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Cの人格  作者: James N
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06.12.2017更新

 二十人以上の青い制服と白衣に囲まれた四角いテーブルの隅の席で、木戸真は口元をさりげなく抑えた。

 会議室に充満する空気が汚れているような気がしたからだ。アバターは実際には呼吸していないし空気もデータなのだから、閉塞的で無機的なこの部屋の中で二酸化炭素濃度が上昇することなどないのだが、気分の問題となると話は別だ。

 我々人類は現実からデータの世界に羽ばたいたとはいえ、思考や感じ方まで機械になったわけではない。人間は機械にはなれない。どんなに機械の真似をしようと、人間の腹の中から生まれてくるものは人間だ。そして人間である以上は、データの海でも人間らしい生理現象や習性を発揮する。

 その弊害の代表的なものが――VR酔いである。

 現実では無意識に行われる生理現象の数々をVRの中で意識的に行ってしまうことで起こると言われている。

 息を吸おうとする。しかしここはデータの世界で空気はない。では呼吸ができない。

 頭では呼吸の必要がない、振りだけでいいと分かっていても、肉体はその動作自体を求めている。呼吸をしなければ死ぬという当たり前の事実を真剣に考えてしまう。

 つまり、現実との区別がついていないのだ。

 だから汚れていない空気を汚れていると思い込み、勝手に吐き気を催している。否、汚れているもいないもない、空気などないのだから。

 そう考えた瞬間、途端に息苦しさが倍増した。自分はなぜ胸を上下させているのだろうか。ダメだ、これ以上深く考えてはいけない。

 木戸は小学生の時に重度のVR適応障害だと診断され、可能な限りVRには接続しないで生活をしてきた。

 しかし警察機関に勤めるようになってからというもの、捜査会議や報告はすべてVRで行われる現実に成す術もなく呑み込まれていた。どの業界でも多かれ少なかれVRは使用されているので予想できていたこととはいえ、生きにくい世に慣れることは終ぞなかった。

VRはもはや人間の器官の一つと言っても過言ではないほど社会に浸透している。それが使えない身体に生まれたのは身体障碍者も同然である。腕や足がないとか、盲目だとか難聴だとか、現代ではとっくに機械で代替が可能になった身体障碍の全く新しい課題として、早急に解決をしてほしい。

そう常々思って生きてきたのだが、残念ながら三十五年の人生の中でそのような技術は確立されていない。あと五年もこの状態が続けば精神が持たないだろうと木戸は心配している。

VR適応障害の最も憎らしいところは、仕事がままならないほど強い症状が出るわけではないということだ。じくじくと、薄い嘔吐感や頭痛に襲われ続ける。酷いときでも意識を失ったりはしない。接続を切って十分もすれば症状は落ち着いてしまう。

ずっと続くよりはいいと思うかもしれない。しかし、そのリカバリーの早さがゆえに、実はたいしたことがないのではないかと思われることもしばしばだった。女性の生理痛と同じで、なったことがない奴にはわからない辛さなのである。

口元を抑えていた右手を鼻の上へ持っていき、指で目元を押す。

「――汚染されたサーバー区域は、デルタ、シータの二つで――」

 東京都警察庁本部から接続している佐倉というふさふさ髪の中年男が、椅子に座った状態で上半身を何度も前後させ、現実なら汗でもかきそうな熱弁を披露している。狂言や落語でも嗜んでいるのか、木戸の耳には歌になり損ねたノイズのように聞こえ、ただ不快だった。

彼の説明は集まった記憶精神科医一同に対して行われている。ここにいる警察関係者はずっと今回の事件の捜査に携わってきた者が大半だから、改めて聞いているのは熱心な捜査官くらいだろう。

今日集められたのは十人の協力者たちで、誰もが目立った成果を上げている記憶系医療のエキスパートである。会議当日の招集にも関わらず全員参加を達成できたのは、佐倉の横に鎮座している本部のお偉いさんが強引に話を進めたからである。

振り回されるのはごめんだと木戸は思っている。協力者たちも佐倉の説明を神妙な顔つきで聞いているが、本当のところは巻き込まれて災難だと愚痴を漏らしたいはずだ。

そもそも木戸も巻き込まれたようなものなのである。デルタ地区電算領域監査課監査長などという仰々しい肩書がついてはいるものの、業務内容はAIを使用してネット上を検閲するだけという暇な仕事だ。見張るのが物質世界ではないだけで、交番とさほど変わらない。

