10
時刻は遡り。
データ汚染領域の拡大が止まった知らせが入ったのは事件発生から三時間が過ぎた、午後七時頃であった。
「はあ」
木戸真は本部の屋上にあるベンチに倒れこむように座り、マリファナを咥えた。
本部情報対策室に場所を借り、警察AIのアシストを受けながら無限に押し寄せてくる汚染されたデータに関する通報に対応し続けた。デルタ地区で通常業務に当たっていた数人の部下にも遠隔で指示を出しながら通報のあったデータ一つ一つにアクセス制限をかけ、そのデータからこれ以上被害者が出ないようにするという作業であった。やっていることは初犯の時と同じだが量は比較にならないほど多かった。
警察が即座にインターネット接続を自粛するように声明を行ったものの、複数のサーバーで同時に汚染が始まったので一瞬にして被害者の数が四桁を超えた。事態を重く見た柏原が端末会社に交渉し、流通しているほぼすべての端末のネットへの接続を強制封鎖することで何とか被害者の爆発的な増加を食い止めることに成功したのが二時間前。
その後にも汚染領域は広がり続けていたが、三十分ほど前に突然止まったのだ。今はAIに警戒を任せ、同僚たちはアクセス制限の処理を代わる代わる休息を取りながら行っている。署内の喫煙室に行かなかったのは十中八九他の捜査官がいるからだ。休憩中にまで議論や悪態を聞いていたくない。
――何なんだ。
間違いなく木戸の人生で最も大きな事件なのだが、まるで実感が湧かなかった。通常業務を十倍に濃縮した働きをし、署内がごたついている以外は、敷地外の通りや三階建て以下の低い建物とその向こうに伸びる九割がた暮れている夕焼け空は平和そのものであった。
だから恐ろしい。危機が迫っているのに察知できないことが一番危険なのだ。形のない、目に見えない恐怖がばら撒かれているというのは、今はナノマシンによって完全対策された菌やウイルスに近い。人類は課題を一つ乗り越えると、新たな課題を突き付けられる。ユートピアなど何年経っても来ることはない。
一人でマリファナを吹かしていると、コール音と共に部下から通信要求がポップアップした。ゆっくりしたいところだが、大事な連絡かもしれないので受諾する。
映った部下の顔は木戸に負けず劣らず疲労していた。デルタ支部のAIは本部に比べて低スペックなので苦戦を強いられたようだった。
「どうした」
「お疲れ様です。神井零の妻を名乗る女性が木戸さんに繋いでほしいと言ってきているのですが……」
神井零が家で自分の話をしたのか。名を知られていることはいいとして、コンタクトを求める理由は一つしかないだろう。
「私以外にこのことは話したか?」
「いえ、たった今の話なので」
「上に伝えるかは私が判断する。余計なことはするな」
「わかりました」
「よし、繋げ」
都市外れに左遷されたとは言え、エリート経歴の恩恵は消えたわけではない。部下を黙らせるくらいは容易かった。
ポケット灰皿にマリファナを押しつける。
木戸は念のために秘匿回線にして記録が残らないようにするよう指示を出した。
部下が相手に許可が下りた旨を伝え、新たに画面が表示される。どこにでもいそうな薄い顔の、しかし美人かどうか問われれば頷いてしまうような女だ。繋がったのを確認して部下からの通信を切る。
女は木戸を画面越しに真っすぐ見つめて言った。
「零の妻の神井流と申します。木戸刑事のことは主人から聞いております」
「そうでしたか。突然このような事が起きて混乱なされたでしょう」
「ええ、少し。拘留されていると聞いた本部に面会を求めたのですが、今はそれどころではないと門前払いされてしまって。回線も重くて大変でした」
「それで私のところに」
「はい」
夫が逮捕されているにしては気丈な振舞いをする、あの男に相応しい強い女だと木戸は感心した。無論表情には出さない。
「残念ながら逮捕直後の面会は難しいです。数日経ってからならば良いでしょう。しかしそれも確実ではない――今起こっているデータ汚染のことはご存知だと思います」
「ええ」
「何が起こるか分からない状況ですから我々は気を抜くことができない。今後の展開次第では面会が可能になるのはもっと後になることもあり得ます」
そうですか、と流は目を落とした。木戸は回線が秘匿になっていることをもう一度確認してから口を開いた。
「実は今、事件の対応にはひと段落がついています。今ならば、私の口添えがあれば面会できるかもしれません。短い時間になるかとは思いますが」
喜びからか、流の頬にえくぼができた。
「その前に、あなたに一つ伺いたいことが」
「何でしょうか」
「旦那様を我々が拘束している理由はご存知ですか?」
「連続精神汚染事件の犯人だと疑われていると。連れていかれるときに私も聞いていましたから」
「後からわかったことですが、問題はそれだけではないのです」
怪訝そうな顔をする流に、神井零の記憶が欠落していることと、それによって精神汚染事件も含めた何らかの事件に関する記憶を共犯者に指示して自ら消した疑惑があることを伝える。流は顎を引いて真剣な表情で聞いていた。
「それを踏まえてお聞きしたい。あなたは、神井零が犯人だと思いますか」
「思いません」
わずかな間もおかずに流は答えた。
「根拠は?」
「勘です」
木戸は口元を歪めた。
「実は、私もそう思っています。勘で」
流の顔から険が抜けていった。
