」

 また別の医師が口を開く。

「確率は確率だろう。百パーセントでなければデータを提供する根拠にはなり得ん」

「その通りです。ですが、我々は必ず犯人を捕まえる必要がある。そのために出来ることは全て行わなければなりません」

「だから渡せと? とても警察のやり方とは思えんな」

「海江田氏からは、昨日提供していただきました」

 医師たちの視線が一斉に小柄な男性医師に集中した。警察関係者は黙して会議の行方を見守っている。当然木戸もそれに関しては把握している。

若造、という叫び声が木霊した。頭痛が強まり、木戸は顔を顰めた。

「貴様、渡したのか!」

「仕方がなかったんです! 圧力をかけられて……」

 海江田と呼ばれた医師は完全に弱腰で仰け反っている。女性医師が吠える。

「圧力ぅ? いったいどこから圧力があったって言うんです? 政府からだとでも?」

 海江田は黙りこくった。それを見て、他の医師はまさかという顔になった。

 柏原の声が医師たちを貫く。

「今後、このような記憶技術を悪用した犯罪は増えると考えられています。皆様も忘れたわけではないでしょう、メモリーシアター問題。五十年代後半に悪質な記憶データのアップロードが社会問題になりました。あの時は不完全な記憶データでしたが、今回はオリジナルが使用されている。しかも実際に被害が出ているのです」

 木戸は当時まだ十代前半だったが、言われれば容易に思い出せるほど有名な社会問題である。

 五十年代後半。小型化、コストの改善に伴って学習装置が爆発的に一般人の手に広まっていった。それと同時期にとある大企業が売り出したのが、簡易記憶抽出装置とも呼べる、メモリーシアターだった。

 メモリーシアターは読み取った記憶を映像データとしてのみ抽出することが可能で、誰でも自分の記憶をネット上で共有できるというコンセプトで作られた。医療方面で記憶技術の有用性が世間で取り沙汰されていた時期でもあり、使用に特別な許可が必要なかったことでメガヒット商品となった。

 そしてヒットの原因はもう一つ、学習装置でそのデータを使用できてしまったことだ。

 学習装置で知識が増えていく仕組みは、モデルとなる被験者から抽出した膨大な知識関連の記憶データを脳に挿入し、それを一定周期で行うことで徐々に長期記憶化させるというものだ。今まで勉強と言えば予習復習だったのが、一瞬で復習できるとあっては使わない手はない。ここにいる全員がお世話になっているだろう。

 映像だけのデータとはいえ、自分の長期記憶にある特異な知識を公開したいと考える人は少なくなかった。それは正式な記憶装置で吸い出した記憶を入れるのと違って効果の薄いものではあったが、確かな効果が表れてしまったのだ。

 それがまずかった。知識に関する記憶だと偽って恐怖体験をばら撒いたり、偽の知識を広めようとする輩が現れたのだ。それによって人格が変質するという事故が多発したため、政府は急きょ学習装置と記憶装置に関する法案を提出し、次々と可決された。メモリーシアターも回収され、製造が中止された。

 今では記憶データの扱いには上りも下りも許可が必要となっている。学習装置用に配布される知識データにも学習レベルによって段階的に制限がかけられ、レベルに合ったデータしか接種できない。

 新時代の課題が浮き彫りになったあの社会問題。それを引き合いに出した柏原は、断固とした口調で続けた。

「どんなに政府が厳しく管理しようとも、暴力団や高性能のAIを有する犯罪者は必ずどこかで装置を利用し、自らの利益につなげようとします。この中に暴力団とつながりがある人がいないとも言えません」

 柏原は医師たちを見渡した。答えるものはいない。

「圧力があったという話は初耳ですが――」

 嘘をつけ、絶対に知っていたはずだ。

「――それは政府も現状を憂いているという証拠。恐らく新たな法律でも模索しているのでしょう。皆様が守ろうとしている領域に我々が合法的に立ち入れるようになるのも時間の問題ということです」

 白衣の協力者たちは皆、口をつぐんだ。柏原が国を後ろ盾にしているかどうかの真偽は関係ない。海江田が現実に圧力をかけられたという事実を提示されては手も足も出ないだろう。