三年前に左遷のような形で移動になったが、障害を加味されての配属だろう。それとなく移動願を仄めかしていたのが利いたようだ。多少給料は落ちたが、毎日のようにVRに接続しなければならない生活とおさらば出来たのは僥倖だった。

 ――だというのに。

 こうして久しぶりに捜査会議に駆り出されることになったかと思えば、耐性が薄れていた酔いが以前よりも強烈に襲ってくる上に、進行役の佐倉の鬱陶しい話し方を事件が起きた六日前から毎日聞かされている。

 帰りたい。

 木戸は再び息苦しさを感じて胸に手を当てた。

「――汚染データ拡散の出どころは今のところ不明でして、AIと連動して痕跡を辿っておりますが、今週中に判明する確率は約三パーセントという数値を提示しておりまして、その間にも被害の報告は増え続けているという――」

木戸は気を紛らわすために周りを見渡したが、むさ苦しい男どもの顔が並んでいるだけで余計に空気が汚く感じられた。

と、一人の男と目が合った。前髪が長く線の細い、ミステリアスな雰囲気を持つ男だ。

木戸は咄嗟にテーブルへ視線を移したが、傷一つついていないデータの平面に見るべきものはなかった。

何となく気になってもう一度ちらりと男を盗み見る。しかし彼はもうこちらに関心を払っていなかった。

木戸は警察の集めた資料データから彼のプロフィールを検索した。

神井零。三十四歳。神井記憶精神診療所を経営。祖父は記憶技術研究者の神井天。父親も医者のようだ。

木戸が直接招集の要請をした人物だった。そして、彼の年齢が自分と一つしか違わないことに衝撃を受けた。持つ者は見た目も若々しく余裕があるものなのだろう。

自分の経歴と比べて情けない気分になりながらこめかみを揉んでいると、佐倉の演説が本題に入ったようだった。

「――汚染データを解析した結果ですが、ウイルスはゼロからプログラムされたものではなく、抽出された何者かの記憶を基に作られたことが判明したとのことです。それも、人格に甚大な被害をもたらす可能性のある精神異常者の記憶です」

 佐倉は最後の精神異常者の記憶という部分を大袈裟に言った。その抑揚の付け方は本当に頭が悪そうで、木戸は思わず失笑してしまいそうになった。

 協力者たちは今頃になって招集された理由を悟ったようだ。

「皆様に説明する必要はないとは思いますので、むしろ我々の側からの確認ということになりますが、記憶関連の手術は国の許可を得た組織によってのみ行われている、この認識は正しいでしょうか?」

 スキンヘッドの四十代の男が白衣に包まれた腕を上げる。

「それはその通りなんですが、穴がないわけでもないんですわ。今は難しいでしょうが、記憶抽出が確立されてから二年くらいは法整備ができてなかったんで、許可がなくても装置を持っている人なら使用することはできましたよ。使用履歴は自動で管理機関に送信される仕組みになってたはずなんで、一応お宅のAIなら整理して洗い出せるんじゃないですかね」

「貴重なご意見、ありがとうございます。我々もそれに関しては既に対策を講じておりまして、法整備前から現在までのすべての履歴データをデータ庁に請求しております」

 スキンヘッドの医師の、先に言え、という声が端末を通して聞こえてくるようだった。

「警察があなた方にお願いしたいのはですね、あなた方の持つ精神異常者から抽出したデータを我々に提供していただきたい、ということでして」

 医師たちがどよめく。怒りの表情を浮かべたり、あからさまに困った顔をしたりしている。皺の深い医師が、まだ若々しい瞳で佐倉を睨んで言った。

「出来るわけがないだろう。そんなことをすれば私たちは患者に訴えられてしまう。話にならん。帰らせてもらう」

 老医師はそう言って接続を切ってしまった。他の医師たちも同調する空気が出来上がっている。このまま会議が終わってくれればいいと木戸は心底期待したが、佐倉の横でこれまで腕を組んだまま動かなかった指揮官が手を挙げると、話し声は収まっていった。