「直観のほうが熟慮より優れている場合が多い。それは、五感で得た膨大な情報を元に判断するのが直感で、言語という少ない情報量で物事を捉えようとする行為よりも信ぴょう性があるからです。その勘が、彼は真犯人ではないと言っている。あなたもあなたの勘で彼ではないという結論に達したのなら、それは言葉で説明されるよりも信用に足るものです」
あなたが真犯人だった場合はお手上げですが、と木戸は笑った。
「いい刑事さんで良かったです」
「とんでもない。それでは、段取りができましたらこちらから連絡します」
「ありがとうございます」
通話を切り屋内の情報対策室まで足早に戻る。非常時なのでAIの接続許可は簡略化されている。いまだ作業をしている同僚の群れの中に空いている席を見つけて座り、端末を同期する。課題に対するAIの回答を見て顎に手をやり、数秒間で考えをまとめてから加賀美にコールした。
「なに」
声にも顔にも余裕がない。木戸は手短に用件を伝える。
「神井零の件なんだが、柏原指揮官は今話せそうか?」
「あんた変なこと企んでないでしょうね」
「いいから、できるのか、できないのか?」
「はあ、繋ぐわ。やらかさないか心配だから私も同席するけど」
「好きにしてくれ」
加賀美は木戸と通信したまま柏原に繋いで事情を話した。
柏原の目線が加賀美から木戸の画面に移る。モニタの向こうからでも彼の威圧感は健在だった。
「直に話したいとは、大きな問題でも起こったか」
「いえ、神井零の妻を名乗る女が面会を求めています。許可をいただきたいと思いまして」
「なぜそんなことをする必要がある。人手が足りない現状を理解していないのか」
柏原の言葉の端には木戸を軽んじている様子が見て取れた。必要以上にではない。自分の経歴を考慮すれば当然であると木戸は思う。むしろ通信が続いていることが幸運であろう。
「理解しています。これだけの規模の事件、個人で起こすことは不可能です。組織、もしくは犯罪AIが関わっていると考えます。ですから、神井零は関係ない可能性が高い、そうですね?」
「そうだ、既にAI犯罪課との連携体勢を整えている」
「しかし、可能性が低いからと言って白だというわけではありません。後手に回り続ける現状で唯一こちらにあるカードは神井零だけです。妻を名乗る女が共犯者である可能性も僅かではありますが存在します。ご覧ください」
木戸はAIの試算結果を二人に送った。
「妻、神井流がこのタイミングで神井零に接触を図ってきたことで、AIは彼女が精神汚染事件に関与している確率を一・六パーセント上昇させました。汚染事件以外の犯罪確率も上昇しています。これを多いと考えるか少ないと考えるかはお任せします。しかし警視庁が誇るAIがその判断を下したのです。無視はできないかと」
柏原の鉄面皮と睨み合いを続けるのはかなり勇気のいる行動だったが、ここで引いたら神井流の頼みを果たすことはできない。木戸は堪えた。
「実際には、家庭内事情は良好のようです。軋轢がないなら夫の記憶を奪い去って陥れる動機もない。仮に二人がグルだったとしても災害を起こせないのは同じことです。確率は低い。ですが、二人を引き合わせて様子を見るくらいはしても良いのではないかと具申致します」
「なるほど」
柏原は無感動に相槌を打ち、沈黙した。静寂が訪れる。木戸は辛抱強く返事を待った。十秒ほどで柏原は鼻息荒く言った。
「いいだろう。加賀美君」
「はい」
「面会は直ちに行い、十分で終わらせる。何か情報が引き出せそうなら延長させる。その様子をこちらでもモニタ出来るようにと監視係に伝えたまえ」
加賀美は了解し、木戸は礼を言って通信を終了した。
情報対策室の椅子の上でホッとしたのもつかの間、加賀美に流の端末番号を送信して段取りを行ってもらい、数分後にはVR面会が開始された。無駄のない迅速な対応である。
面会は衆目に晒されることとなる。記録されるデータは捜査に関わる人間なら誰でも見られるからである。
しかし、神井零がそれを気にする素振りはなかった。面会が始まるや否や流に飛びつく彼の姿を見て、木戸は仰天した。
――あの男がここまで取り乱すとは。
木戸はこれ以上覗き見ることが不愉快に思え、モニタから目を逸らして会話だけを聞いた。神井零という人物に対する木戸の勝手なイメージが崩れていく。
誰もが弱さを持っている。隠しているだけだ。まるで自分の弱さまで曝け出されたような気がして木戸は目を瞑った。
「木戸っていう人が手引きしてくれたの」
流の言い方に違和感を覚え、上を向いて目を開ける。恐らく、木戸が彼女と通じていると思われてあらぬ誤解を受けないように、あえて知らないふりをしたのだろう。
二人の会話は遠慮がなかった。監視されていることを意に介さず、自分の置かれている現状を客観的に分析して淡々と流に説明する零の声は、木戸の期待する冷静さを取り戻しているようだった。画面を見る。
二人は森の中に横たわる大樹の亡骸に腰掛けていた。手を繋いでいる姿はやはり見ていたくないが、次の言葉でそんな煩いは弾け飛んだ。
「ねえ、交渉できないかな?」
――何を言い出すんだ、この女は。
「特例措置で医者としての活動だけは認められないかしら。そうすれば情報を集めるチャンスはあると思うの」
木戸は唖然とした。
普通、拘留中の容疑者が外に出て自由に活動することはあり得ない。そんな発想は警察官にはできないものだ。
――いや、ありなのか?