 大方、今日の突然の招集は柏原が海江田から提供された情報を利用して医師たちの首を縦に振らせるためのものだろう、と木戸は予想した。

 ――やっとか。

 木戸はようやく訪れた地獄のVR会議の終焉をもろ手で迎え入れようとした。

 しかし、一人の男性医師が静かに手を挙げた。神井零、木戸が直接招集の要請をした人物だった。木戸が項垂れるのをよそに、どうぞ、と柏原が促す。

「先ほど佐倉さんは、精神異常者、とおっしゃいましたが、精神異常者とはどういう定義で発言なされたのでしょうか」

 佐倉は困惑してどもりながら答えた。

「て、定義とは、どういうことです?」

「異常、とは何を、誰を主語に置くかによってその範囲を大きく違えます。あなたの言った異常者には明確な判別の境界線があるのでしょうか。お聞かせ願いたい」

「それは……」

 言葉に詰まった佐倉を制し、柏原が発言した。

「個人によって異なる見解が生じることを定義するのは議論において非常に重要であるという認識はありますが、残念ながら警察全体で共有している異常者の明確な判断基準はないように思います。我々より患者に詳しいあなたの尺度で測っていただくというのはいかがでしょうか」

「そうですか。でしたら、私が提供できるデータはゼロです。私の患者に異常者はいません。彼らの精神に起こる現象は人間の領域を超えていないのですから、正常な普通の人間です」

「君ねえ……」

 佐倉が苛立ちを隠そうともせず威嚇した。しかし神井零が動じた様子は微塵もない。

言葉の切れ味とは裏腹に、どこにもやる気の見当たらない弛緩した表情をしている。警察を困らせようという意志や強引な要求に苛立っているという感情が言葉の端に表れている様子もない。

 木戸はデルタ地区の医師に招集をかけたが、他の医師は通話口で何度も不満を漏らしながら当惑していた。それに比べて神井零は一も二もなく承諾してここへ来た。

初めは随分協力的だと思った。しかしこうして発言を聞いていると、彼は協力をしに来たわけではなく、降りかかった火の粉を正面から馬鹿正直に処理しているように見えた。

彼に比べれば最初にここを去った老医師のほうが素直な生き方だろう、と木戸は思う。

「精神異常者という言葉を用いた佐倉の発言は取り消し、謝罪します。申し訳ありません」

 柏原は焦ることなく冷静に対処した。ここで言葉の定義に関して議論を続ける意味はない。データをいかにして提供させるか、それだけが重要であることを彼は理解している。

「改めて我々からの要請を提示させていただきます。皆様が現在管理している記憶抽出処置を行った患者の記憶データ、すべてを提供していただきたいと考えています」

 医師たちは再び沈黙した。うんともすんとも言えるわけがない。

しかし警察側は彼らの心境など百も承知で要求している。ここで断られたとしても圧力によっていずれは手に入る。それを少し早めたいだけなのである。

「私は今のところお渡しするつもりはありません」

 きっぱりと言い切った神井零に、警察関係者は総じて眉を顰める。彼がこの会議において異常な存在感を放っていることに、もはや誰もが意識を向けていた。

 柏原は顎をわずかに上げて――もしかすると苛立ったのかもしれない――口を開いた。

「今のところ――つまり、何か我々に対して要求があるということでしょうか」

「いいえ、政府からの圧力がありましたら、そのあとでお渡しいたします」

 的確に、最も嫌な対応を取られてしまった。

柏原は、そうですか、と控えめなボリュームで言った。

 神井零の発言によって冷静さを取り戻した医師たちは、彼の意見に続いた。青い陣営の誰かがため息を漏らした音がした。そんな動作すらVR酔いの木戸にはできない芸当であった。

この会議自体が完全なる無駄に終わったことに、木戸は他人事ながら情けない思いで一杯になった。こんなことなら会議などすっぽかせばよかったのだ。

「いずれにせよ我々がデータを閲覧することには変わりありませんので、その時は円滑な作業になるよう協力していただけますと助かります。本日はお集まりいただきありがとうございました」

 会議室から白衣が消える。データの空気が落ち窪んだ気がした。

 警官たちは全員柏原に注目している。隣に座る佐倉は首を縮こまらせ、二重顎を作りながら上目遣いになっている。柏原は腕を組んで数秒四角いテーブルの中央を見つめ、歯の隙間から音を立てて息を吸う動作をした。

「追って指示を送ります。本日の会議はこれまで。解散」

 誰よりも待ち望んだ号令だった。木戸は素早い思考動作でVRの接続を切った。

 会議室の風景が遠くへフェードアウトしていく中、これでしばらくは休めるだろう、と木戸は安堵した。

 しかしこのわずか一時間後、医師全員からのデータ提供が承諾されたという旨の通達を受けることになるのであった。




思い出したようにダッシュ『――』を使っています。

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