「ここからは私が」

 佐倉は安心と満足を堪えたような顔で会釈した。

「本事件の総指揮を任されております、警視庁本部の柏原です。どうか、最後までお話を聞いていただきたい」

 また長くなりそうだ。木戸はめまいを覚えた。

「まず初めに、皆様をお呼びした理由を整理します。デルタ、シータ両区域内で記憶抽出処置が行える立場にある医師、尚且つ記憶装置を実際に所持している病院、診療所等の責任者は、ここにいるあなた方のみです。法整備前のデータが使用された可能性は高いですが、皆様の管理する記憶データが流出していないという保証はありません。汚染元の記憶データとそれらを照合してみないことには――」

 流出などしませんよ、と女の声が遮った。若い短髪の女性医師が注目を集める。

「抽出したデータはチップに保存して物理的に管理しています。抽出後、すぐにです。データをアップロードする暇などないですし、処置を行った関係者以外には触れることもできない。それに流出したデータを使ったというなら、我々のデータ領域以外で入手した可能性も視野に入れるべきではないのですか。アクセス元の偽装もまだ見破れていないのでしょう? それなら、世界中へ疑惑を向けるべきです。なぜ我々だけに?」

 柏原は冷静に頷いた。

「無論、全ての可能性を視野に入れています。そしてその中には、あなた方の中に犯人もしくはその協力者がいて、意図的にデータを流出させた、という線も含まれます」

「なんだと」

 再び医師たちがどよめく。

「むしろその線が一番有力だと私は考えています。当方のAIの算出によれば、先ほど退出されてしまった新座氏も含めた十人の中に犯人がいる確率は十八パーセント。これは無視できない数値です」

 また別の医師が口を開く。

「確率は確率だろう。百パーセントでなければデータを提供する根拠にはなり得ん」

「その通りです。ですが、我々は必ず犯人を捕まえる必要がある。そのために出来ることは全て行わなければなりません」

「だから渡せと? とても警察のやり方とは思えんな」

「海江田氏からは、昨日提供していただきました」

 医師たちの視線が一斉に小柄な男性医師に集中した。警察関係者は黙して会議の行方を見守っている。当然木戸もそれに関しては把握している。

若造、という叫び声が木霊した。頭痛が強まり、木戸は顔を顰めた。

「貴様、渡したのか!」

「仕方がなかったんです! 圧力をかけられて……」

 海江田と呼ばれた医師は完全に弱腰で仰け反っている。女性医師が嘲るように吠える。

「圧力ぅ? いったいどこから圧力があったって言うんです? 政府からだとでも?」

 海江田は黙りこくった。それを見て、他の医師はまさかという顔になった。

 柏原の声が医師たちを貫く。

「今後、このような記憶技術を悪用した犯罪は増えると考えられています。皆様も忘れたわけではないでしょう、メモリーシアター問題。五十年代後半に悪質な記憶データのアップロードが社会問題になりました。あの時はまだ悪ふざけの範疇を超えていませんでした。しかし、今回は笑い話では済まされない。実際に精神を侵食され通院を余儀なくされた被害者が何人もいるのです」

 現在の児童用の学習データでも現代史の項目で触れられている有名な問題で、木戸はまだ十代前半だったが記憶に残っている。それを引き合いに出した柏原は、断固とした口調で続けた。

「どんなに政府が厳しく管理しようとも、暴力団や知能のある犯罪者は必ずどこかで最新鋭の技術を利用し、自らの利益につなげようとします。この中に暴力団とつながりがある人がいないとも言えません」

 柏原は医師たちを見渡した。答えるものはいない。

「圧力があったという話は初耳ですが――」

 嘘をつけ、絶対に知っていたはずだ。

「――それは政府も現状を憂いているという証拠。恐らく新たな法律でも模索しているのでしょう。皆様が守ろうとしている領域に我々が合法的に立ち入れるようになるのも時間の問題ということです」

 白衣の協力者たちは皆、口をつぐんだ。柏原が国を後ろ盾にしているかどうかの真偽は関係ない。海江田が現実に圧力をかけられたという事実を提示されては手も足も出ないだろう。