今回の事件は普通の範囲に収まるものではない。異常に通常で対応して後手に回るくらいなら、泳がせて様子を見たほうが……。
しかしそれもリスクが大きい。監視の目を盗んで何かを仕込まれたり逃がしたりすれば大失態だ。彼らには患者を助けて記憶に関する情報を集めるというメリットしかないが、警察側にとってそのメリットはリスクに釣り合わない、木戸はそう感じた。
だが、神井零が唯一のカードだと言ったのは木戸自身である。リスクを冒してでも彼らの要求に応えるべきか。
彼らが汚染事件に関わっている確率は低い、だからと言って全く疑いがないわけでもなく、別の罪を犯しているのは確実というのが猶更ややこしい問題にしている。
警察として最善の判断は――
名を呼ばれ、トリップしていた意識が急速に画面に引き戻される。神井零は見当はずれな方向を見て語りかけてきた。
「木戸さん、聞こえていますか。もし上に打診して下さるなら、私にはその意志があるとお伝えください」
そんな必要はない。この面会は彼が想像している以上の人間に覗き見られている。木戸よりも発言権の強い者たちが何人も目にしているのだ。
木戸が呆気にとられているうちに面会の終了が告知され、二人がもう一度抱き合ってから接続が終了した。
背もたれに寄りかかると、隣の席に座っていた若い男の捜査官と目が合った。
「どうなるんですかね」
彼も面会を見ていたらしい。木戸が仏頂面で知らんと答えると彼は少し腹を立てたようだった。
彼が木戸の名前を知っていて話しかけてきたわけではないと分かっていたが、他人に優しくできるような精神状態ではなかった。
時計を表示させると午後八時前。どうせ帰れないので時間など気にしても仕方がない。事件発生からまだ四時間しか経っていないことを思い知らされて疲れが倍化しただけだった。
今頃上の連中は会議をしているだろう。AIに判断を仰ぎ行動するだけなのだから、会議などせずにさっさと全てを委ねてしまえばいいと思う。形式だけの会議に意味はない。
人間が作り出した存在でも、人間ではないものの言いなりになるということを、支配されることを本能的に恐れているのだろう。その気持ちは木戸にもわかる。
木戸は移動するのも面倒で情報対策室に残り、うわの空で作業を手伝った。我ながら中々の働き者である、と木戸は皮肉に思った。
その後の招集で緊張と憂鬱の入り混じったVR会議に出席すると、今までいなかったメンバーが居た。十人ほど人数が増えている。それに合わせて会議室も拡張されていた。
今度は初めから柏原が説明を始める。
「今回からAI犯罪課も捜査に加わる。指揮系統は変わらないが、実質的に彼らをサポートする動きになるだろう。それに合わせて班を再編する」
大方の班が各地区のデータ領域の調査に駆り出される中、最後に木戸の名前が呼ばれた。
「木戸班は神井零の臨時釈放に伴い、奴の監視と身辺調査についてもらう」
「は?」
木戸はVR酔いの体調不良で自制がきかなくなっており、素っ頓狂な声を出してしまった。柏原が方眉を上げる。
「不服か?」
「いえ」
「徹底的に調べ上げろ」
「了解しました」
柏原は木戸から全体に視線を移して締めくくった。
「事件解決までまともに家に帰れると思うな。腹をくくれ。我々の働きに日本の未来が掛かっていることを自覚しろ」
解散の号令で捜査員の姿が消えていく。
柏原の英断に、木戸の心は置きざりにされた。
駆け足気味?