 大方、今日の突然の招集は柏原が海江田から提供された情報を利用して医師たちの首を縦に振らせるためのものだろう、と木戸は予想した。

 ――やっとか。

 木戸はようやく訪れた地獄のVR会議の終焉をもろ手で迎え入れようとした。

 しかし、一人の男性医師が静かに手を挙げた。神井零であった。木戸が項垂れるのをよそに、どうぞ、と柏原が促す。

「先ほど佐倉さんは、精神異常者、とおっしゃいましたが、精神異常者とはどういう定義で発言なされたのでしょうか」

 佐倉は困惑してどもりながら答えた。

「て、定義とは、どういうことです?」

「異常、とは何を、誰を主語に置くかによってその範囲を大きく違えます。あなたの言った異常者には明確な判別の境界線があるのでしょうか。お聞かせ願いたい」

「それは……」

 言葉に詰まった佐倉を制し、柏原が発言した。

「個人によって異なる見解が生じることを定義するのは議論において非常に重要であるという認識はありますが、残念ながら警察全体で共有している異常者の明確な判断基準はないように思います。我々より患者に詳しいあなたの尺度で測っていただくというのはいかがでしょうか」

「そうですか。でしたら、私が提供できるデータはゼロです。私の患者に異常者はいません。彼らの精神に起こる現象は人間の領域を超えていないのですから、正常な普通の人間です」

「君ねえ……」

 佐倉が苛立ちを隠そうともせず威嚇した。しかし神井零が動じた様子は微塵もない。

言葉の切れ味とは裏腹に弛緩した表情をしている。警察を困らせようという意志や強引な要求に苛立っているという感情が口調に表れている様子もない。

 木戸はデルタ地区の医師に招集をかけたが、他の医師は通話口で何度も不満を漏らしながら当惑していた。それに比べて神井零は一も二もなく承諾してここへ来た。

初めは随分協力的だと思った。しかしこうして彼の姿を見ていると、協力をしに来たわけではなく、降りかかった火の粉を正面から馬鹿正直に処理しているように見えた。

彼に比べれば最初にここを去った老医師のほうが素直な生き方だろう、と木戸は思う。

「精神異常者という言葉を用いた佐倉の発言は取り消し、謝罪します。申し訳ありません」

 柏原は焦ることなく冷静に対処した。ここで言葉の定義に関して議論を続ける意味はない。データをいかにして提供させるか、それだけが重要であることをこの男は理解している。

「改めて我々からの要請を提示させていただきます。皆様が現在管理している記憶抽出処置を行った患者の記憶データ、すべてを提供していただきたいと考えています」

 医師たちは再び沈黙した。うんともすんとも言えるわけがない。

だが、やはり神井零は他の医師たちとは違った。

「私は今のところお渡しするつもりはありません」

 きっぱりと言い切られた言葉に、警察関係者は総じて眉を顰める。彼がこの会議において異常な存在感を放っていることに、もはや誰もが意識を向けていた。

 柏原は顎をわずかに上げて――もしかすると苛立ったのかもしれない――口を開いた。

「今のところ――つまり、何か我々に対して要求があるということでしょうか」

「いいえ、政府からの圧力がありましたら、そのあとでお渡しいたします」

 舌打ちが聞こえた。

 的確に、最も嫌な対応を取られてしまったのである。警察側は彼らの心境など百も承知で要求している。ここで断られたとしても圧力によっていずれは手に入る。それを少し早めたいだけだったのだ。

柏原は、そうですか、と控えめなボリュームで言った。

 神井零の発言によって冷静さを取り戻した医師たちは、彼の意見に続いた。青い陣営の誰かがため息を漏らした音がした。そんな動作すらVR酔いの木戸にはできない芸当であった。

この会議自体が完全なる無駄に終わったことに、木戸は他人事ながら情けない思いで一杯になった。こんなことなら会議などすっぽかせばよかったのだ。

「いずれにせよ我々がデータを閲覧することには変わりありませんので、その時は円滑な作業になるよう協力していただけますと助かります。本日はお集まりいただきありがとうございました」

 会議室から白衣が消える。データの空気が落ち窪んだ気がした。

 警官たちは全員柏原に注目している。隣に座る佐倉は首を縮こまらせ、二重顎を作りながら上目遣いになっている。柏原は腕を組んで数秒四角いテーブルの中央を見つめ、歯の隙間から音を立てて息を吸う動作をした。

「追って指示を送ります。本日の捜査会議はこれまで。解散」

 誰よりも待ち望んだ号令だった。木戸は素早い思考動作でVRの接続を切った。

 会議室の風景が遠くへフェードアウトしていく中、これでしばらくは休めるだろう、と木戸は安堵した。



 仕事場であるデルタ地区監査課のオフィスに意識が帰ってくるなり、部下たちの心配する声を背に、木戸真は千鳥足でトイレに向かった。

 自動で便器の蓋が上がったと同時に、思い切り胃を痙攣させてえづいた。胃酸が食堂を痛めつけながら逆流してくる。黄色く透けた液体が汚らしい音を立てながら便器に打ち付けられて飛び跳ねた。粘性を持った胃酸はゆっくりと便器の表面を撫でながら落ちていく。それを見てまた吐き気が増す。

 口内と顔を洗浄し、服が汚れていないか確認して仕事場に戻った。部屋に入ると、出入り口付近のデスクで巡回作業をしている西本がぺこりと頭を下げた。

「毎度辛そうっすね。見てるこっちが冷や冷やっす」

「大丈夫だ。今日は水も飲まずに来た」

 答えながら奥の自分のデスクへと戻る。西本は木戸の姿を首で追いながら聞いた。

「吐くの我慢するために脱水症状と隣り合わせって、本末転倒じゃないっすか。もう掃除手伝わされなくて済みそうなのはいいっすけど」

「他人に自分の吐しゃ物を掃除されるのは、大人になっておねしょする感覚に近い」

「いい年こいておねしょしたことないんでわかんないっす」

 木戸はカバンから弁当箱を取り出して朝食を取り出した。時刻は昼前なのでブランチになるか。

「それで、どうなったんです?」

 西本のデスクの隣で黙々とホログラフィックモニタと向き合っていた猪熊が口を開いた。

「何か進展は」

「待機だ」

 メガネの奥の目を細める猪熊。

「待機って、データは? 押収するって話ではなかったんですか」

「今日中には無理だろう」

 西本が大袈裟に嘆いて、頭の後ろで手を組んで椅子に寄りかかった。

「もう六日目っすよ。やってることいつもと変わんないじゃないっすか、折角事件が起こったのに」

「監査課が暇なのは平和の証だ」

「後手に回っているということでは?」

「黙って従っていればいい」

 猪熊のもっともな指摘に木戸は言葉を濁してブロッコリーを齧った。しかし猪熊の毒舌は止まらなかった。

「震災前生まれの愚鈍な老害どもに、なぜ俺たちが指図されないといけないんですか」

「あ、それ言っちゃう? ま、あいつらの口癖、俺たちの世代はもっと大変だった、だもんなぁ。震災経験してるのがそんなに偉いのかって思うっすよ」

 西本も同調した。木戸は食事の手を止めて厳しく言った。

「我々に決定権はない」

「思考停止ですよ、それ。木戸さんだって佐倉とかいう男の愚痴をこぼしていたじゃないですか。奴らは考え方が時代遅れなんですから、早く木戸さんたちの代に世代交代するべきだ」

「全員が無能なわけではない。少なくとも柏原はまともなはずだ。政界にコネもある」

「それまともって言うんすか」

 西本が失笑した。茶化した雰囲気だが、彼も不満を持っているのが察せられた。睨みながら言う。

「ならお前が会議に出てくれるのか?」

「それは、遠慮しておくっす」

 二人とも口を噤んだ。木戸は食事を再開した。

 木戸自身、上層部に対して不満がないわけではない。特に、二千二十五年の東京大震災の前に生まれた世代との確執は、個人規模の話ではないのである。

震災前に生まれた世代は、急速な復興による価値観の変化についていけず、下の世代と感覚がずれているのだ。二十年代と三十年代生まれでは、五十年代から六十年代生まれよりも考え方に大きな開きがある。

だが、出世街道から外れた一介の監査官程度に意見ができるはずもない。

 そのあとは事件に関する話題になることはなく、危機感の全くない気だるい空気の中で仕事を続けた。

 行き交う情報に、右腕に移植した自分の端末と監視型の警察AIの力を借りて目を光らせる。端末と同期したAIが有象無象の情報を振るい落として怪しいものだけ提示してくれるので、実際に目を光らせるほど集中することは稀だった。

視界に時刻を表示させると、勤務時間は残り三十分というところまで乗り切っていた。

夕暮れ時ではあるが、窓のない閉鎖空間で仕事をし続ける木戸真にとって時間とは数字の羅列でしかない。彼は息を吹きかけるようなイメージでカウントを続けている数字たちを非表示にした。

デルタ地区のインターネットサーバー領域は今日も平常通り。

矢継ぎ早にポップアップ表示される犯罪に関連のありそうな画像、動画、テキスト、音声。それらを無感動に、右から左へと流していくだけの単純な作業を繰り返しながら、時が過ぎるのを待つだけの日々。

――退屈だ。

ここでの仕事に楽しみを見出せるのはストーカー体質や雑多な情報集めが好きな奴くらいだろう、と木戸は思う。

立場上の問題で西本を諫めはしたが、この生活を退屈に思っているのは確かだった。

今回の事件が起こったとき、得も言われぬ新鮮な気分を味わった。自分の管轄で本部の捜査課が担当することになるような事件が起こるとは考えていなかった。昨今のネット犯罪率を鑑みればあり得る話だったのだが、もう若い頃のように障害を乗り越えようと突き進む気概がなくなってしまって、そういう事件からは離れたものだとばかり思っていたのだ。

ダラダラと情報群に対して異常なしと『指示』しているうちに、AIがわざと機械音に設定された声で勤務時間の終了を告げた。人間ではないものに人のふりをされるのが嫌だからである。

 木戸はAIと端末の接続を解除して席を立った。巨体を伸ばすと腰の骨が鳴った。

「先にあがる。いつも通り後は頼む」

「お疲れ様っす」

「お疲れ様です」

 あ、と西本が声を上げた。

「先輩、来週の合コン、何とか来れないっすか?」

「興味ないと言っただろう」

「VRじゃなくてリアルコンタクトっすよ?」

「木戸さんは週末にしかお子さんに会えない。察してやれ」

 なぜお前が知っているんだ、と猪熊を見るが、彼は素知らぬふりで画面に向かったままだった。

「一日くらいいいじゃないっすか。そろそろ再婚相手見つけるために動き出さないとまずいっすよ、寂しい老後っす」

「知らん」

にべもなく切り捨て、木戸はカバンを持って出口に向かった。

建物正面出入り口の警備担当にも挨拶してスタスタと駐車場に繰り出していった。猪熊も今日は日勤で帰るので、仕事場には西本と警備の二人が残されることになる。少し不安だが、何もなければ大丈夫だろう。

空は見事なオレンジだった。街の建物は色こそ違えど形はどれも似通っている。角ばっていて平面的な外観に示し合わせたように同じ高さで、空が広い。

木戸が生まれるころはまだ高層ビルというものがあったらしいが、太陽光発電システムが一般化してから日光独占禁止法によって建造物の高さを制限されたという。東京タワーも老朽化によって取り壊され、気づけば東京スカイツリーだけがこの日本に聳える巨大建造物と化していた。

――この町は、退屈だ。

郷愁と無気力に襲われながらも夕焼けの中を愛用の全自動車に歩いて行った。

運転席に座り、端末を通して行き先を社宅に設定する。ひとりでに動き出した車のシートを深く倒して微睡に落ちていった。

しかし、残念ながら至福の時間は訪れなかった。

聴覚に直接訴えかけてくるコール音に、木戸は眉を顰めて目を開けた。

視界に表示されているタブには本部の捜査課所属の男の名前があった。木戸はリクライニングシートを起こして姿勢を正し、応答した。画面に会議で見かけた壮年の男の顔が映った。

「はい」

『木戸君、たった今、全ての医師から患者の記憶データの複製が受諾された』

「複製ですか?」

 木戸は驚きを見せないように取り繕って相手の言葉を繰り返した。

『ああ。彼らもオリジナルを渡すことには強い拒否反応を示していた。この辺りが妥協点だな。データさえあれば特定作業に移れる。直ちに回収に行ってくれ。どこから行くかは任せる』

「了解」

 内心では大きなため息を吐いていた。午前中に散々な目に遭ったのだから休みたいが、ここで断れたらこんな仕事を続けていない。

『ハードドライブは持っているか?』

「監査課に戻れば」

『こちらでも用意しておく、足りなければ本部に来い』

「はい」

 通信が切られた。思い切り息を吸って、長く吐いた。それから自動運転の行き先をさっき出てきたばかりの監査課に設定しなおす。到着までの予想は十分だった。

 寝るにはちょうど良かった。


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